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第3話 闇の中に溶け込む首相官邸

 その夜、首相官邸は闇と一体になっていた。光も音もすべてが呑み込まれている官邸内部は、封印魔方陣によって施錠され、許可カードなしでは一歩も進めない。観葉植物の陰に身を潜めたスメラは警備員の人数を数えた。警備員が死角に隠れた瞬間、机上に置かれた黒いカードキーがわずかな光を反射している。


(マスターキー……これさえあれば、マラーの執務室に潜入できるわ)


 警備員が部屋から巡回に出ていった。


(今だわ)


 スメラは息を潜め足音を殺して忍び寄る。


 指先がカードに触れた瞬間、ひやりとした金属の感触が皮膚に伝わった。


「動くな!」


 背後から鋭い声。冷たい銃口が背中を押した。反射的にカードを落とし、ゆっくりと振り返ると、銃を構えるカーンが立っていた。


「スメラ、どうしたのですか! こんな深夜に警備室に無断で入るなんて」


 慌てて銃口を下げながらも彼の目には警戒心が宿っている。スメラは息を整え笑みを作った。


「ごめんなさい、カーン。自室に大事な書類を忘れて戻ってきたの……だけど、うっかり、私のIDカードキーを家に置いてきちゃったの。仕方なくマスターキーを借りに来たのよ」


 カーンは目を細め、しばし沈黙した後、やがて苦笑する。そして、銃を下ろした。


「無断入室はルール違反だ。幼馴染でも今後は必ず連絡するように」


 カードを受け取ったスメラは自然を装って話題を変えた。


「今日って、保守点検日よね?」


「そうだ。監視システムのバージョンアップでこの後1時間カメラと巡回ドローンが停止するけど何かあるのか」


「これから自分の部屋に戻るから、確認したかっただけ。不用心になるわね」


「大丈夫だ。我々がチームを組んで巡回するから」


「そう。カーンが居れば安心だわ」


 スメラは一拍置き、さらりと尋ねる。


「ところでマラー補佐官について、最近変わった様子はなかった?」


 カーンは冗談めかして肩をすくめる。


「そういえば……半年前から、勤務後にマラー補佐官とリヴァン首相が公用車でよく外出しているところを見かけるな。そして、夜明け頃に二人で戻られるのを、何度も目撃した。つい先程も二人でお出かけされた」


「リヴァンも一緒に?」


「あぁ。不気味な笑みを浮かべていた」


 カーンは冗談めかして肩をすくめる。


「となると、“秘密の園”で夜間特別委員会。議題は非公開外交、決議はシャンパン景気対策。議事録は、当然黒塗りだろうな」


 スメラは苦笑を浮かべた。


「やめて。そんな話が本当だったら、国民の血税がシャンパンに化けたことになるじゃない」


 冗談めかして返したものの、その声にはわずかな苛立ちが滲んでいた。


「それに……これが事実で《週刊レガリア》に嗅ぎ付けられたら、ただの笑い話では済まないわ」


「《連続失踪の闇》の記事が出たとき、現場対応がどれだけ大変だったか……。あの記事の後始末に、どれだけの人間が振り回されたと思っているの!」


「確かに、あれは強烈だったな。正直、このまま政権が傾くかと思った」


「ただ、政務官の“失踪”が続いているのは事実だ。スメラが疑うのも無理はない」


「そう思うでしょ、カーン。それに……最近、リヴァンが王立科学アカデミー研究所の人事に介入しているのは事実よ」


「王研にまで?」


「ええ。ラマズド長官は初老。リヴァンはまだ三十五歳。マラーはさらに一回り年上……」


 スメラは、一つひとつの事実を頭の中で確かめるように言葉を重ねた。


「偶然にしては、重なりすぎていると思わない?」


「……」


「政務官の失踪。王研への人事介入。そして、リヴァンへのラマズドとマラーの接近」


 スメラは視線を落とした。


「私は、まだ何も断定していないわ。でも……マラーとラマズドが何かを企んで、リヴァンを誑かして利用しているんじゃないかって……どうしても考えてしまうの」


 その声には、怒りよりも拭いきれない不安が滲んでいた。


「今朝も、マラーが“バイオハザード”印の黒い箱を運んでいた。あなたも見たでしょ……血ような匂いと、薬品臭まで漂っていたのよ。怪しいと思わない?」


 カーンは首を横に振った。


「考え過ぎだぞ。マラー補佐官は亡くったペットモンスターを運んでいただけだ。こちらの警備室にも申告されている」


「それと、首相もラマズド長官も模範的な方々だ。……むしろ私より、スメラの方が二人の関係に詳しいのでは?」


「そうだけど……私、考えすぎているのかしら。でも、モンスター政策に異を唱えた人ばかりが消えているのよ。おかしいわ」


「週刊レガリアの記事も本当かもしれないってふと思ってしまうの。だから否定したいの。カーン、協力してくれる?」


「スメラ、首相と週刊誌のどちらを信じる? 私は首相を信じる。私も貴女も幼馴染。だからこれ以上の詮索はしない。私は警備を任された者として、法外な行為で真実を暴くことは絶対にしないからな」


 スメラは視線を落とし、低く呟いた。


「私だって、法外な行為はしないわ」


 そのとき、カーンの笑みが完全に消えた。室内の空気が一段重く沈む。


「もし、スメラが“法外な手”を使ってまで追及しようとするなら……」


 カーンはゆっくりと言葉を選びながら、腰のホルスターに触れた。


「私は警備官として、この銃口を……貴女に向けざるを得ません」


 短い沈黙のあと、カーンは目を伏せる。


「そんなことはしたくない。したくはない。けれど、任務が、私にそう命じるなら……幼馴染だとしても……本気で撃つぞ……」


 その声色には、幼馴染としての苦しみと、職務に縛られた矛盾が滲んでいた。


(カーン……。そんな言い方をしなくてもいいじゃない。あなたが本気で私に銃を向けるなんて……できるはずがない。だって、私たちは、ずっと、同じものを見てきた幼馴染なのだから)


「わかったわ。カーン……」


 スメラは表情を崩さず、ただ静かに頷いた。そのとき、天井の隙間から常に響いていた監視カメラの駆動音と巡回ドローンの羽音が不意に途切れた。


「メンテナンス時間に入ったな……」


「カーン。じゃあ、自室に戻るわね」 彼女はカードキーを握りしめ闇に溶けるように廊下へ消えてゆく。


「でも、やっぱり妙だ……」


 カーンはその背中を見送りながら胸の奥に微かなざわめきを覚えた。闇の奥の廊下は夜の海底のように静まり返り不穏な静寂だけを残していた。


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