夫婦茶碗
「少し斜めになってる。左をもうちょっと上げて」
「こう?」
「そうだ、それでいい」
トントントン。乾いた音が小春日和の午後に響いた。吉田容子、五十四歳。リビングの壁に収納棚を取り付けている。部材の切り出しからもう半年。家事の隙間を縫っての作業だから、このペースが今の自分にはちょうどいい。
「上手なもんだな。すっかり大工さんだ」
背後から声をかけるのは夫の貴文だった。二年前に建築事務所を定年退職して以来、容子の作業に細かく口を出すようになった。
(俺の出番がなくなったから、お前のできることが羨ましいんだわ)
貴文の言葉に隠された寂しげな響きに、容子は気づかないふりをして釘を打つ。
容子が日曜大工を始めたのは二十五年前。建築設計士の貴文が描く理想の家具を、工作の才能がない彼に代わって形にしてきたのが始まりだった。社宅を出てこの家に住み始めてからは、下駄箱、階段の手すりと、貴文の「理想の住まい」を自らの手で具現化してきた。
(これは私の理想なのかしら、貴文の理想なのかしら?)
最近、その境界線が曖昧になっている自分に、容子は小さな苛立ちを覚えていた。
二
一人娘の愛子が顔を見せたのは、そんな午後のことだった。
「夕飯作るよ!」
愛子が宣言し、台所に立った。学生時代は料理など見向きもしなかった娘が、手慣れた様子でハンバーグをこねている。
「お米は私が炊こうか?」
「任せなさいって。お母さんは座ってて」
娘の成長に、容子は複雑な喜びと、取り残されたような寂しさを感じた。愛子は自分のために料理を覚え、自分の足で人生を歩き始めている。
(私もそろそろ、変わるときなのかもしれない)
容子は、愛子の迷いのない手つきを見守りながら、自らの役割が静かに終わりを告げていることを悟った。
三
食事が終わると、愛子が「還暦祝いよ」と貴文に朱塗りの漆器を差し出した。
「おお、ありがとう」
貴文が喜ぶ傍らで、愛子が尋ねる。「今までの夫婦茶碗、もう三十年でしょ?」 「そうだ。結婚直前に二人で買いに行ったんだ。物持ちがいいだろう」
(三十年。毎日同じ茶碗で、毎日同じ役割をこなしてきた三十年)
容子の胸がざわついた。貴文は上機嫌で、「母さんも新しい茶碗にしたら?」と提案してきた。
「母さんは小ぶりなものがいい」
「色は落ち着いたものを。俺のとは対称的な柄で」
設計士として、夫として、貴文は容子に「ふさわしい」茶碗の条件をいくつも並べた。そのどれもが容子の心には響かなかった。
四
翌日、容子は一人でデパートへ向かった。
しかし、いざ並んだ食器を前にすると、足が止まった。
(私の好みは何だろう?)
三十年間、家族の好みを優先して生きてきた彼女にとって、「自分の好き」を選ぶ作業はあまりにも困難だった。一時間以上歩き回り、結局何も買わずに店を出た。
「買わなかったのか?」と怪訝な顔をする貴文に、「まだ決められなくて」とだけ答えた。その翌日、容子は隣町の専門店まで足を延ばした。
そこで出会ったのが、唐子模様の磁器茶碗だった。手に取った瞬間、指先にしっくりとなじんだ。
(これが、私の茶碗。私が、選んだもの)
たかが茶碗一つ。しかしそれは、彼女が三十年ぶりに手にした「自分だけの意志」だった。
五
使わなくなった古い夫婦茶碗を、容子は丁寧に洗った。
悪い結婚生活ではなかった。けれど、いつも貴文の描いた設計図の上を歩いてきた三十年だった。
茶碗を箱に入れ、二階へ運ぼうとしたときだった。カクッと家が揺れた。
咄嗟に手すりを掴んだが、箱は階下へと落ちていった。
慌てて確認すると、貴文の茶碗は無事だったが、容子の茶碗は縁が大きく欠けていた。
それは偶然か、あるいは必然だったのか。
容子はゴミ袋に入れかけて、ふと立ち止まった。
納戸へ向かい、使い慣れた金槌を取り出す。手が震えたが、迷いはなかった。
パリン。
力を込めて振り下ろすと、茶碗は鮮やかに砕け散った。
光を受けてきらめく欠片は、三十年の記憶の断片のようだった。容子は深く息を吐き、そっと目を閉じる。次に目を開いたとき、胸の奥には小さな灯りがともっていた。
(これは、終わりの合図。これからは私の理想で生きていく)
トントントン。
乾いた音が、もう一度響いた。それは誰かのためではなく、彼女自身の新しい人生を築くための、力強い音だった。
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(了)




