1
季節は六月。
この暦に入っても、梅雨の気配はまだやってこない。
ずいぶんと前からずっと快晴。向こう一週間もあいかわらずの晴天マークだ。
そして、昼休み。
ぼんやりと教室の窓から外を眺めていたせいか、俺は、神田麦の再三なる呼びかけに気がつかなかった。
「小林くんってば」
「いてぇっ」
いきなり足をガツンと。目の前で星が散る。刻の涙ってやつだな、これ。
「小林くん」
「なんだよ」
見れば、目の前で不機嫌そうに腕組みをする神田。
やはりお怒りだ。
トレードマークの大きな瞳が、俺をにらんでいる。
「顔怖いぞ」
「うるさい」
で、そんな神田についてなのだが、当初、ボーイッシュなのにかわいい系みたいなオンリーワン的人気があった女の子。しかし、無駄に正義漢が強い委員長体質のせいか、男子からやいのやいのと騒ぎ立てられるポジションへと変化してしまった。
ドンマイ。正直者の神田。
でも、俺はその役回り好きだぜ。
「あのさ」
「ん?」
「私の話、聞いてなかったの?」
そして今、その矛先は、なし崩しの成り行きで学級委員長にさせられたもう一人の人物へと向かっている。
つまるところ、俺のことだった。
「ああ、すまん」
「謝るってことはさ」
「そう、聞いてなかった」
「やっぱり」
さらにショートカットから飛び出たつむじ付近のゴムの毛先を見つめていたら、おもいっきり睨まれた。
ドンマイ。不用意な俺。
でも、その髪型はわりと好きなんだぜ。
「ところで、なんの話だったわけ」
「結局、まったく聞いてなかったんだね」
「まぁな、それで?」
「だから、先週の委員会の話」
再び、批難の視線でこっちを見てくる神田。
「あぁ……」
とにかく、なんともいえない表情を作ってごまかすことにした。
「そんな顔には騙されないからね」
「そうか」
返事までも空元気。
神田が大きな瞳を向けてさらに言う。
「結局、私がなにを言いたいかはわかってるの?」
「おう」
もちろん、思い当る節はありありだ。
「なんとなくわかるんだけどさ」
その言葉は嘘。
ホントはしっかりと自覚している。
「本当に?」
「本当」
「なら、今日という今日こそは集まりに参加してもらうから。さすがに、今日サボったら許せないと思う」
「だよなー」
俺はお気楽に言った。
「だよなー、じゃないと思うんだけど」
「そっか、今日の放課後だな」
と言いながら、放課後どうやってこのピンチを逃げ切れるかの算段を企てていると、「ん」と神田が指を突き出していた。
なぜかキリッとしたいい表情だ。
「なに、これ」
「指きり」
「そんな子供っぽいことすんの?」
「いいから」
その表情に一瞬だけ、とてつもないかわいさの片鱗を感じた。
そして、小指を絡めて。
「いててててぇ! 裂けるぅ! 裂けるぅぅぅ!」
「ぐぎぎぎぎぎ、と」
「ちょっと待って、何その効果音! 効果音尋常じゃないんだけど! 俺どうなるの?! どうなっちゃうの?!」
「さらに、ぎぎぎぎぎぃ、と」
「痛い痛い! 引力! その引力すげぇぇぇよっ!」
しかし、平然とした涼しい顔で小指を壊しにきたのか。
神田麦、恐れ入る。
やがて神田は、俺の血の通っていない小指を放して言った。
「ていうか小林くん、今日こそは本気で待ってよ」
「あ、うーん」
ただ、これでもあいまいに頷く。
「しょうがないな。だったら、私が作ったパン一つだけあげるからさ」
「え?」
これを聞いて、俺の目の色が変わった。
「これでもダメなの」
「いや、それマジで?」
「あ、試作品だからそこまで期待されても困るけど」
「いやいや、それでも十分だし。てか、今までだって、俺が一方的に悪いんだけど……いや待てよ。それホントに? マジでか?」
俺は少々混乱しているようだ。
「うん」
と、神田は頷いた。
そう、神田の家はベーカリハウスである。
この界隈では、知らない人がまずいないパン屋だ。
景観を損なわない程度に明るいオレンジ色の屋根と、土産物のパッケージような風見鶏――この二つは店のシンボルとしてとても有名。もちろんパンの味も、かなりの絶品。
そしてそのなかでも、噂の看板娘(神田のこと)が丹念に作った希少価値のパンをいただけると、とても幸福なことが起こるという都市伝説がまことしやかにささやかれていたりする。
「あーでもさ、あれなんだよ」
「何?」
「神田、食う方担当なのはいいんだけど、妹が作る摩訶不思議な夕飯のせいで、俺、相当の味オンチなんだ」
