初めての契約
夜風が、低く唸っていた。
“灰鉄の獅子亭”の裏口から出ると、街はすでに眠りの色を帯びていた。
石畳に灯る街灯が雨に濡れ、光の輪を揺らしている。
空気は冷たく、土の匂いに混じって血と油の臭いがした。
ジークは短く言った。
「行くぞ。手を汚す練習だ。」
ラゼルは頷き、ついていく。
右手にはジークから渡された古びた短剣。
重くはない。それでも、手の中で熱を帯びているように感じた。
依頼は単純なものだった。
下層区で商人を襲っていた盗賊の一味を仕留める。
報酬は銅貨十枚。
ジークにとっては安い仕事のようだが、「仕事を覚えるにはちょうどいい」らしい。
路地を抜け、錆びた鉄橋を渡る。
川の下では、濁った水がゆっくりと流れていた。
やがて、崩れかけた倉庫の前でジークが止まる。
「ここだ。……盗賊が二人。寝てるはずだ。」
ジークは低く囁き、扉を足で蹴った。
中にあったのは、腐った木箱と、火の消えかけた灯。
その影の奥に、人の気配。
「動くな!」
ジークの声。
その瞬間、物陰から飛び出した影が刃を振るった。
火花が散り、金属が軋む。
ジークは片腕でも見事に捌いた。
槍の柄で相手の手首を叩き折り、膝で腹を抉る。
男が悲鳴を上げて倒れた。
もう一人の盗賊が裏口へ逃げようとした瞬間――
ジークの声が鋭く響いた。
「ラゼル!逃がすな!」
頭が真っ白になった。
足が勝手に動いた。
短剣を握る手が震える。
振り向いた盗賊の視線がこちらを捉えた。
恐怖。怒り。生きようとする意思。
それらが、ラゼルの胸を突き刺した。
その瞬間、不自然なほど自然に体が動いた。
短剣が閃き、何かが裂ける音がした。
世界が一瞬、止まった。
男の体が、崩れ落ちる。
ラゼルの手は、血で濡れていた。
指先が熱い。
心臓が、痛いほど打っている。
「……やったな!」
ジークの声が背後から聞こえた。
振り向くと、彼は複雑な笑顔を浮かべて立っていた。
「これが冒険者の仕事。契約ってやつだ。
そして、お前が“生きる”ってことだ。」
ラゼルは言葉を失っていた。
何を感じればいいのかわからない。
恐怖でも、後悔でもない。
ただ、胸の奥に何かが静かに消えていくのを感じた。
倒れた男の顔を見つめる。
目は開いたままだった。
さっきまで息をしていた存在が、もう動かない。
「……これが、“けいやく”か。」
ジークは黙っていた。
代わりに夜風が吹き、血の匂いをさらっていった。
帰り道、ラゼルは手の中の短剣を見つめていた。
刃の上に残った血が、街灯の下で暗く光っている。
「なぁ、ジーク。」
「なんだ。」
「……俺は、けいやく、できたか?」
「ああ。立派にな。」
ジークの声は静かだった。
その目は、どこか遠くを見ているようだった。
「俺たちが生きるってことは、自分が死なないために、誰か――何かを殺すことだ」
ラゼルは何も言わなかった。
空を見上げると、月が雲の切れ間から覗いていた。
白く、冷たく、まるで凍った光のようだった。
少年はゆっくりと目を閉じた。
夜の風が髪を揺らし、血の匂いが消えていく。
彼の中で、恐怖が静かに死に、理性が芽吹いた
――ラゼルは、初めて「けいやく」を覚えた。
それは救いでも、赦しでも、祈りでもなく。
そして、その夜が、世界との“契約の始まり”だった。




