3
さて、クドリが顕現されてから約三週間。
クドリがいつまで顕現されたままでいられるのかは本人を持ってしてもわからないが、ある程度の問題が解決されれば、あっさりといなくなってしまう可能性があることぐらいは容易に想像がついてしまう。
出会いがあってこその別れ。
また、その逆も然り。
事実、クドリもそのようなことを言っていた。
空気の読めない俺が、なにげなしにタブーへと踏み込んでしまったときの話だ。
「なあ、クドリ」
「はい、なんですか?」
例のように、もはや指定席と化したソファーの背の上で小さな体育座りをするクドリは、きょとんとした瞳を俺に向けてきた。
あいかわらずクールでキュートな不思議視線だ。
「オマエさ」
「はい」
「妹の問題が解決したらどうなるの?」
「え」
そして、この時の無表情が忘れられない。
それは宙に浮いて自己紹介する初期のクドリに似ていて、まるで任務を遂行するためのスイッチを押してしまったかのようだった。
「兄さん」
「お、おう」
俺は、ごくんと唾を飲み込んでしまう。
「それはですね」
と、クドリが言葉を重ねる。
「突然、溶けるように消えてしまうだけなんです」
そして、無言になってしまう。
「そうか」
「はい」
「すまんかったな」
「いいえ。そんなことないです」
「いや、空気の読めなかった俺が悪い」
「いえ、いつか聞かれることだと思ってましたので、問題ありません」
さらに、クドリの説明は続く。
「ただ、そんな私ではありますが、私と関わった当事者、それと当事者の関係した人は――この場合では、主に兄さんのことですが――ある感情をよく抱くようになります。
それは何に対してもあわてずにゆったりとした落ち着き、心安らぐような感情です。言うなれば、『悠々』とした感情。
また、この『悠々』という言葉にはさきほど言った意味だけでなく、はるかに遠いという意味もあります。皮肉にも、私がはるかに遠く離れてしまうという解釈もできますね」
「……」
「そう、私は上へ、上へと行ってしまいます。人の意識を超えたところへ。そして、また人の深層意識へと。これは、ただ内と外の違いだけで、単に私はそういう存在なんです」
「……」
言葉の真意こそ、半分以上はわからなかった。
だが、今を大事に思っていることは十分に伝わってきた。
ただ、今の妹の問題が永久命題なのかもしれないし、そうすればこのままずっとクドリはここに留まっているのかもしれない。
たとえば、妹の膨大なるエネルギーを狙う存在だって眉唾もので、全容も見えない。曖昧で憶測でしかない。問題がどうなっているのかはわからないと言っていい。
それに一つ解決しても、手を変え品を変え、次々と問題が発生してくるかもしれない。
それだと、クドリは消えたりなんかしない。
俺達は妹の不思議な力の前例を知らないのと同様に、クドリャフカについても詳しくは知らないのだと深く思った。
◇◇◇
「オトーフ、オトーフ」
「クドリ、ひざこぞうが出てるぞ」
「あ」
「座り方気をつけなさい」
「はい、兄さん」
あまりにも嬉しすぎて椅子の上で体育座りをしているクドリを、俺はやんわりとたしなめる。
クドリの大好物である湯豆腐という名のオトーフは、どんどんと無くなっていく。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「なんでなの?」
「なんででしょう」
「うぅー、だからなんでなのー」
「まったく。どうした? 妹よ」
「ううぅ~~~」
男子厨房に入らずがモットーで、夕飯をメインに作る妹。コイツは、摩訶不思議な料理を作る天才だ。もちろん悪い意味での天才だが。