こくりと首をかしげる神田。
「ほら、神田の作った試作品のパンは食べたいんだけどさ、ぜったいにうまいんだろうけど……でも、この味を判別できない可能性がなきにしもあらずで」
いや、ちょっと待て。
頭をかきながら何を言っているんだ、俺。
あまりにも嬉しくて、支離滅裂なことをしゃべっている。神田自らが作った特製のパンを、むざむざと逃してしまうような真似だけはしたくない。
「それでもいいけど? 小林くんなら」
「ほんとに?」
「感想とかなくても構わないから」
「そうか。ほんとにいいのか」
「うん」
こうして俺がほっと胸をなでおろしているあいだに、神田はトートバックのようなものからタッパーを取り出していた。
透明で中が透けて見える。
特製のパンは見た目からして素晴らしかった。
「すげぇ。さすがだ」
「はい」
タッパーを渡される。
「おぉー、これ、店で見たことあるような気がする」
こっちが騒がしくしていたせいか、周囲の男がやっかみはじめた。
「おい、なんだアレ」「ああ、成り行きでいいから学級委員になっておけばよかったっ」「流れに乗じて神田を煙たがっていたけど、なんか普通にかわいいじゃねぇか」「しかも、幸福なことが起こるというあの都市伝説のパンだぜ」「ちくしょう」「このやろう」
そんな怨嗟の声が聞こえる。
だが、今さら気づいたって遅い。
「ほんと、これやべぇーよ。麦ちゃん」
「ということで、ちゃんと参加してよね。それと、小林くん。その、麦ちゃんって呼び方は、私がパン職人として一人前になるまでやめてって言わなかった?」
「あー、そこは妥協しないんだったっけ」
「うん」
さらに神田は、言いにくそうに口を開く。
「あー、後、あのね、最近の小林くん、なんだかぼーっとしていたから。それで元気出してほしくてさ。いつもはあの三人組でしょうもないバカやっているよね。けど、最近そんなことなくて。やっぱり元気ないのかなぁ、なんて思ったりしたから」
なぜだか、やけに早口でまくし立ててくる。
「でさ、小林くん。これ、今は食べないで。今から三時間ぐらいしたら――そうね、ちょうど委員会の集まりが終わったころに食べると、もっと美味しくなると思うから」
「オーケー。ああ、オーケー」
神田の様子を窺いつつも、返事をする。
「ほんと、ありがとな」
「いいよ。お礼なんて」
「いやいや。あー、なんだか今日の神田は、特別にかわいい気がしてきた」
「……」
「……」
なんか言ってくれないと寒い。
これでは、ただ単に寒いだけだ。
「そんなわけ、ないから」
結局神田は、素敵すぎる微妙な間で呟いた。
「いや、そんなことないけどさ」
このままでは、間が悪い
なので、さらに神田をからかうことにする。
「普通にかわいいぜ、神田」
まるで妹にするように。
「ばかみたい」
「だよな」
そうしてほんの少しだけ表情を崩して去っていく神田の後ろ姿を、俺は黙って見つめていた。
あいかわらず足がきれいだな。長くて細っこくて素晴らしい。
そんなことを思っていた。
◇◇◇
「ていうか、これ、どこの場面に出しても恥ずかしく完全無欠の罰ゲームメニューじゃねぇーかぁぁぁ! なぜだ? なぜ、疑いもせず大口開けてしまったんだ、俺は。なんだこれ? タバスコか? タバスコじゃないのか? はい、タバスコでしたぁぁぁ! おい、でてこいやぁ神田! パン屋の娘のくせにこんな小道具使うなんてサイアクだぞぉぉぉ!」
結果、俺はドラゴンになった。
「ヒーハーーーーー!」
「なんだなんだ」
「ヒーハーーーーー!」
「二度も同じ口調で言うな」
「いいから水だ水だ水だ水だ水をくれぇぇぇーーー!」
この騒ぎを聞きつけ、指を立てて囃したてる者や、げらげらと笑い声を上げる輩もいる。
「おい、奴が活動をはじめたぞ」
そして、誰かがそんなことを言った。
だが、今は違う。
「とにかく水をくれ」
「そうか」
「いや、水になりたい」
「そうなのか?」
「俺は水人間になるっ」
「勝手にしろ」
相槌をくれたやつ、サンキューな。
ただ、そんなどうでもいいやり取りの最中、またある一角ではどうでもいい準備を始めていた。
「き、気をつけろ。小林はなにをしでかすかわからんぞ」
「そうだ。偶然にしたって、リアルで校長のヘアーにペイント弾をぶつけたのは、あんな状態の小林だった。今はもっとも危険だ」
