プロローグ
誰かが、その特殊なエネルギーの象徴体に《クドリャフカ》という名前をつけた。
そしてその名前はそのままずっと変わることはなく、深層心理として誰の心の中にもひそんでいるものだという。
◇◇◇
クドリャフカ。
言葉にすれば遠い対岸の存在に思えてしまうような彼女の顕現。それを強く察知したのは、終日、六都科学館の高層スペースに取り込まれてしまった夢を見たときだった。
そのとき、少女は夢で宙に浮いていた。
アーチ状のスカイタワーである六都科学館の高層スペースにて、少女は精神上の存在だけで漂っていた。そこから見降ろした市街の景色は、万華鏡さながらに歪んでいて、視線を固定させるのが大変で苦労した。
ライカという有人宇宙船のエピソードを聞いたのも、ちょうどこの前のことだった。
どこか懐かしく、詩情のようなノスタルジーを感じたのは、ライカがクドリャフカの意味と深くリンクしているからなのかな、と少女は思った。
――。――。――。
――。――。――。
「ん?」
この時、急に声が聞こえてきた。
あの、クドリャフカの凛とした声とは違い、幾層にも重なりあった重低音。でもこの声には、どこか重要な訴えが感じられた。
そしてただこれだけで、少女はクドリャフカの顕現を強く察知していた。
「クドリちゃん?」
少女にとって、クドリャフカの内なる存在はいつも身近に感じていた。だが、件のクドリャフカは薄い靄のようであり、霞がかった印象でしかなかった。
さらには、時間や空間の中において記憶に残る存在でもなかった。
それはまるで、抽象的な物語構造を推理しているかのような腑に落ちない感覚だった。何日、何十日、何百日、何千日と――あるいは、ずっと会ったことがないぐらいの悠久のあいだじゅう待ち焦がれているような気分でもあった。
しかし、少女の先祖から脈々と受け継がれてきたであろうクドリャフカの気配は、楽しくて切なくて、なによりも悠然とした落ち着き、という不思議な感情を抱かさせてくれた。
そしてそれは、朝目覚めたときにふと流してしまう涙に似ていた。自分のあずかり知らぬところで発生した感情ともいえた。この感情はここではないどこか――はるか彼方の世界で起こった悲しさ全てを憂いているみたいな錯覚に陥らせられた。
こうして幻覚のような長い夢から醒めたあと、少女はしばらくのあいだ金縛りにあった。
開きかけの英辞書がパラララララとカーテンに煽られめくられていき、フラワーアレンジメントでこさえたユーカリの葉がゆっくりと机から落ちていく中、少女はある大切なことを思いだしていた。