三話目 兆候
記憶が正しければ、百二十七回目だったろうか。
縦回転や横回転にも飽きたので今度は乱回転でも加えてやろうかと思い、僕は盛大にスピンをかけて高々と放り投げた。
が。
思いの外力を入れてしまったらしく、天井すれすれまで舞い上がったそれはかなり危険な凶器と化して急降下してきた。
間違いなくあれは痛い。
うぐ、取りたくねぇ。
しかし取らない訳にもいかないので僕はコンマ二秒で覚悟を決める。怪我をしないことだけ軽く神に祈ると、反射に身を任せ、落下予測点に手を置こうとして−−
瞬間、時が止まった。
いや、この表現は適切じゃない。
そう簡単に時間が止まってたまるか。
ホーキングを大無視する馬鹿はゲームの中の天使ぐらいで充分だ。
ただ僕は僕を取り纏う空間がさながら寒天が固まるかのごとく固体化したように感じただけだ。
・・・・・・いや、まあ負けず劣らず大事だけどさ。
ともかく、異質だった。
まさしく停止。停滞でもなく、進行でもなく、逆流でもない。
停まって止まる。
一切の行動を束縛され、汗をかくことすら許されない。
ここで世界は止まってしまうのではと本気で思い始めたとき、
ガリュっ
固い物が何かを刔る音に静寂は破られた。時が目を覚ます。
慌てて我に帰った僕は頭を振り振り意識をはっきりさせた。・・・・・・何だったんだ今のは・・・・・・
世界は何事も無かったかのように進んでいる。
しかし、何かが起きていた。何かが何かは分からない、けど確かに何かが起きたんだ。
我ながら意味が分からないけれど、そうとしか言いようが無かった。
僕は机に突っ伏すように頭を抱え込んだ。
例えようの無い不安と非常識の前に人は無力だ。
『世界が滅んでも仏頂面』なんて陰口を叩かれる僕が、なんてていたらくだ。だが、悪いことというのは続くものらしい。
僕はそれを身を持って知ることとなる。
「ん?」
僕の今の状態は完全に机に体を任せ、表面を覗き込む姿勢になっている。
自他共に認める何も無い部屋に相応しくないものが一つ。
ほんの十数秒前までなかったはずの、そして数秒前まで殺人兵器として高速回転していた黒い物体が机に突き立っていた。
出来損ないのひし形にしか見えなくなっている。早い話がこの忌ま忌ましい箱が突き立って、机に大穴が空いてしまった訳で。
・・・・・・やっべぇ、皐月さんにはったおされる・・・・・・
全ての元凶である黒箱には傷一つすらない。何しても開かないのもそうだが、この箱、馬鹿みたいに頑丈なのだ。洒落抜きで象が載っても大丈夫だろう。どこぞの物置より丈夫と思われる。
「・・・・・・あー、やっぱりか」
新品の消しゴムがすっぽり収まってしまいそうな穴を見て、思わず声を漏らした。傍らに小箱を置くと首を振りながら額を抑えた。
無駄な努力だろうけど一応ご機嫌取りでもしておこう……
ポケットに財布があるのをズボンの上から確認する。
しっかりした感触をつかみながら、僕は椅子から立ち上がった。
そして、いかにして肉体的被害を最小にするかに全力を傾けながら、外へ買い物に出かけた。
誰もいない部屋。
何もない部屋。あるのはベッドと机と本棚のみ。主のいない部屋は殺風景だった。しかし、そんな空間にそぐわない物体がひとつ。
限りなく黒に近い藍色をしたそれは、表面はボロボロでほとんど何の装飾も無い黒い箱。
蓋の中央に球形のどこまでも透き通った蒼い宝石が埋め込まれているが、非常に無機質で持ち主の気質が知れようというものだ。
その藍色の箱の中央に配された宝石が瞬いていた。
透き通った蒼にふさわしい、どこまでも透明な青い光。
宝石の点滅は止まるそぶりすら見せず、いつまでも輝き続ける。
まるで、いなくなった主を求めているかの如く。