「いや、あいつ一人ならまだマシだぜ。小林だけでなく、いつもの三人組の覚醒が一番危険だ。なんせあいつらは、入学してから一週間で後ろ指差され隊って言われるぐらいの変人軍団なわけだ」
「しかし、今は奴一人だけ。ならば、きっとなんとかなる。だが、けっして油断するなよ。やっぱりなにをしでかすかわからねぇんだ。とにかく、この教室から一歩も外に出させるな」
くちぐちにわめき立てる我がクラスメイト。
そして、俺の仇敵の保健委員の合図で、数人の男子がフォーメーションを組んだ。まるで、架空のリングとペイントエリアが浮かび上がってきたかのようだった。
――戦えよ。
そんな幻聴が聞こえた気がした。
「おい、小林」
「なんだ保健委員」
「オマエ、そこまでして、水が飲みたいのかッッッ!」
「保健委員、いいからここを通らせろッッッ!」
「小林。なら俺の屍を越えていけッッッ!」
「超えてやるとも、オマエぐらいッッッ!」
そうさ、保健委員。
俺は、ここを突破してやる。
こうして、無駄な決闘が始まった。
「お、おい、なんなく突破されるぞ!」「もういちどフォーメーションを組みなおせ!」「とにかく、身体をぶつけるんだぁ!」「ダメだ!」「やばいぞ!」「おい、どうにかしろ! 突破されるぞ!」
左右から襲い掛かってくる軍団たちを華麗に交わしていく。左に右に爆発的なステップを踏んでいき、軍団たちに攻撃を加える。
「オラァァァァ!」
「グァァァァァ!」
「オラァァァァ!」
「グギャァァァ!」
クラスメイトたちの断末魔。
そして、ばたばたと倒れていく。
「くそ、小林の奴め」「ちくしょう」「さすがだ」「やはり、俺たちに……」「俺たちには」「けっして出来ないことを」「平然と」「平然とやってのける」「そこに」「平然とやってのける!」
「「「パロディーならラストあわせろよ! 保健委員がぁ!」」」
最後にそんな残響が聞こえてきた。
ともあれ、俺がいじられ役なのを前提にしているかのようなやり取り。なんだか、彼らの適応力が異常に悔しい。
だが、とりあえず教室は突破したのだ。
しかし、俺が水飲み場エリアに向かおうとした矢先に、制服の首筋をつんのめってしまうぐらいの勢いでつかまれてしまった。
「――――」
張本人の神田だった。
――ぐいっ。
いてぇって。
女の子なら袖口のすそをちょこんとつかむだけにしてほしい。そうすれば百倍かわいく見えるぞ。
「ん」
それで渡されたのは、ふたのないペットボトル。
どうやら俺に水をくれるようだ。
「これ、半分以上もないのな」
自然とくちびるに目がいく。仕方がない。男だし。
「間接キスか」
「……」
「……」
「そんなことを意識するのはいいけど、断然そういうのじゃない。べつに意識していないし、意識されてもアレだから」
わかりやすい照れ隠しを期待する発言だったが、やけに緊張しくさって真面目な表情。なので、その可能性をすぐさま排除した。
「じゃあ、いただくな」
とりあえずすぐに水を飲んだ。タバスコのひりひりが少しずつ取れていく。
「小林くん、何か言うことないの?」
「ん、助かった。水、ありがと」
と言うのはいいが、得体の知れない違和感。
「……」
「ん?」
「って、俺が苦しんだのはどう考えてもおまえのせいだろっ! パン屋の看板娘でありながら、それを冒涜するかのようなパンを作るとは思わなかったぜ」
「そう。私だって思わなかった。つまり、それぐらい今までの小林くんのサボりにむかついていたってこと」
「うっ」
「私は、クラス代表として一人で集まりに出てて、少々さびしかったりもしたんだから」
それを言われると元も子もなかった。
というよりも物凄い寂しそうな顔されたので、いつのまにか素直に謝っていた。
「ごめん、神田」
「……」
「なんか言わないのか」
「うん。ちょっと待って」
しばし待った。
そして――。
「もう、べつにいい。さっきので、だいぶ気が済んだし。それに小林くん、今度からは集まりに参加してくれそうだから」
神田が言う。
「ここまでされて、またサボったりしないよね」
「おう、大丈夫」
「ホントに?」
「ホントだ。今度は一週間後だろ。ちゃんと残れる」
「そう」
「例のアレもそろそろ終わるからな」
「ん? 例のアレ?」
「ああ、そうだな」
俺が一人頷いていると、神田を先を話すように促してくる。
「あのさ、ここ最近ずっと穴掘って忙しかったんだよ」
