13/02/13(2) 官用車内:弥生さん、少しいいかな
運転席を倒して寝ていると、コンコンと窓をノックする音が聞こえてきた。
「シノ、終わった?」
「うん、じゃ帰ろうか」
車を出すと第一京浜は順調に流れている。時計を見ると一五時三〇分。暗くなる前には帰庁できるかな。シノは聞き込みの結果を報告書にしないといけないし、早く戻れるに越したことはない。
本日は真冬ながらも天気は快晴、運転日和。ハンドルを握る手も実に軽い。
「弥生、気持ちいいねえ。まるでちょっとしたドライブ」
シノが僅かだけ窓を開けた。俺もそれに合わせてパワーウィンドウのスイッチに手を伸ばす。冷たい風が額に吹き付け、清々しくしてくれる。
視界の端でシノが伸びをする。魔乳でベージュ色のスーツがはち切れそう。
「うちの課の空気は淀んでるからさ。余計に気持ちよく感じちゃう」
シノが婉曲に福山首席への嫌悪を示す。悪し様に罵らない辺りが彼女らしい。
シノだけではない。課の全員が福山首席を嫌っている。あの陰険陰湿な性格には誰もが何かしらの被害を被っているのだ。そのため、みんな外回りにかこつけて部屋から逃げ出している。ただし喫煙室警備の俺と、外回り経験のない新人を除いて。
「それでも昨日からは過ごしやすくなったかな」
「東北局首席への栄転が決まったからね。ずっと御機嫌でいてくれるから助かるよ」
「実にいいことだ。心から栄転を祝うよ」
仙台にある東北局の職員達よ。これからは俺達の代わりにお守りをよろしく。
シノがくすりと笑う。
「ホントにね。弥生はやっぱり本庁には帰れそうにないの?」
「ムリムリ。絶対ムリ。もう定年までずっと庁内ニートだよ」
「その内きっと戻れるって……ねえ弥生、一研の時の検事さんの講話覚えてるよね」
「忘れようがないだろ。『法務省において私達検事は神様です。そして君達は人間ではありません。神様に尽くす奴隷です。それが嫌なら今すぐ辞表を出して司法試験を受け直して下さい』とかさ」
夜の飲み会は、まさにお通夜だった。入庁間もない職員が奴隷呼ばわりされて落ち込まないわけがない。ましてや研修という公式の場においての発言なのだから。
「でも、弥生だけは『俺が絶対に公安庁を法務省から独立させる、そして一流官庁にしてみせる』って息巻いてたじゃない。あの時は頼もしくて格好良く見えたよ」
だって悔しかったから。でも一方では真顔で言っている分、ギャグにすら見えた。むしろお笑いネタとして庁内中に言いふらしたっけ。
なお公安庁独立は、俺というよりも反検事派キャリア全員の悲願である。政府内でも官邸の情報機能強化の一環として、公安庁と内調との合併論がしばしば俎上に載せられるくらいには荒唐無稽な話でもない。その方が国民のためにも明らかに望ましいはずなのだが、そこはもう「大人の事情」としか語りようがない。
「その検事さんに飛ばされてれば世話ないよ。せめて外回りの仕事に出られればなあ」
「うんうん」
「パチンコ屋にゲームセンターにネットカフェ、行きたい放題さぼり放題なのに」
「……そうだね。一日中喫煙室じゃ心も病むしね」
シノが間を置いてから返事する。言葉を選んでくれているのも気遣ってくれているのもわかる。その優しさはもちろん嬉しい。
でも、だからといってどうしろというのだ。
ここまで完膚無きまでに叩き潰されて復活できるほど霞ヶ関は甘くない。俺にできるのは世を儚みながら喫煙室警備を満喫する事だけだ。仮に外回りに出られたところで同じ、迷わず言葉通りの行動をとる。
とにかく給料だけはもらい続けないといけない。現在の俺にとっては、公安庁の将来や日本の平和なぞより、毎月請求されるマッシュの会費を工面する方が大事だ。
仮に辞めて転職しようにも前職照会で何を言われるかわからない。下手すればそれこそ本物のニートへの道が待っている。
口を開けば、きっとグチしか出ない。真面目なシノには聞き苦しいだけだろう。俺にしたって、現実を知らないお嬢様は何とでも言える、としか思えない。ここは黙って運転に集中しよう。
車内に沈黙が生まれてどのくらいの時間が過ぎたろうか。
結局渋滞に巻き込まれたため、見込んだよりも少々時間が掛かっている。薄暮で目が霞んできた。ヘッドライトのスイッチを捻る。
皆実はそろそろ家に着いただろうか。早く帰ってやらないと。
庁舎が見えてきた、あと少し。
ここでシノが呟くようにぼそりと口を開いた。
「誰にだって休みたくなる時はあるからさ、今はゆっくり休むといいよ」
ありがと、それだけ返して地下駐車場入口にハンドルを切る。
──部屋に戻るとすぐ、福山首席がちょいちょいと手招きをしてきた。
「弥生さん、少しいいかな」
福山首席は昨日から続く御機嫌顔のまま。はて、何の用事だろう?