序章
壁の花にも、よいところはある。
誰にも声をかけられない代わりに、広間にいる人々の様子がよく見えるのだ。
扇の陰で欠伸を噛み殺す令嬢。
談笑するふりをしながら、父親同士の会話へ聞き耳を立てている令息。
若い娘のドレスを褒めつつ、その値段を見定めている夫人。
着飾って気取っていても、皆が考えていることは意外と顔に出ている。
そういうものを眺めている方が、興味のない殿方と踊るよりもよほど面白い。
「アリシア・ローデン公爵令嬢!」
突然響いた大声に、楽団の演奏が止まった。
声を上げたのは、王太子エドワード殿下だった。
その腕には、桃色のドレスを着た令嬢が縋りついている。たしかメアリー・コット男爵令嬢だっただろうか? 最近、殿下がことのほか親しくされている女性だ。
二人の前には、アリシア公爵令嬢が立っていた。
背筋を伸ばし、凛と顔を上げている。しかし、扇を持つ指先は白くなるほど強く握られていた。
「貴様がメアリーへ行った数々の嫌がらせについて、私はすべて把握している!」
殿下が得意げに宣言すると、周囲から囁き声が上がった。
・ワインをかけた。
・階段から突き落とそうとした。
・大切な首飾りを盗んだ。
さらには、彼女に毒を飲ませて殺そうとした。
殿下の口から次々と並べられる罪状を聞きながら、私は小さく首を傾げた。
どれも噂としては聞いたことがある。しかし、誰が見たのかまでは聞いたことがない。
私はそういう女性同士の派閥争いには興味がない。
「そのようなことはしておりません」
「まだ白を切るつもりか!」
「ですから、証拠をお示しくださいと申し上げております」
「メアリーがそう証言している!」
それは証拠ではなく、訴えた本人の言い分ではないだろうか? 公爵令嬢も同じことを指摘したが、殿下は聞く耳を持っていない。
「私は今日、この場をもって貴様との婚約を破棄する! そして、心優しきメアリーを新たな婚約者として迎える!」
高らかな宣言に、広間が静まり返った。
誰も拍手をしない。
当然だろう。
婚約者がいる身で別の令嬢を腕に抱き、そのまま新しい婚約者にすると宣言したのだ。
どう取り繕ったところで、殿下が浮気をした事実は変わらない。
それでも、王太子に面と向かって指摘できる者はいなかった。
私は壁際の卓から果実水を取り、一口飲んだ。
「浮気をした方が、随分と威勢のよいことだ」
「聞こえるぞ」
隣から低い声がした。
見れば、いつの間にか一人の男性が立っている。
黒い騎士服に、鍛えられた大きな体。短く切られた黒髪と、左の眉から頬へ走る古い傷。
王国騎士団長、ローデリック・ヴァレイン侯爵様。
この夜会で最も話しかけてはいけない大物が、なぜ壁際にいるのだろう?
「申し訳ございません」
「思ってもいない顔だな」
「聞かせるつもりはございませんでした。ですが、聞かれて困ることを申し上げたつもりもございません」
騎士団長様の片眉が上がった。
「君は、殿下が悪いと思っているのか?」
「少なくとも、婚約者以外の女性を抱いている方と、何の証拠も示されていない方でしたら、前者の方が悪く見えます」
「アリシア嬢が、あの男爵令嬢へ毒を盛ったかもしれんだろ?」
「でしたら婚約破棄を宣言する前に、犯人を捕らえるべきではありませんか? 王宮へ毒を持ち込んだ者が、今も広間にいるかもしれませんのに、どうしてその危険を放置して、あんな意味のないことをしているのでしょうか?」
「もっともだ」
意外にも、同意されてしまった。
「それに、王家と公爵家が結んだ婚約を、殿下お一人の意思で破棄できるのですか?」
「できん。陛下の裁可が必要だ」
「では、あれは婚約破棄ではなく、婚約破棄をさせてくださいというお願いですね。いや、むしろ、泣いて別れてくださいとお願いして、男爵と付き合わせてくださいというところでしょうか?」
「くっ、くくく、そうなるな」
何がおかしかったのだろうか? どうやらこの方は変なところにツボがあるようだ。
騎士団長様は結局我慢ができなくて、噴き出していた。
一度口元を押さえたものの、堪えきれなかったらしい。肩を揺らし、とうとう声を上げて笑いだす。
「ガハハハ!!!」
静まり返っていた広間で、その笑い声は実によく響いた。
「ヴァレイン騎士団長!」
殿下が顔を赤くして、こちらを睨んだ。
「何がおかしい!」
