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夫婦茶碗

掲載日:2026/02/07

「少し斜めになってる。左をもうちょっと上げて」

「こう?」

「そうだ、それでいい」


トントントン。乾いた音が小春日和の午後に響いた。吉田容子、五十四歳。リビングの壁に収納棚を取り付けている。部材の切り出しからもう半年。家事の隙間を縫っての作業だから、このペースが今の自分にはちょうどいい。


「上手なもんだな。すっかり大工さんだ」


背後から声をかけるのは夫の貴文だった。二年前に建築事務所を定年退職して以来、容子の作業に細かく口を出すようになった。

(俺の出番がなくなったから、お前のできることが羨ましいんだわ)

貴文の言葉に隠された寂しげな響きに、容子は気づかないふりをして釘を打つ。


容子が日曜大工を始めたのは二十五年前。建築設計士の貴文が描く理想の家具を、工作の才能がない彼に代わって形にしてきたのが始まりだった。社宅を出てこの家に住み始めてからは、下駄箱、階段の手すりと、貴文の「理想の住まい」を自らの手で具現化してきた。


(これは私の理想なのかしら、貴文の理想なのかしら?)

最近、その境界線が曖昧になっている自分に、容子は小さな苛立ちを覚えていた。



一人娘の愛子が顔を見せたのは、そんな午後のことだった。

「夕飯作るよ!」

愛子が宣言し、台所に立った。学生時代は料理など見向きもしなかった娘が、手慣れた様子でハンバーグをこねている。


「お米は私が炊こうか?」

「任せなさいって。お母さんは座ってて」

娘の成長に、容子は複雑な喜びと、取り残されたような寂しさを感じた。愛子は自分のために料理を覚え、自分の足で人生を歩き始めている。


(私もそろそろ、変わるときなのかもしれない)

容子は、愛子の迷いのない手つきを見守りながら、自らの役割が静かに終わりを告げていることを悟った。



食事が終わると、愛子が「還暦祝いよ」と貴文に朱塗りの漆器を差し出した。

「おお、ありがとう」

貴文が喜ぶ傍らで、愛子が尋ねる。「今までの夫婦茶碗、もう三十年でしょ?」 「そうだ。結婚直前に二人で買いに行ったんだ。物持ちがいいだろう」


(三十年。毎日同じ茶碗で、毎日同じ役割をこなしてきた三十年)

容子の胸がざわついた。貴文は上機嫌で、「母さんも新しい茶碗にしたら?」と提案してきた。


「母さんは小ぶりなものがいい」

「色は落ち着いたものを。俺のとは対称的な柄で」

設計士として、夫として、貴文は容子に「ふさわしい」茶碗の条件をいくつも並べた。そのどれもが容子の心には響かなかった。



翌日、容子は一人でデパートへ向かった。

しかし、いざ並んだ食器を前にすると、足が止まった。

(私の好みは何だろう?)

三十年間、家族の好みを優先して生きてきた彼女にとって、「自分の好き」を選ぶ作業はあまりにも困難だった。一時間以上歩き回り、結局何も買わずに店を出た。


「買わなかったのか?」と怪訝な顔をする貴文に、「まだ決められなくて」とだけ答えた。その翌日、容子は隣町の専門店まで足を延ばした。


そこで出会ったのが、唐子模様の磁器茶碗だった。手に取った瞬間、指先にしっくりとなじんだ。

(これが、私の茶碗。私が、選んだもの)

たかが茶碗一つ。しかしそれは、彼女が三十年ぶりに手にした「自分だけの意志」だった。



使わなくなった古い夫婦茶碗を、容子は丁寧に洗った。

悪い結婚生活ではなかった。けれど、いつも貴文の描いた設計図の上を歩いてきた三十年だった。


茶碗を箱に入れ、二階へ運ぼうとしたときだった。カクッと家が揺れた。

咄嗟に手すりを掴んだが、箱は階下へと落ちていった。

慌てて確認すると、貴文の茶碗は無事だったが、容子の茶碗は縁が大きく欠けていた。


それは偶然か、あるいは必然だったのか。

容子はゴミ袋に入れかけて、ふと立ち止まった。

納戸へ向かい、使い慣れた金槌を取り出す。手が震えたが、迷いはなかった。


パリン。

力を込めて振り下ろすと、茶碗は鮮やかに砕け散った。

光を受けてきらめく欠片は、三十年の記憶の断片のようだった。容子は深く息を吐き、そっと目を閉じる。次に目を開いたとき、胸の奥には小さな灯りがともっていた。


(これは、終わりの合図。これからは私の理想で生きていく)


トントントン。

乾いた音が、もう一度響いた。それは誰かのためではなく、彼女自身の新しい人生を築くための、力強い音だった。


---


(了)

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