「?」
「だぁから、穴掘ってたんだ。いや、掘らなくてはいけなかったわけだ。妹が、どうしても掘らないとダメだっていうから一緒にな。ヘルメットかぶって、こうやって掘削機持って、ガガガガガガーってな感じでさ」
やはり、神田は怪訝そうな顔だった。
「ちなみに、夜中にやってくるでっかい隕石を迎え入れるための準備だよ」
「意味分かんない」
「ん、そりゃそうだな。こりゃ、ただのつまらない比喩だから。ああ、もちろん煙にまいたわけじゃない。まあ、そのうち分かるようになるかもしれないぜ」
「なにそれ」
「そんじゃ、アデオスってことで」
「あっ!」
「そういう理由で、まだ今日は急いでるから」
と言いつつ、神田のもとから離れようとする。
しかしその瞬間。
「小林くん」
神田は、なんともいえない微妙な表情をしながら呼びかけてきた。
「また、四月みたいにおかしなこと計画しているの?」
「いいや」
「そう?」
「そうさ」
「小林くん」
「なに?」
「あのさ」
「うん?」
「……」
「……」
「ア、アデオスっ」
神田は、何のてらいもなく駈け出していった。
「おう、アデオース」
また返事をしつつ、改めて思う。
俺は、この別れる瞬間がわりと好きだと。
別れるという行為は、一人だと絶対に訪れない瞬間だから。いや本音は、神田の細っこく長い脚が、存分に堪能できるその後ろ姿に喝采をあげてるだけか。
「――――」
結局、そんな益体のないことを考えながらも、空になったペットボトルをゴミ箱に投げ入れた。
そう、ペットボトルを投げ入れる。
そして、《指先のフィーリング》を作動する。
するとそのペットボトルは、正規の軌道ではありえないバウンドと放物線をえがいてゴミ箱に吸い込まれていく。それはまるでゴミ箱というオブジェクトを中心としてとらえ、そこに収束していくようだ。あるいは、何度もテイクアクションを繰り返して撮れた、奇跡の一コマといってもいい。
そして、その不思議な光景を視界にいれているはずの人達は、誰ひとり疑問に思うこともない。
誰の意識下にも置かれない。
否、誰も意識下に置けない。
最後に俺がパチッと柏手を打つと、ゴミ箱の中のペットボトルがそれに呼応して、カンカン、と音を鳴らしてくれた。
「サンキュー」
と、俺は一言だけ呟く。
◇◇◇
それはなんでもないある日。
ちょうど、今日から一年前の梅雨真っ盛りの頃だった。
我が妹が、世界の心理の内側をほんの少しだけのぞき見たような顔をして、とても奇妙なことを言い出した。
というのも、三つ下の妹は物心ついたときから俗にいう不思議な力を持っていて、取りも直さずその力を気にいっていた俺は、妹の不思議な力を自分の方へと放散させてもらい、それを日常の由無し事として遊ばさせてもらっていたという事実から来ている。
そう、たとえばその力を使ってペットボトルをゴミ箱に捨てるように。
まあ、それはともかくとして、妹はこう言った。
――この世界には、地球上に感知できないエネルギーがあって、その特殊なエネルギーの象徴体には《クドリャフカ》という名前がついている。
――そしてその名前は、深層心理として誰の心の中にもひそんでいるものらしい。
――さらに《クドリャフカ》は、人格に近いものを持っていて、不思議な力を持ってしまった人間の《監視調査機関》としてやってくる。
そういう趣旨のようなことを、いつもの太陽みたいに明るい調子で宣ってくれた。
そして現在、神田に察知されたように、俺たちは《クドリャフカ》を迎えるための準備をこしらえていた。
それも妹の予感をもってして。
ちなみに、妹は妹である。
名前では呼べない。
妹曰く、「名前で呼ばれると、よくない核できちゃうからね」と。
詳しくはわからないが、核ができると不思議な力のエネルギー放散が難しくなり、つまるところ、ガン細胞みたいに悪性化していくらしい。
そうすると、妹の身体の中でエントロピー化して膨らんでいき、当然の帰結として膨張し続けていくエネルギーの爆発が起こってしまう。
超局地的で小規模なビックバン。
膨らませていく風船がやがて破裂してしまうのと一緒で、宇宙の真理のほんの一端をひも解いてみなくても分かり切ったことだった。
だから、妹の知り合いは妹の頭から一文字とって「いーちゃん」と呼んでいる。
これは妹が、好きな小説のキャラクターで強引に押し通したとのことだった。
