心の鏡
すさんだ地下横断歩道が、昼間にためこんだ陰気さを吐き出している。少しでも明るく見せようと、電灯の真下にいくつもの鏡が設置されている。しかし、その大半が機能していない。多くは砕け落ち、破片が道の両端で人知れぬ天の川をなしている。
このさびれた地下道を、仕事帰りの堀岡が歩いていた。彼はとかく無神経で、気に食わないことがあれば所かまわず相手に怒鳴りちらす悪癖があった。そのせいで常に腫れもの扱いされ、誰からも嫌われていた。
にもかかわらず、彼は悪評などまるで意に介さなかった。いつでも、悪いのは他人。自分は何も悪くない。自分の非を素直に認める謙虚さなど、彼にはなかった。
彼は自分の存在を誇示するかのように、もったいぶって歩いていた。その正面に、喪服姿の男性が立ちふさがる。黒いネクタイを目にした堀岡は、縁起が悪いと感じ不機嫌になる。あからさまに舌打ちしつつ、右に避けて先へ進もうとする。
ところが、相手も進路をふさぐように移動する。反対側から通ろうしても、左にまわって足止めしてくる。偶然ではなく、故意に行く手をはばんでいるのは明らかだった。さっそく堀岡はかんしゃく玉を爆発させる。
「邪魔なんだよ! どきやがれ!」
相手は何の反応も示さない。押しのけて進もうとした矢先、堀岡は急停止する。視界の端で、信じられないことが起こっていたからだ。見間違いかと思い、彼は鏡の並んだ壁側を凝視する。
床に散乱した鏡の破片が、バルーンアートの風船さながらにむくむく膨らんでいく。地面から現れた銀色の風船は、たちまち色づき喪服姿の女性へと姿を変える。鏡の種から人間が芽吹いたのだ。
堀岡が驚愕している間にも、続々と破片は喪服姿の人物に変貌を遂げる。交互に男女が生えそろい、たちどころに10人近くの一団ができあがった。彼らと最初の男性は、ゆらゆらと堀岡の周囲を取り囲んでいく。
最初の男性同様、皆マネキンのように表情がない。さらに不気味なのは、彼らの胸がまったく同じ速度で波打っていることだ。単に呼吸を真似ているのかと思うほど、無機質かつ規則的な動きだった。
その奇妙な胸のすべてに、楕円形の鏡が浮かび上がっている。鏡に映し出されていたのは、堀岡自身の顔だった。生来の下品さが誇張され、見るだけで吐き気をもよおす卑俗な薄ら笑いを浮かべている。
どいつもこいつも、オレをバカにしやがって! そんなに殺されてぇのか!
苛立ちをつのらせた堀岡は、怒りにまかせて人々に襲いかかる。正面にいたのは、最初に邪魔した男だ。その鏡を拳で荒々しく叩き割る。一瞬で鏡は砕け散った。再び黒のネクタイがあらわになり、銀色のぼたん雪が足元へ落ちていく。
意外にも、殴られた相手は微動だにしていない。何事もなかったように、ただ堀岡を白い目で見つめている。
一方、堀岡は胸をおさえてうずくまっていた。鏡を殴った瞬間、彼には自分の胸をえぐりとられたような激痛が走っていた。
たった今できた破片の反射した光が、彼の目に入る。苦しそうに見上げると、群衆の鏡に映る表情が変わっていた。もだえ苦しむ様子をせせら笑うように、より卑俗さの増した顔つきで自分を見下ろしている。魂を半ば抜き取られた薄汚い目には、侮蔑の色がはっきりと表れている。
怒りが堀岡の痛みを忘れさせた。彼はガバッとはねおき、手当たり次第に人々の鏡を打ち砕く。醜悪な顔に無数の亀裂が入り、音を立てて崩れ落ちていく。
ひとつ壊すたびに、堀岡の胸を尋常ではない痛みが突き抜けていく。それでも鏡の顔を見ると、途端に身が震えるほどの激情がこみ上げてくる。
よくもオレのツラをそこまで醜くしやがったな! 気にいらねぇ! 今すぐ全員ぶっ殺してやる!
煮えたぎる憎悪に駆られ、気づけば鏡が粉々になっていた。
今や憤怒だけが彼を支配していた。殴れば殴るほど、鏡だけでなく自分までもが痛めつけられていく。夢中で殴りつけた両手は、いつしか血みどろになっていた。異様な生あたたかさが、ねばっこく手の甲にまとわりついている。
とうとう最後の1枚を打ち砕くと、堀岡の胸にも大きな穴があいた。鏡と同じ、楕円形の傷ができている。胸の傷口から、滝のように大量の血が流れ落ちていく。彼は激痛で意識を失い、自分で作った血の海にうつ伏せで倒れこむ。呼吸をしていない。死んでしまったのだ。
陰鬱な地下歩道は、今や堀岡の葬儀の場になった。参列した群衆は無表情で、主役を遠巻きに眺めている。
生気のない視線の弾幕が、物言わぬ背中に深々と突き刺さっている。彼らの足元にこぼれ落ちた無数の欠片も、冷たい輝きを放っていた。まだ人間らしいぬくもりを残す死体から、かつて生きていた証を一刻も早く消し去ろうとするかのように。
他人をさんざん傷つけた堀岡は、最後に自らの命を棄てる羽目になった。彼が踏みにじっていたのは、他人だけではなかった。人々の心という鏡に映しだされた、自分自身をも手ひどく痛めつけていたのだ。




