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灰燼の契約  作者: 天城 朱雀
第一部

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27/30

還る記憶

月明かりの下、二人は歩いていた。


街道は静かだった。

風が草を揺らし、虫の声が遠くで響いている。


セナは黙ってラゼルの後ろを歩いていた。

時折、彼の背中を見つめる。

血に染まった外套。

剣を握る手。


あの戦いの後、彼は一言も発していなかった。


「……ラゼル。」


声をかけようとした、その時。


ラゼルの足が止まった。


「ラゼル?」


返事がない。

彼は立ち尽くしたまま、虚空を見つめている。


「ラゼル!」


セナが駆け寄る。

その瞬間、ラゼルの膝が折れた。


「っ……!」


地面に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。

額から汗が滴り落ちた。


「どうしたの……!?」


セナが肩を支える。

だが、ラゼルの目は焦点を失っていた。


瞳の奥で、何かが弾けていた。



――記憶が、洪水のように押し寄せてくる。


最初に見えたのは、灰色の空だった。


塔のような高い建物が立ち並ぶ。

行き交う人々。

鉄の箱が走る道路。


そこに、自分がいた。


名前は、漣。


白い部屋で、紙の束を捲っている。

窓の外には、無数の光が瞬いていた。


疲れていた。

何のために生きているのか、わからなくなっていた。


日々は繰り返し、朝が来て、夜が来て。

何も変わらない。

何も残らない。


ある夜、帰り道で空を見上げた。


星は見えなかった。

ただ、灰色の雲が広がっているだけ。


(このまま、消えてしまいたい。)


そう思った瞬間――


世界が、白く弾けた。



次に見えたのは、見知らぬ荒野だった。


目を開けると、空は青かった。

草の匂いがした。

風が吹いていた。


自分は倒れていた。

体が動かない。

声も出ない。


誰かが近づいてくる足音が聞こえた。


「おい、生きてるか?」


男の声。

顔は見えない。


意識が遠のいていく中で、一つだけわかったことがあった。


ここは、自分のいた世界ではない。



記憶が加速する。


時間が飛び、場面が切り替わる。


気づけば、自分は「レン」と名乗っていた。

異界から来た魂。

この世界の法則から外れた存在。


だが、力があった。


殲滅魔法。

触れるもの全てを灰に変える、破壊の力。


教会はレンを恐れた。

同時に、利用しようとした。


「異端を滅ぼせ」

「魔物を殲滅せよ」

「神の敵を焼き尽くせ」


命令に従い、レンは殺し続けた。

何のためかもわからないまま、ただ力を振るった。


そんな日々の中で、一人の女に出会った。


金色の髪。青い瞳。

白い法衣をまとった、聖女見習い。


セナ。


彼女だけが、レンを「化け物」と呼ばなかった。


「お前は俺が怖くないのか?」

「怖いわ。でも、怖いから関わらないなんて、私には無理。」

「なぜ?」

「だって、あなた――泣きそうな目をしてるから。」


その言葉が、胸を貫いた。



記憶が流れていく。


二人は共に過ごすようになった。

任務の合間に会い、他愛もない話をした。


やがて、それは恋になった。


教会の目を盗み、密かに時間を重ねた。

いつか、二人で逃げようと約束した。


「子供が欲しいね。」


セナがそう言った夜があった。


「ああ。」

「男の子だったら、なんて名前にする?」

「アルト。」

「アルト?」

「高い、って意味だ。空に向かって、真っ直ぐ伸びるように。」


セナは笑った。


「いい名前。」


だが、子供は生まれなかった。


何度願っても、何度祈っても。

セナに新しい魂が宿ることはなかった。


レンは自分を責めた。

何かが間違っているのだと。

自分が壊れているのだと。


理由はわからなかった。

ただ、空虚だけが残った。



そして、あの日が来た。


教会がセナを捕らえた。


罪状は「異端との密通」。

異界の魂と関わった罪。

死刑。


レンが駆けつけた時、セナは広場の中央で磔にされていた。


白い法衣は破れ、血に染まっていた。

民衆が石を投げ、罵声を浴びせている。


「異端の女!」

「神を汚した罪人!」

「死ね! 死んでしまえ!」


石が顔を打ち、血が流れる。

それでもセナは叫ばなかった。

ただ、空を見上げていた。


その視線の先に、レンがいた。


「……レン。」


唇が動いた。

声は届かない。

だが、その目が微笑んでいた。


(逃げて。)