ある意味、そのキャラクターとは対極的な性格をしているのが難点なのであるが。
◇◇◇
「兄ちゃんのばかっ!」
穴ばかりぼこぼこ開いている家の所有地の裏山に、妹の杜撰な声が響き渡った。しかも、いつもの口癖。
「おまえ、NGの声出してるぞ」
「NGの声ってなによ?」
「だからNGはNG。そのまんまの意味だよ」
「そっ、そんなの関係ないもん。それよりも、六月は兄ちゃんと一緒にできるかぎり穴を掘るって約束したのにー」
ヘルメットと作業服のツナギ姿の妹が、健気に文句を訴えてくる。
やはりというか、だいぶ遅くなった影響が出てしまった。
あっちを立てれば、こっちにとうが立つ。まあ、だいたいはそんなもんだ。
「――だから、兄ちゃんってばっ!」
俺が妹の文句をあらかた聞き流していると、妹はいつのまにかヘルメットを脱いでまで怒っていた。
髪の毛の量が多くて癖毛の妹は、ゆるふわにするのが信条らしい。が、残念ながらヘルメットの影響か、今はへたっている。心なしか、その緩く結んだみつあみも。みつあみに罪はないけど。
とにかく俺は、的確に妹の弱点を突くことにした。
「おい、妹。髪、ふっわふわしてないぞ」
「はうっ!」
妹は急いで、自分の髪をわしゃわしゃとやり出した。
「私の弱点を的確に突いてきてー」
ポコポコポコ、とか弱いタコ殴り。
やはり、同じことを思っていたみたいだ。
さすが唯一の肉親。
「てか妹よ。今はそれどころじゃないと兄ちゃんは思うぞ」
「へっ?」
「さっきからさ、なんともいえないような表情をして突っ立っているじゃないか。おまえの隣にいる男の子が」
「あー、武井くんの存在、すっかり忘れてた」
妹がすっとんきょうな声を出して、また空気の読めない発言をした。
「それでも同い年の幼なじみか!」
妹がセルフツッコミを繰り出す。
つけ加えれば、妹とは小中八年間同じクラスだったりもする。なにげに関係性が深い。ただし、今のところそれ以上の関係性は認めないが。
武井くんはというと、
「いいですよ。お兄さん」
なんてお茶を濁しているもの、がっかりしているようだった。
「すまんな、うちの妹が空気読めなくて」
「んーと、まあ、いつものことですし」
「うなー。武井くんまでー。兄ちゃんだって全然反省してないじゃない。それにいいもんね。私は、読む方の空気は失ったけど、べつの空気を察知してるから。てか、兄ちゃん聞いてる!? 武井くんまで無視!?」
妹の方は放置して、俺は武井くんと会話を交わしている。
「いやぁ、どうやら今日の俺は運が良かったみたいだぜ。武井くんにも手伝ってもらったおかげで、妹はさびしくなかったみたいだし」
「そうでもないですよ。ただ、もういーちゃんのやることには、いちいち驚いたりしませんから。もう」
それにはいちいち理由があるのだけど、武井くんは知らない。というよりは、兄以外は誰も知らない。
「それにしても、お兄さん」
「ん?」
武井くんは裏山全体を見渡して言った。
「前回来た時よりも、だいぶ穴の数が増えていますね」
「ああ、まぁね。天候にも恵まれているようで、綺麗な穴がいくつも維持できてるんだ。凄いだろ」
「あ、そういえば雨降ってないですね」
「だろ。梅雨なのに」
「そうですね、梅雨なんですけど」
その通り。
じつを言うと、六月なのに一度も雨が降っていない。
そしてそのことは、《クドリャフカ》が顕現する可能性を大きく示唆しているのだった。
◇◇◇
用事があるとのことで武井くんが帰り、俺は妹との穴掘りを再開した。
シャベルを使って、妹が掘削機で開けた穴を整えていく。
意外にも、腰を据えてやらないと発展しない作業だ。
妹はというと、髪をいじらしく直しながらヘルメットをかぶり直していた。台無しじゃないか、とはいたいけで健気な妹を前にして言えない。
「妹よ」
「なに? 兄ちゃん」
「せっかく髪を直したのに、ヘルメットかぶったら台無しじゃないか」
「はっ! さっきからなんかいじわるな顔してこっち見てると思ったら、そういうことだったの!? 兄ちゃんひどいよっ」
そしてしばらくそのことで言い合いをした後、話が途切れたタイミングで妹が言いだした。
「ねぇ、兄ちゃん」
「なんだ?」
俺は妹の方を振り向いた。
しかし妹はこっちを見ないで、こんなことを口にした。
「あのね、そろそろきそうなんだよ」
「それはアレか?」
「うん」
