還る記憶
月明かりの下、二人は歩いていた。
街道は静かだった。
風が草を揺らし、虫の声が遠くで響いている。
セナは黙ってラゼルの後ろを歩いていた。
時折、彼の背中を見つめる。
血に染まった外套。
剣を握る手。
あの戦いの後、彼は一言も発していなかった。
「……ラゼル。」
声をかけようとした、その時。
ラゼルの足が止まった。
「ラゼル?」
返事がない。
彼は立ち尽くしたまま、虚空を見つめている。
「ラゼル!」
セナが駆け寄る。
その瞬間、ラゼルの膝が折れた。
「っ……!」
地面に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
額から汗が滴り落ちた。
「どうしたの……!?」
セナが肩を支える。
だが、ラゼルの目は焦点を失っていた。
瞳の奥で、何かが弾けていた。
◇
――記憶が、洪水のように押し寄せてくる。
最初に見えたのは、灰色の空だった。
塔のような高い建物が立ち並ぶ。
行き交う人々。
鉄の箱が走る道路。
そこに、自分がいた。
名前は、漣。
白い部屋で、紙の束を捲っている。
窓の外には、無数の光が瞬いていた。
疲れていた。
何のために生きているのか、わからなくなっていた。
日々は繰り返し、朝が来て、夜が来て。
何も変わらない。
何も残らない。
ある夜、帰り道で空を見上げた。
星は見えなかった。
ただ、灰色の雲が広がっているだけ。
(このまま、消えてしまいたい。)
そう思った瞬間――
世界が、白く弾けた。
◇
次に見えたのは、見知らぬ荒野だった。
目を開けると、空は青かった。
草の匂いがした。
風が吹いていた。
自分は倒れていた。
体が動かない。
声も出ない。
誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
「おい、生きてるか?」
男の声。
顔は見えない。
意識が遠のいていく中で、一つだけわかったことがあった。
ここは、自分のいた世界ではない。
◇
記憶が加速する。
時間が飛び、場面が切り替わる。
気づけば、自分は「レン」と名乗っていた。
異界から来た魂。
この世界の法則から外れた存在。
だが、力があった。
殲滅魔法。
触れるもの全てを灰に変える、破壊の力。
教会はレンを恐れた。
同時に、利用しようとした。
「異端を滅ぼせ」
「魔物を殲滅せよ」
「神の敵を焼き尽くせ」
命令に従い、レンは殺し続けた。
何のためかもわからないまま、ただ力を振るった。
そんな日々の中で、一人の女に出会った。
金色の髪。青い瞳。
白い法衣をまとった、聖女見習い。
セナ。
彼女だけが、レンを「化け物」と呼ばなかった。
「お前は俺が怖くないのか?」
「怖いわ。でも、怖いから関わらないなんて、私には無理。」
「なぜ?」
「だって、あなた――泣きそうな目をしてるから。」
その言葉が、胸を貫いた。
◇
記憶が流れていく。
二人は共に過ごすようになった。
任務の合間に会い、他愛もない話をした。
やがて、それは恋になった。
教会の目を盗み、密かに時間を重ねた。
いつか、二人で逃げようと約束した。
「子供が欲しいね。」
セナがそう言った夜があった。
「ああ。」
「男の子だったら、なんて名前にする?」
「アルト。」
「アルト?」
「高い、って意味だ。空に向かって、真っ直ぐ伸びるように。」
セナは笑った。
「いい名前。」
だが、子供は生まれなかった。
何度願っても、何度祈っても。
セナに新しい魂が宿ることはなかった。
レンは自分を責めた。
何かが間違っているのだと。
自分が壊れているのだと。
理由はわからなかった。
ただ、空虚だけが残った。
◇
そして、あの日が来た。
教会がセナを捕らえた。
罪状は「異端との密通」。
異界の魂と関わった罪。
死刑。
レンが駆けつけた時、セナは広場の中央で磔にされていた。
白い法衣は破れ、血に染まっていた。
民衆が石を投げ、罵声を浴びせている。
「異端の女!」
「神を汚した罪人!」
「死ね! 死んでしまえ!」
石が顔を打ち、血が流れる。
それでもセナは叫ばなかった。
ただ、空を見上げていた。
その視線の先に、レンがいた。
「……レン。」
唇が動いた。
声は届かない。
だが、その目が微笑んでいた。
(逃げて。)
そう言っているように見えた。
◇
レンの心が形を変えた。昏く、深く、凍っていった。
すべてが混ざり合い、冷たい炎へと収束していく。
「――ふざけるな。」
声が漏れた。
「ふざけるな……!」
足元から光が溢れ出す。
白く、熱く、すべてを焼き尽くす凍てつく光。
民衆が悲鳴を上げた。
兵士たちが剣を抜いた。
だが、遅かった。
光が広がる。
建物が崩れる。
塔が傾き、空が燃える。
レンは叫んだ。
「こんな世界――」
光が膨れ上がり、視界を白く染める。
「――終わらせてやる」
◇
アルディアが、崩壊した。
白い塔が折れ、城壁が崩れ落ちる。
聖堂が燃え、広場が陥没する。
悲鳴と爆発と崩落の音が重なり、やがて静寂が優しく包み込む。
瓦礫の中に二つの鼓動だけを残して。
レンはセナを抱きしめていた。
彼女はまだ息をしている。
傷だらけだったが、生きていた。
「レン……」
「すまない……遅くなった……」
「ばか……あなたまで……」
セナの声が途切れた。
意識を失ったのだ。
レンは空を見上げた。
赤い空。
崩れた塔。
死んだ街。
自分が、これをやった。
後悔はなかった。
だが、体が限界だった。