「ねぇ。なんで、私の作ったお豆腐料理より、兄ちゃんがささっと作った湯豆腐に箸がのびるの?」
「なんでだろうな」
それは料理の腕が一向に伸びないのと、アレンジをしすぎるからだ、とは言えない。
「って、心の声が漏れてるからー! ひどいよ、兄ちゃん!」
「いや、俺は別に好きだけどさ」
「兄ちゃんっ!」
「不味いところがな」
「兄ちゃんっっ!」
「いや、味オンチだからな」
「うなー、それもなんか違うー」
そう言った妹はクドリの方を見て、また敗北感に打ちひしがれそうになっていた。
「て、手間暇は私の勝ちだからね」
「自分の料理がおいしいかどうかの答えを出す前に、そっちへ逃げたか」
「いいのっ! 愛情だって私の勝ち」
しまいには、俺の作った湯豆腐は食べ終えていた。そして妹の作った豆腐料理をちらりと横目で見やり、「ごちそうさまでした」と唱えた。
「ねぇ、ねぇクドリちゃん。私の作ったお豆腐料理は?」
「ご、ごめんなさい。いーちゃん」
気まずそうに視線をそらすクドリ。
「……」
「……」
二人の間に沈黙が走り、なんともいえない空気になる。
「いまごろ落ち込むなよ、妹」
「ねぇ、私に似たプロトタイプだよね?」
「はい」
「だったら食べれるよね」
「それがいいえ、なんです」
クドリは苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「どうやら食の嗜好は違ったようだな」
そして俺は、もう一度妹の作ったメインの豆腐料理に箸を伸ばす。この名状しがたい料理は、やはり名状しがたい味がした。まさにレインボー。
「ところで、クドリ」
「あ、なんですか?」
「ひとつお願いがあるんだ」
「あ、はい」
俺は一呼吸おいてから、それを告げることにした。
「今週、裏山に掘った穴を埋めさせてくれ」
裏山に掘った穴。それはクドリの重力と隙間を好む趣向のおかげで、格好のお気に入りとなった場所だ。
もちろんクドリが顕現される前から掘った穴ではない。
あの穴はバケツをひっくり返したようなすごい豪雨が来て、クドリが来てから一日で破壊された。だから今回埋めるのは、それ以後に掘った穴だった。
「な、頼むぜ」
「そうですか」
いささかしょんぼりしていたが、気を確かに持とうとした調子でクドリは言う。
「わかりました」
「いいんだな」
「はい」
「まあ、やることが終わったらまた掘ってやるぞ」
「ほんとですか?!」
「ああ」
「当たり前ですが、私もお手伝いします」
「で、兄ちゃん」
ここで、妹が口を挟んできた。
「その穴埋め、なんのためにするの?」
「わからないかね、妹よ」
「ん?」
妹はほんの少し首を傾げた後、合点がいったように手を叩いた。
「あ、そっか。もう少しで七夕かぁ」
そう、七夕。
うちの裏山には笹の葉がある。
ただ、裏山とはいうがそんな広くはない。
けど、笹の葉はそれなりに立派でもある。
だから、一度穴を埋めるのは景観を損ねたくない程度のものなんだけど、とても重要なことだった。
「クドリちゃんは七夕知ってる」
「知識としては理解していますよ。自分の願い事を笹の葉に書いてつるすんでしたよね」
「うん。そうだね」
◇◇◇
妹とクドリがお風呂から上がってきて、寝室に戻ってきた。
クドリはドライヤーで髪を乾かし始め、それを待っている妹は上気した顔をこちらに向けながら、どうでもいい口ぶりでこう言った。
「兄ちゃんさー、少しはハプニング的なイベント起こす気ないの」
「……」
何を言いたいのか、さっぱりわからない。
だが、いつものことだ。
「なんだよ、それ」
なので、ワンテンポ遅れて訊いてみる。