意味深なセリフに聞こえるが、確実にあっち系のそういう話ではないだろう。
ただし、妹をからかうために俺のこのセリフを選択した。
「よし、赤飯か」
「ちょっと、兄ちゃん!」
一気に焦る妹。
「よーし、じゃあ今晩の夕飯は俺が作ることにしよう。ひさしぶりだな」
「ねぇ、何言ってるの!? いや、それよりもどうしてこのタイミングでそうなるのさぁ!」
「えっ?」
と、俺はとぼけるふりをする。
「とぼけないで! だいたい兄ちゃん、アレでアレを想像するからいけないんじゃないっ。このデリカシーなしっ! それはもっともっと前にもうやったでしょ、じゃなくてっ!」
「あはははは」
「ちょっと、兄ちゃん。笑いすぎ」
成功だ。どうにも笑いがこみあげてくる。
「ははは、すまん」
「兄ちゃん、本気で謝っているの?」
妹がシャベルを振り上げそうになったので、俺はすかさず頭を下げる。
「ほら、謝っているって」
「ふーん、ならいいけどさー」
「でも、料理の件に関して言えば、たまには俺に夕飯を作らせてくれよな。そうしないと、おまえの作る摩訶不思議な料理のせいで、俺の味オンチが確定してしまうじゃないか」
「そんなことないってば」
「いいや、だいたい今日だって、そういう危機にさらされて、へんなことを言ってしまったんだからな」
俺は思いだす。
神田のパンをもらう時のやりとりを。
「でも、それでもだめだからね」
「どうして?」
「そりゃー夕飯づくりは私の役割だからね。ほら、男子厨房に入らずだよっ」
「そんなことないだろ」
そしてまた、しばらくそのことで言い合いをした後、話が途切れたタイミングで俺が言いだした。
「でさ、アレとはなんだ」
「兄ちゃん、また蒸し返すの?」
真剣に睨まれたので、すぐさま謝っておく。
「ほんとは言わなくてもわかるくせに」
「ああ、《クドリャフカ》のことだな」
「うん」
「そういうのは感覚でわかるものなのか?」
「うん、わかるんだ」
そこで妹は、ふと押し黙った。
妹にして珍しく、緊張した面持ちだ。いや、緊張した面持ちじゃなくて、実際に緊張しているのだろう。
だから、俺は言ってやった。
「なあ、妹。困ってたら、ぜったいに助けてやるからな」
「に、兄ちゃん?」
「だから心配なんてするなよ。ちゃらんぽらんでバカっぽいけど、いざとなったら頼りになる兄ちゃんがいい、ってオマエ言ってたよな。どうやら、そうっぽい兄ちゃんになってしまったようだぜ」
「うん、そうだね」
「だからさ、きっと大丈夫だ」
「うん」
「両親がいなくても、兄ちゃんがいる。今までと同じ。今まで一緒。な?」
「うんっ」
「だから、兄ちゃんを頼りにすればいい」
「ううん」
「どうした?」
「もう頼りになってるよ。兄ちゃん」
「そうか」
と、そこで俺は一つ息を吐く。
「じゃあ、今日の夕飯は赤飯作らせてくれな」
「もうっ! 兄ちゃんのばかっ!」
ぽかぽかと殴る妹が、俺の目の前にいる。
やはり、健気でかわいい妹だと心の底から思った。
◇◇◇
そして夜が過ぎた。
日付も変わった。
「ねむいー」
「おい、妹よー。オマエの見立てでは、今日必ず《クドリャフカ》がやってくるんだよな」
「うん」
生返事をする妹。
「でも、もう明日になったぞ」
「そうだねー」
妹は寝ぼけた調子で言う。
妹が役に立たないので、こっちは適当に考えてみる。
「明日――いや、一応二十六時という表現もあるし、もしかしたらグリニッジ標準時を基準としているかもしれないな」
自分でも何を言っているかわからない。頭がちゃんと働いていないなと思う。
「そんなことないよ」
「そうなのか?」
「うーん。わかんない」
少しいらっときた。
俺は妹をゆすりながら、さらに問いかける。
「ていうか、《クドリャフカ》との相互意識の交差ってやつで、顕現されるのが事前に分かっているはずじゃないのか? どうなっているんだよ」
「……」
妹からの返事はない。
「しかし、なんでこんな緊張感なくなっているんだ? おい、これはほんとにシリアスか。ほんとはコメディじゃないのか」
どうやら俺も、夜更かしでテンションが上がっている。
「ふっ、どうやらコメディのようだな」
荒ぶる鷹のポーズを決めて言ってみた。
「なにゆってるのー兄ちゃんのばかぁー。ゼットゼットゼット」
「当たり前に寝るな。それと睡眠扱いは小文字にしろ」
でもそんな中、満月と行かず、朧にかすみつつある初夏の宵に、一筋の光みたいなものが見えたのは幻ではなかった。