殲滅魔法の反動。
魂が軋み、意識が遠のいていく。
最後に見えたのは、白い光だった。
そして――
◇
目を開けた時、自分は石造りの廃屋に横たわっていた。
体が小さかった。
手も、足も、すべてが縮んでいた。
記憶がなかった。
名前も、過去も、何も思い出せなかった。
ただ、腹が減っていた。
それだけが現実だった。
丘の上から、白い街が見えた。
中心には塔が聳え、光を反射していた。
(あそこへ行くしかない。)
そう思って、歩き出した。
それが――今世の始まりだった。
◇
「――ラゼル!」
セナの声が、意識を引き戻した。
目を開ける。
月明かり。
草の匂い。
そして、涙を流すセナの顔。
「よかった……目を覚まして……」
ラゼルはゆっくりと体を起こした。
頭の中で、すべてが繋がっていた。
漣。レン。ラゼル。
三つの名前。
三つの人生。
だが、魂は一つ。
「……思い出した。」
声が、自分のものとは思えないほど掠れていた。
「全部、思い出した。」
セナが息を呑んだ。
「ラゼル……?」
「俺は……この世界の人間じゃない。」
月明かりの下、ラゼルは語り始めた。
◇
「俺がいた世界は、ここと全く違う場所だった。」
セナは黙って聞いていた。
「高い建物が並び、鉄の箱が走り、夜でも光が消えない世界。
俺はそこで生きていた。漣という名前で。」
風が吹き、草が揺れた。
「ある日、気づいたらこの世界にいた。
理由はわからない。ただ、転移した。」
「転移……」
「この世界で、俺はレンと名乗った。
殲滅魔法という力があった。触れるものを灰に変える力だ。」
セナの顔が強張った。
「教会に言われるまま、俺は魔物を殺し、異端を焼いた。
そんな日々の中で――お前に出会った。」
「……私に?」
「ああ。前の人生でも、お前は聖女見習いだった。
俺たちは恋人だった。子供が欲しいと、二人で願っていた。」
セナの目から、涙が溢れた。
「だが、できなかった。何度願っても。
俺は……お前を幸せにできなかった。」
「ラゼル……」
「そして、教会がお前を捕らえた。
俺と関わった罪で、死刑だと。」
ラゼルの声が、低く沈んだ。
「俺が駆けつけた時、お前は広場で磔にされていた。
民衆に石を投げられ、血を流していた。」
セナが口元を押さえた。
「俺は……壊れた。」
ラゼルは自分の手を見つめた。
「アルディアを滅ぼした。
塔を壊し、街を焼き、すべてを瓦礫に変え、灰にした。」
沈黙が落ちた。
虫の声だけが、静かに響いている。
湿った風が頬を撫でる。
「その反動で、意識が消えた。
次に目を覚ました時、俺は子供の体で廃屋に倒れていた。
記憶もなく、名前もなく。」
「それが……今の……」
「ああ。今の俺。ラゼルだ。」
ラゼルは顔を上げ、セナを見た。
「俺は、同じ世界の過去に戻った。
前の人生をやり直しているんだ。」
セナは何も言えなかった。
ただ、涙を流しながら、彼を見つめていた。
「信じられないかもしれない。
狂人の戯言だと思うかもしれない。」
「……思わない。」
セナの声は、震えていた。
「あなたの目を見ればわかる。
嘘じゃない。本当のことを話してる。」
「セナ……」
「私は……前の人生では、死んだの?」
「いや。生きていた。俺が駆けつけた時は、まだ。
だが……その後のことは、わからない。」
セナは目を閉じた。
涙が頬を伝い、地面に落ちた。
「……ありがとう。」
「ん?」
「助けに来てくれて。前の私を。」
(でも、きっと。あなたがいなくなった世界なら私は……)
セナは首を振った。
そっと手を伸ばし、ラゼルの頬に触れた。
その手は、温かかった。
震えながらも、確かに温かかった。
ラゼルはセナに言えない覚悟を飲み込み、微笑んだ。
(セナ、もう一人にはならない……アルトがいる)
◇
同じ頃。
聖都アルディア、白塔の上層。
記録院の光の帯が、静かに揺れていた。
アゼルは机に向かい、水晶の板を見つめている。
その表面に、光の文字が浮かんでいた。
通信。
遠方からの報告。
『アゼル様。アルト輸送班より報告いたします。』
「聞いています。器はどんな様子ですか?」
『泣きわめいて暴れるので、魔法で眠らせています。』
「そうですか。無理もありません。
幼い子供ですからね。」
アゼルの声は穏やかだった。
だが、その目は笑っていなかった。
『予定通り、明後日には聖都に到着します。』
「わかりました。くれぐれも丁重に。
傷一つつけてはなりません。」
『了解いたしました。』
通信が切れた。
アゼルは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「器、か。」
呟きが、静寂の中に溶けた。
「君はまだ知らないでしょうね、ラゼル。
あの子供が何を宿しているのか。」
光の帯が、微かにざわめいた。
「神の残滓を喰らい、生き延びた獣。
その魂が、君と繋がっている。」
アゼルは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
眼下には、白い街が広がっている。
かつてレンが滅ぼし、そして再び立ち上がった街。
「あの獣……面倒なことをしてくれたものです」
月明かりが、アゼルの横顔を照らした。
「来なさい、ラゼル。
すべての答えは、ここにある。」
窓の外で、風が鳴いた。
白塔の影が、夜の街に長く伸びている。
その先に、何が待っているのか。
まだ、誰も知らない。