「こうーなんていうかさ、バスタオルを届けに来たらきゃーみたいな感じのやつ。ほら、マンガとかのシーンでよくあるでしょ」
「オマエ、兄ちゃんにバスタオル持ってきてもらったことあったか」
「そうだった」
にっ、と笑う妹。
「てか、妹とどうのこうのっていうより、クドリちゃんとどうのこうのみたいな場面が欲しいな」
「いーちゃん。呼びました?」
クドリが、くるりと振り向く。
すると、髪がぱさっと広がり、クドリの不思議な魅力が一気に拡散する。
「ううん、呼んでないよ」
「そうですか」
「なんか、想像できないよね」
「ははは、確かにな。ところで妹よ、なんで俺のところに来ているんだ」
「あ、なんかノリできちゃった」
妹はちゃっかりと、親父座りをした俺の上に座っていた。
あいかわらず、体重が軽い。
この年頃の女の子はみんなこうなのだろうか。
「髪、久しぶりに拭いて」
「まったくなぁ」
そしてちゃっかりと、バスタオルを渡してきた。
「しょうがねぇな。あ、もしかしたら俺にとって見たいシーンが見れるかもしれないから、それまで根気よくやるぞ」
「えっ、何? それは何?! わっ! 兄ちゃん! わしゃわしゃやりすぎ。髪がふわふわにならないじゃない」
「文句を言わない」
俺は構わずに妹の髪の乾かしながら、クドリの様子を見やる。クドリはこっちにはさほど気を取られず、自分の髪を熱心に乾かしていた。
「やっぱりないな。こればかりは、期待しただけバカだったか」
「あ、兄ちゃん」
「わかるか」
「わかるよ」
「さすが妹」
俺達は笑顔でハイタッチを交わした。
「両手に花作戦で、わしゃわしゃ攻撃するのを待っていたんでしょ。もし、逆の立場で私だったら、ずるいになっちゃうからね」
「ああ、そうだ。ただ、蝶よ花よだけどな」
「蝶よ花よ?」
ともあれ、そんな四方山話も佳境を迎え、二人も髪を乾かし終わる。
俺達は大きなベットの上に三人、百二十度ずつ背中合わせに座りあう。
「妹」
「ん?」
「なんか最近、エネルギーの力大きくなってないか」
「そうかな」
「そうですね」
と、クドリが言った。
「じゃあ、クドリちゃんが来たからかな」
「いや、逆だと思うぞ」
「そっか」
―――。―――。
―――。―――。
やがて、数分が経過した。
「ねむくなってきちゃった」
とつぶやくや否や、いつのまにか、妹は寝息を立てていた。
そして始まる、エネルギーの放散と、他者への譲渡。
無意識が意識を凌駕する睡眠中にのみ行われる妹の現象が、また行われる。まるで電流がスパークするように、小さな粒子が目に見える形で俺やクドリに伝導していく。
自身をオブジェクトの中心として、その周囲を衛星のように滞留するエネルギーが、三角錐の形を司っていく。
今回もまた神秘的な光景でもあり、目を見張らせるものであった。
◇◇◇
翌日。快晴。
昼休みで、俺は、クドリと隣の席の男子とでおしゃべりをしていた。
話している内容は他愛のないことなのだが、学習能力が高いクドリはそういう話にも自然とついていけるようになっていた。
これはすごいことだと思う。
と、その時だった。
「小林くん」
やや緊張した面持ちで、神田が俺を呼んできた。
手招きまでしている。
今日の神田の髪型は、髪を切ったのか内に巻くようなボブヘアーに変化していて、アクセントにカチューシャを着けていた。俺はその綺麗な髪の流れを見ていたのだが、べつに睨まれることはなく、うつむかせてしまった。
ドンマイ、俺。
睨まれたかったぜ、なんてな。
ただ、これは最近の神田に対する疑問なのだが、不機嫌さやボーイッシュなかんじ、あるいは正義感が強い委員長体質といった表情を、まるで見せなくなっていた。