「失礼いたしました。こちらのご令嬢が、あまりにも的確なことを仰るので」
騎士団長様は笑みを残したまま、壁から離れた。
さらに、私の方へ手を差し出す。
「よければ一緒にいかがですか?」
「喜んで」
人々が一斉に道を空ける。
私の手を引いて、騎士団長様は中央へ歩き始めた。
「しかし、殿下。公爵令嬢が王宮へ毒を持ち込んだというお話は、聞き流すことができません。王宮の警備を預かる者として、ただちに調査させていただきます」
「調査だと?」
「はい。今夜、広間へ持ち込まれた品をすべて確認いたします。毒の入っていた杯も、当然残っておりますな?」
殿下の腕に縋っていたメアリー嬢が、目に見えて青ざめた。
「そ、それは……怖くなって、捨ててしまいました」
「毒の入った杯を、どこへ?」
「覚えておりません」
「では、それを捜すところから始めましょう。扉を閉めろ。陛下がお越しになるまで、誰も広間から出すな」
騎士たちが一斉に動き出した。
王太子殿下が何か言い返そうとしたが、騎士団長様は取り合わない。アリシア公爵令嬢を安全な場所へ移し、メアリー嬢から事情を聞くよう部下へ命じる。
先ほどまで一方的に断罪していたはずの二人が、今度は周囲から疑いの目を向けられていた。
私は空になったグラスを卓へ戻した。
どうやら、余計なことを口にしてしまったらしい。
母からは今夜こそ黙っているよう、あれほど言い聞かされていたのに。
「あなたは!」
「アリシア・ローデン公爵令嬢、失礼します。これまでご挨拶程度しかお声かけをしたことはありませんが、今回はあまりにもお粗末だと思ったので、声を出してしまいました」
「まぁ、ふふ、あとでゆっくりお話ししましょう」
アリシア様は、とても美しい笑みを浮かべられていた。ただ、その手は震えていたから、味方がいないことに心では辛かったんだろう。
「君」
仕事を終えた騎士団長様が、再び私の前へ戻ってきた。
「名を聞いても?」
「ミレイユ・オルセンと申します」
「オルセン伯爵のご令嬢か。婚約者は?」
「おりません」
「そうか」
「このような余計なことをあけすけに言ってしまうものですから」
母からは、それが原因だと何度も叱られている。黙って微笑み、相手の言葉へ頷いていればよい。それができれば、とうに婚約者の一人くらい決まっていただろう。
騎士団長様は、また楽しそうに笑った。
「それは好都合だ」
「何がでしょう?」
「私と婚約してくれないか」
あまりにも自然に言われたので、危うく聞き流すところだった。
「……はい?」
「正式な申し込みは、明日にでもオルセン伯爵へ行う」
「お待ちください。なぜ、そのような話になるのです?」
「陛下から、今夜こそ婚約者候補を一人選べと命じられていてな」
「それで、たまたま隣にいた私を?」
「まさか」
騎士団長様は、先ほどまでとは違う真っ直ぐな目で私を見た。
「私の前に来る令嬢は、皆よく似たことしか言わん。剣のお話を聞きたい。傷痕が勇ましい。騎士団長の妻となって、あなたを支えたい。だが、その目は私ではなく、侯爵家の地位ばかり見ている」
騎士団長様は、王国でも有名な色男だ。
今の言葉も自惚れではない。
この方なら、嫌というほどそのような令嬢を見てきたのだろう。
「君は違った。王太子を相手にしても、間違っていることを間違っていると言った。私が愚かな真似をすれば、同じように指摘してくれそうだ」
「ああ、そういうことですか。確かに私は余計な言葉を言ってしまうので、申し上げますね」
「そこは少しくらい迷ってもよいところだが、くくく、やっぱり面白いな」
また楽しそうに笑われてしまった。だけど、この方の笑顔は、王子のような胡散臭さは感じない。
「結婚した途端に黙るような妻をご希望でしたら、ほかの方をお選びください」
一瞬の沈黙のあと、騎士団長様は三度目の笑い声を上げた。
「ガハハハ! いや。やはり、君がいい」
「一度お話ししただけですが?」
「だから、今すぐ結婚しろとは言わん。まずは婚約を申し込んでいる。考えておいてくれ。断られても、しばらくは口説くと思う」
「断る意味がございませんね?」
「断る自由はある。私にもう一度申し込む自由もある」
なんともあけすけな方だ。そんなお方を嫌いではない。
思いつきです。
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