「おい、いも、、う、、、と……」
―――。―――。
―――。―――。
精神的空白。
「……お、、、き、、ろ、って」
金縛りにも似た、
精神的な空白が起きていた。
◇◇◇
そして。
「うん?」
妹の返事が、ようやく返ってきた。
どうやら、そんな錯覚を感じたみたいだ。
あの一筋の光の方は、だんだんと輪郭を現してきている。
認知できるのは、おそらく俺達だけだろう。
《クドリャフカ》の顕現を察知しているのが俺達だけのように。、
隣を見れば、妹は、星を熱心に観察しながら独自に星座を作ってしまうくらいの勢いで空を見ていた。
これは、この超常現象の発露における儀式的意味合いがあるのかもしれない。
それほど真剣だった。
「なあ、妹」
「なに?」
「これ、コメディだよな」
「うん?」
「いや、シリアスでもいいけどさ」
やがて、それは地上にゆっくりと落下してきて、誰の目にも人の形をしているのが確認できた。地上から十メートル位のところからは、落下の速度がますます遅くなっていく。というよりも、浮遊していた。
「か、かわいい」
ふいに妹が、ぽつりとつぶやいた。
が、それもそのはず。
《クドリャフカ》とやらの姿見は、見目麗しい女の子だったからだ。宵闇の最中、不思議な発光効果もあるのか、かなり輝いている。
特に、外に跳ねるセミロングカール。それに前髪のパッツン具合と内斜視気味の瞳は、とてもキュートだった。
だが、全体的な印象としては、クールなかんじだといえる。
歳は妹と同じくらいか。
なのに、なんとも不思議な、この世のものと思えないほどの妖艶な魅力を備えていた。
「こんばんは、です」
彼女が俺達より少し高いところで口を開いた。
声は、ずいぶんと澄んでいる。
「いーちゃんですよね」
「はいっ!」
敬礼までして、応対するうちの妹。
対照的な幼さだった。
「では、お近づきの印に、ひとつ踊らさせていただきますね」
「え?」
と、クドリャフカはいきなり踊り始めた。
いきなりなので呆気にとられてしまったが、踊りのインパクトはもっと凄い。
踊りはとても綺麗なのに、なんとも言えないぐらい奇妙な動き。
「や、私もつられるー」
「なにっ、どうした妹」
そしてその踊りは、なんと妹にまで影響を及ぼした。妹はまるで操り人形のようにクドリャフカと同じ踊りをやっている。
「あ、ははは」
「や、兄ちゃん笑わないでよ。恥ずかしいから」
「そんなこと言われてもだな」
はた目からみれば、二人ともまったくもっておかしな動き。
笑ってしまうの仕方がない。
「でも、なんだか、幸せなかんじがしてきた」
「はい、踊っている人を幸せな気分にさせる踊りなのです」
「そうなんだ」
やがて踊りを終えて、クドリャフカが言った。
「では、いーちゃん。そのまま聞いてください」
「はいっ」
妹が、また敬礼しながら返事をする。
「私は、あなたと一番精神の波長が合うプロトタイプで、この世界に顕現されてきたクドリャフカです。今まで私とは、《共感覚》を通して情報や意思を伝達してきましたよね」
「あ、うん?」
「なんで疑問形なんだよ」
と、俺は突っ込む。
「構いませんよ。なぜならいーちゃんは、私よりあいまいな《共感覚》だったなので致し方ありません。私は夢の中でしか現れなかったのですから」
「そうなのか?」
「うん、そうだよ兄ちゃん」
「ゆえにですね、いーちゃんとさらに共有するために、私はここに顕現されました。膨大なエネルギーを放散せざるを得ないいーちゃんの《監視調査機関》としてです」
「《監視調査機関》か」
「はい、そうです」
これは前に妹から聞かされたセリフだ。
具体的にはどういうことだろうか。
クドリャフカの話は、どうやら核心に迫ってきたようだ。
「ともすればいーちゃんは、世界を崩壊してしまうエネルギーを行使してしまうかもしれません。あるいはその莫大なエネルギーを利用しようと、なんらかの勢力が絡んでくる気配だってあります。なので《監視調査機関》としての私がいるのです」
しかし妹は、先ほどまでこくこくと頷いていたが、ここで首をかしげる。
「妹。オマエ、そんな深刻な状況だったっけ?」
「んーん。そんなはずはないんだけど」
しかしクドリャフカは、
「可能性の問題なのですよ」
と、力こぶを握るという、あまり似あわないしぐさで言いきるのだが。
そして沈黙。
「…………」