本人の裁量なのだからなんら不満はないのだが、彼女は普通の女の子になってしまったようだった。
しかし、そうしてしおらしくなった神田は、男子の人気がうなぎ登りに上がっていった。
神田の良さに気づいていた俺は、今頃か、と心の中で毒づいていたりもしている。
「いってこいよ」
隣の席の男子がなんか恨めしそうに言ったので、俺は席を立ちあがる。
「ああ、じゃあ」
ここでクドリを見た。
「クドリを頼むぜ」
「オーケー」
と、奴は手を振って応えてくれた。
「小林くん。こっち」
「お、おお」
俺は、ドナドナと廊下まで連行されていく。
「い、いい天気ね」
神田が校舎の外を見ながら言う。
「そうだな」
「あの、ちょっと待ってね。もう一人くるから」
そして俺達を待たせて数分後、まさかそのもう一人が保健委員だとは思わなかった。
「よう、小林」
「おう、保健委員」
「いい天気だな」
「オマエもそれかよ」
「まあ、それは置いといてだが、今日は戦闘をしに来たわけではない」
「ああ、なんだかそのようだな」
しかし、神田も交えてのきな臭い空気は変わらない。
「で、なんのようなんだ?」
「それなんだけどね、小林くん」
「ああ、神田さんストップ。それは俺から言おう」
と、保健委員が神田を制した。
「そのだね、これは一つの話なんだが、作り話ではないとして聞いてほしい」
「わかった」
「じゃあ、はじめるぞ。ある日のことだ。俺と神田さんは、電車の中で偶然ともいえる出会い方をした。しかも隣同士で、ある引換券を手に持って。さらには同じことを呟いた。ある人を誘いたいなあ、と。しかも、それまでお互いの存在にはまったく気がつかず、呟いたことによってようやく気がついた」
そんなことを言いながら、保健委員はあるものを差しだした。
話の流れ通り、それはやはり引換券だ。
六枚ある。
なんの引換券かと見れば、前に街へ出たときに時間がなくて入れなかった六都科学館のプラネタリウムだった。
「つまり、俺はこれでクドリさんを誘いたかった。そして神田さんは小林を誘いたかった」
「え、俺を?」
「その、私は、そのなんていうか、べつにそこまで誘いたかったわけではなくて」
神田の語尾がだんだんと弱くなっていく。
なんだかかわいさの極限を見た気がした。
「ああ、神田はアレだな」
俺は感動しながら言った。
「そうさ、神田さんはアレだろう」
保健委員も似たような感銘を受けていた。
神田は、俺達が口々に発言すると、びくっと震えたように様子を窺っている。俺をひっぱたいていた頃の面影がまったくなくなっていた。
「おお、これは噂のアレか」
「ああ、これが噂のアレだ」
「こりゃ、かわいすぎるぜ」
「そうだ。俺たちの神田さんがかわいくないわけがない」
「だな」
「まさしくだ」
「だが、俺は前から気づいていたぜ」
「いや、俺の方がいちはやく気がついていた」
「いや、俺だ」
「俺だとも」
「ふざけんな、オマエにはクドリがいるんだろ」
「何を言う。それとこれとはべつもんだろーが」
「いい加減にして。私のことはどうでもいいから」
結局、丁々発止を繰り広げていた俺たちは怒鳴られてしまったのだが。
ただ、この期に及んで、保健委員と気が合うのはうっとうしかったからちょうどいい。
「とにかく話を戻すとだな、七夕がある日の一週間はこんな形でプラネタリウムが楽しめるんだ。だからその週の週末に、俺と小林、そして神田さんとクドリさん、この四人で行こうじゃないか。どうだ? 悪い話ではないと思うが」
「おう、大丈夫だ、ただし、一つ条件がある。後、クドリにも了解を取らなくてはならないからな」
「ああ、それはわかっている。なんなら俺と神田さんも一緒に頼もうか?」
「いや、いい。……やっぱ、一緒に誘うか」
そして、神田も言う。
「なら私も。それと小林くん。これダブルデートとかじゃないから。その一歩手前というか、予行演習というか……なんていうかわからないけど、そんなようなもののつもりで考えて」
しかし、かえって琴線に触れる神田の言い方だ。
「おい、第二弾来たぞ、保健委員」
「ああ、まさしくだ、小林。しかし、この場面だけはオマエがうらやましい」
「ちょっとちゃかさないで、二人とも」
「「ぐはっ」」
わりと本気でグーパンを入れられた俺達は、廊下を転げまわって悶絶した。
さっきはあまりにからかいすぎたせいか、神田はこれまでの調子に戻ったようだった。やれやれだぜ。
◇◇◇
「というわけでどうだ? クドリ」
「はい、いいですよ」
件のプラネタリウムの話をあらかた説明をしたところ、やはり帰ってきた返事はあっさりオーケーだった。
あの後、俺は俺でせっかく券が六枚あるんだからと、妹と妹の幼馴染の武井くんを誘うことを容認させた。
神田も保健委員も、べつに反対といったふうでもなかった。
「楽しそうです」
「そりゃそうだろう」
「架空の星空ですよね」
そう言って、クドリは空を見上げた。上空では、やけに立体感のある雲が早いペースで流れていく。あのわっかのような雲の形はなんだろうか、と夢想していたところ、
――ドーナツですね。
との声が聞こえてきた。
「《共感覚》か」
「はい」
「ほんの少しだとしても、俺発信としての意思疎通ができるとはここまで思わなかったな」
「いいえ、そんなことないですよ。私と兄さんはかなり大きな範囲での意思疎通を何度もしています。たとえば、私が不可視状態になったときには、そう、何度も」
「そうだな」
クドリのいうことはもっともだった。
「ただし、なんでもない日常で《共感覚》が発揮できるのは進歩したかもしれません。あー、あの雲は本当にドーナツに似ていますね」
「ドーナツ」
「はい」
「……」
そういえばクドリは、この界隈で有名な神田のベーカリーハウスの味を知らないでいた。委員会がある明日辺りに、帰りに神田の家にでも寄っていこう。
「それにしても兄さん。重力は最高です」
裏山にて、最後の重力遊びをしながら、クドリは満足げに言う。
これを見ていると、クドリはジェットコースターが大好きなんだろうと思う。いつか遊園地に連れてってやりたい。
クドリにさせたいことが、いろいろと思い浮かんだ。
「さて、クドリよりも答えは決まっているんだろうけど、うちの妹と武井くんに聞いてみようか」
「いーちゃんには、聞かなくても答えは出てますよ」
そう、少し離れたところでは、妹と武井くんが穴埋めをやっている。
彼はまた手伝いだ。妹の指示を懸命に聞いてやっているが、あまり要領のえないやり方に頭を抱えていた。
要領といえば、俺の指先のフィーリングや妹の不思議な力を使えば、この穴はたやすく埋められる。だがしかし、この穴に対してそういうのを使うのはクドリに対する冒涜であり、何か間違っている気がした。
「武井くん。ここをこうしてこうやろうよ」
シャベルを片手に熱弁をふるう妹。
武井くんは、また微妙そうな表情を浮かべていた。
「武井くんはいい人ですね」
「そうだよな」
ちなみに、クドリと武井くん。この二人は前から知り合いだったかのように挨拶を交わしている。
「おい、妹」
「ん? なに、兄ちゃん」
俺は妹のところまで駆け寄っていく。
「オマエ、もう少し効率の良いやり方でやれよ。さっきから見てると、武井くんも困っているじゃないか」
「ほへ?」
「ほへ、じゃない。どう考えてもこのやり方はよくないだろ。なあ、武井くん」
「はい。でも、いーちゃんのやることですから」