話題を変えるために、俺は妹に聞いてみた。
「ところでさ、このたくさんの穴は儀式的なアレなのか?」
「や、それがちがうんだな。ねー」
「はい」
なんか急激に仲良くなったように見えるのだが、それは無理もないだろう。《共感覚》というのを一年間ずっとやってきたのだから。
「クドリちゃん。あ、心の中で呼んでた呼び方、そのままでいい?」
「いいですよ」
「ありがと。でね、私と兄ちゃんと、時々武井くん――この三人でクドリちゃんのために穴を掘って準備してたの」
「はいっ」
クドリ(俺はこう呼ぼう)は返事した後、嬉しそうな顔をした。
「穴を掘ってくれて、ありがとうです」
言い終えたと同時に、
――ストン、と。
まるで、古いタイプのコント番組みたいな勢いとノリで落下していった。
「重力、ふわぁ~」
今までの凛とした声ではなく、こんな甘ったるい声も出せるのかというぐらいの歓喜に満ちた声である。
しかし、なんだこれは。
俺は何かとてつもない場面を目撃している。
「重力重力じゅーりょく、ふわふわふわぁ」
てか重力と、それを楽しむ歓喜の表現が全然あってない。
だが、クドリは穴に落ちるという方法で重力を楽しんでいる。
「おい、妹」
「ん?」
「なんだよ、これは」
「えっ?」
「俺、一気に脱力したんだけど」
「どうしたの兄ちゃん? クドリちゃんは、重力を楽しんでいるんじゃない」
「マジで言っているのか?」
「うん、だから兄ちゃん、どうしたの?」
何を言ってんだみたいな、とぼけ顔の妹。
俺と妹がそんな会話を繰り広げている最中も、クドリはいろんな穴に落下して悦に浸っている。
ともあれ、なんだそれはである。もしかして、妹と波長が合うっていうのだからアホの子なのかもしれない。
「だったら、穴なんか掘らなくても空中から重力を堪能すればいいじゃないか」
「「はっ?!」」
俺がそう言うと、渦中の二人は間違いなく気づいてはいけない真実に愕然としていた。
そしてしばらくして、クドリが平然とした調子で言う。
「こ、これはですね。儀式的意味合いがあったりしまして」
「えっと……ねークドリちゃん」
妹も必死だ。
「は、はいです。いーちゃん」
で、クドリも同じだった。
「これは儀式的意味合いだもんね」
「はい、儀式的意味合いですよ」
二人は、ここぞとばかりに口裏を合わせてくる。
だが、それはないだろう、と一刀両断しておいた。
◇◇◇
「いーちゃんのお兄さん、初日で申し訳ないんですけど」
結局、クドリが落とし穴を堪能してから三十分、日をまたいでいるためか、妹は船を漕ぎはじめていた。
「私、寝てないよ、兄ちゃん」
「それ半分以上寝てる人のセリフな。で、クドリ。どういうこと?」
「はい。本当に申し訳ないんですけど」
と、顔を伏せながらのクドリ。
「なんだい?」
「はい。私と一緒に寝てくれませんか」
「……」
しかし、なんだか初日からとんでもないお願いだった。
まあ、そういう意味ではないんだろうけど。
それにいくらかわいくても、さっきの抜けた調子を見せつけられては、妹が二人できたように思えてくる。
「そのへんな意味ではなくてですね、いーちゃんのお兄さん。あなたは妹のエネルギー放散をより促すために、たまに背中合わせで一緒に寝ていたりしているじゃないですか。つまるところ、それと同じ現象をしてほしいのですよ」
そしてクドリ自身も、深い意味はなく冷静さを取り戻している。
「ん? 同じ現象とは?」
「はい。それはですね、《共感覚》をより強固にするために魂を近づけ合わなければならないということなのです。情報や意思の双方伝達を行う《共感覚》は、対象者だけじゃなく、ある程度は血縁者とも可能なのです。そういうわけで、その、お願いします」
「そうか……。ならばそうだな」
と唸って、俺は妹の方を見やる。
「その、いきなりでクドリもアレだろうから、三人で背中を合わせて寝ることにしような」
「はい」
そして、共に背中合わせで睡眠となった。
感じるのは、エネルギーの放散と他者への譲渡。
それは、無意識が意識を凌駕する睡眠中にのみ行われる妹の現象である。まるで電流がスパークするように、小さな粒子が目に見える形で俺に伝導していく。もちろん、クドリにも。
自身をオブジェクトの中心として、その周囲を衛星のように滞留するエネルギーは、神秘的な光景でもあり、厳かな気分にさせてくれるものだった。