「ほら、あきれている」
「うなー。兄ちゃん、ひどい。武井くんまで」
妹が泥のついた手でポカポカ殴ろうとしてきたので、瀬戸際で手首を抑え、その被害を慌てて食い止める。
そして、いち早く穴の埋め方の説明に入った。
「いいか、まずはここをこうして、こうすればいい」
「あ」
「だろ。次はこうだ」
やがて居心地が悪くなったのか、ほっかむりを決め込む妹。それを、俺と武井くんで温かく見守る構図ができあがった。
「な、こうすればいいだろ」
「う、うん」
妹は頬をふくらましつつも頷いた。
「そう怒るなって」
プッシュ、と頬を突っついて空気を脱出を図らせる。
「にゃ、兄ちゃんっ!」
「とまあ、さらに怒りを増幅させたところで嬉しいお知らせなんだけどな。聞きたいか、妹よ」
「え、うそ、なに? 兄ちゃん」
どうしてここまで一気にテンションを上げることができるのだろうか。
俺はたじたじになりながらも、六都科学館のプラネタリウムが見られる引換券を友達から貰ったことを告げる。さらに、都合が悪ければ、七夕の週ならばいつでも行けるよ、と説明を付け加える。
「やったー。やったー。って、兄ちゃん達と一緒に行くに決まってるじゃん。兄ちゃん達が嫌ならアレだけど、そういうわけじゃないんでしょ? それにクドリちゃんも一緒だし。ねー武井くん」
「え、僕?」
「そうだよ」
僕でいいんですか、という表情で見てくる武井くん。
彼もまた、ホントに嬉しそうだ。
「ああ、まあ、一応妹と武井くんのつもりだったぜ」
「はいじゃあ、決定」
妹がダメ押しとも言える、満面の笑みで言い切った。
◇◇◇
さて、プラネタリウムの前に七夕の日の前日がやってきた。
他の行事とは違い、待ちに待ったというわけでもないのだが、妹のその日の様子を見ていると、ああ、来たんだなと思ってしまう。
とにかく、妹が好きなのだ。
この七夕という行事が。
たとえば、七夕の数日前から、短冊に吊り下げる願い事を考えるためにそわそわし始めていたり、七夕の歌を歌い始めていたりと、いろんなことをしている。特に七夕の歌は、そこまで著名でもないのに覚えさせられたぐらいだ。
とにかく、毎年、裏山の青々と茂った竹に願い事を飾りつけするだけのこの作業、妹はクリスマス並みの熱心さでこなすのだった。
「ねぇ、兄ちゃん」
「どうした?」
「私、どうして、こんなに七夕が好きなんだろう」
「俺にわかるわけないな」
「こんなに好きだから旧暦もやっちおうかな」
「それだと、ありがたみがなくなるんじゃないか」
「そっか。やっぱ、七月七日だよね。でも、どうしてなんだろうなー。クリスマスよりも七夕の方にロマンを感じるからなのかな。ほら、織姫と彦星とか、ベガとアルタイルとか、夏の大三角形とか……夏の大三角形は違うかなぁー」
そんなことを言いながらも、妹は短冊を吊るしていく。しまいには、短冊だけでなく、自作で作った竹の飾りまでも吊るし始めていた。
「なあ、妹」
「ん?」
「月並みなこと聞くけどさ、なんて書いたんだ」
「兄ちゃん」
くすくすと笑う妹。
「なんだよ」
「兄ちゃんさ、毎年同じことを聞いているよね。しかも同じ口調で」
「そうか? でも、妹が七夕の日の前日は見ちゃだめだって言うからじゃん。なんでそうなんだ?」
「え?」
言われて妹は考え込む。
「で、どうなんだ?」
「えっとー、それはなんとなくだよ。だってその方がいいじゃないっ」
そして妹は、また飾り付けを再開した。
そうこうしているうちにクドリもやってきた。
「短冊書くの遅れてごめんなさい、いーちゃん」
「うん、いいよ。で、どうしたの?」
「それは、星までの距離を綿密に計算していたら、願い事が届くことはありえないんではないかと考えてしまったもので」
クドリは悠々とした調子で、痛いところをついてきた。
「クドリ、それは正しいぞ。しかし、そこはアバウトなイマジネーションで補わなくてはならないところなんだ。現実は幻想と比べてアレだから」
「うなー。兄ちゃんっ! そんなこと言わないで。しかもクドリちゃんも頷かないで」
◇◇◇
他はどうだか知らないが、家では七夕の飾りつけを始めるのが前日の夜遅くだ。終わるのは一二時過ぎになる。
よって夜中に七月七日を迎え、飾り付けは一日じゅうしておくこととなる。
「ふぅ~、終わった」
妹が明らかにやりきった表情で呟いた。
「てか、ほんとに凄いな。今年も、どこに短冊があるのかわからない状態だ」
「でしょー。凄いでしょ」
「いや、本末転倒なんじゃないか」
「そんなことないよ。後、時間だってちょうどいいぐらいだし、これぐらい飾り付けなくちゃだめだよー」
「わかった、わかったから落ち着け」
「それにしても七夕は凄いですね」
「そうでしょ」
「確かに、穴があったら景観が損なわれます」
クドリが冷静に分析した。
「そっちかー」
妹は、がっかりした様子で肩を落とす。
「そんなことないですよ。いーちゃんが飾りつけした竹がすごいと思っていますし」
「ほんと、ありがとう」
「でも、やっぱり重力を体感できないのは、残念ですけどね」
「やっぱりそっちかっ」
軽い調子で、妹がクドリにツッコミを繰り出した。テンションが高いまま、二人とも笑顔でやり合っている。
「なあ、妹。ところで、もう見ていいんだよな」
「あ、うん。でも、どこに短冊があるわからないでしょ。まあ、ちょっとした宝探し気分を味わうといい」
「おい、なんかうざいぞ」
「ふっふっふ」
腰に両手を当てて空威張りする妹を見て、なんだか無性にむかついた俺はある嫌がらせをすることに決めた。遠目で探すふりをして妹の後ろに回り、開いているわきに手を入れくすぐりを断行したのである。
「きゃー、兄ちゃんっ!」
案の定、悲鳴を上げる妹。
「兄ちゃんてば、兄ちゃんの、ばかぁー!」
「オラオラオラー」
「あはははは、兄ちゃんハラスメントだよ。それ、セクシャルゾーン大幅に突破してるってば、レッドゾーンだよ、いや、ピンクゾーンだってば、あははははははっ!」
しかし構わずに続ける。
そして、妹が本気の抵抗をし始めたのでようやく取り止めた。
妹はワライダケを食したかのように肩で呼吸した後、ようやく発作が治まったのか、ばちっと俺を睨みつけてきた。
「もう、兄ちゃんのばかっ!」
そして眉をひそめ直した妹は、どうやら仕返しを企てているようだ。
「くすぐってやる」
「きゃー」
「なんなの、その悲鳴」
「や、やめろー妹よ。助けてー」
「んもー、なにその小さい子を相手にするような言い方」
そうして俺と妹がくだらない追いかけっこに終始する中、いち早く短冊を探していたクドリが声を上げた。
「あ、二人の短冊ありましたよ」
俺と妹は動きを止める。
自然とそっちに足が向かった。
「そして、これが願い事ですか」
クドリがうんうんと頷きながら言う。
「ところでいーちゃん、それと兄さん」
「なに?」
と、妹が訊く。
俺もクドリに視線を向ける。
「たとえば、ここに書かれている願い事が叶えられたら、もっと幸せな気持ちになれるんですか? 二人はどうなんでしょう」
クドリが問いかけてくる。
「それはちょっと違うな」
「うん、違うね」
「そうだよな」
「とは言いつつも、兄ちゃんの願いは俗物的なことばかりだね」
「それを言うなら妹の願いも、すべて俗物的だろうが」
そして俺達は、クドリの短冊に何が書かれているかを探し始めた。