そう言っているように見えた。



レンの心が形を変えた。昏く、深く、凍っていった。

すべてが混ざり合い、冷たい炎へと収束していく。


「――ふざけるな。」


声が漏れた。


「ふざけるな……!」


足元から光が溢れ出す。

白く、熱く、すべてを焼き尽くす凍てつく光。


民衆が悲鳴を上げた。

兵士たちが剣を抜いた。

だが、遅かった。


光が広がる。

建物が崩れる。

塔が傾き、空が燃える。


レンは叫んだ。


「こんな世界――」


光が膨れ上がり、視界を白く染める。


「――終わらせてやる」



アルディアが、崩壊した。


白い塔が折れ、城壁が崩れ落ちる。

聖堂が燃え、広場が陥没する。


悲鳴と爆発と崩落の音が重なり、やがて静寂が優しく包み込む。

瓦礫の中に二つの鼓動だけを残して。


レンはセナを抱きしめていた。

彼女はまだ息をしている。

傷だらけだったが、生きていた。


「レン……」

「すまない……遅くなった……」

「ばか……あなたまで……」


セナの声が途切れた。

意識を失ったのだ。


レンは空を見上げた。

赤い空。

崩れた塔。

死んだ街。


自分が、これをやった。


後悔はなかった。

だが、体が限界だった。


殲滅魔法の反動。

魂が軋み、意識が遠のいていく。


最後に見えたのは、白い光だった。


そして――



目を開けた時、自分は石造りの廃屋に横たわっていた。


体が小さかった。

手も、足も、すべてが縮んでいた。


記憶がなかった。

名前も、過去も、何も思い出せなかった。


ただ、腹が減っていた。

それだけが現実だった。


丘の上から、白い街が見えた。

中心には塔が聳え、光を反射していた。


(あそこへ行くしかない。)


そう思って、歩き出した。


それが――今世の始まりだった。



「――ラゼル!」


セナの声が、意識を引き戻した。


目を開ける。

月明かり。

草の匂い。

そして、涙を流すセナの顔。


「よかった……目を覚まして……」


ラゼルはゆっくりと体を起こした。


頭の中で、すべてが繋がっていた。


漣。レン。ラゼル。


三つの名前。

三つの人生。

だが、魂は一つ。


「……思い出した。」


声が、自分のものとは思えないほど掠れていた。


「全部、思い出した。」


セナが息を呑んだ。


「ラゼル……?」


「俺は……この世界の人間じゃない。」


月明かりの下、ラゼルは語り始めた。



「俺がいた世界は、ここと全く違う場所だった。」


セナは黙って聞いていた。


「高い建物が並び、鉄の箱が走り、夜でも光が消えない世界。

 俺はそこで生きていた。漣という名前で。」


風が吹き、草が揺れた。


「ある日、気づいたらこの世界にいた。

 理由はわからない。ただ、転移した。」


「転移……」


「この世界で、俺はレンと名乗った。

 殲滅魔法という力があった。触れるものを灰に変える力だ。」


セナの顔が強張った。


「教会に言われるまま、俺は魔物を殺し、異端を焼いた。

 そんな日々の中で――お前に出会った。」


「……私に?」


「ああ。前の人生でも、お前は聖女見習いだった。

 俺たちは恋人だった。子供が欲しいと、二人で願っていた。」


セナの目から、涙が溢れた。


「だが、できなかった。何度願っても。

 俺は……お前を幸せにできなかった。」


「ラゼル……」


「そして、教会がお前を捕らえた。

 俺と関わった罪で、死刑だと。」


ラゼルの声が、低く沈んだ。


「俺が駆けつけた時、お前は広場で磔にされていた。

 民衆に石を投げられ、血を流していた。」


セナが口元を押さえた。


「俺は……壊れた。」


ラゼルは自分の手を見つめた。


「アルディアを滅ぼした。

 塔を壊し、街を焼き、すべてを瓦礫に変え、灰にした。」


沈黙が落ちた。


虫の声だけが、静かに響いている。

湿った風が頬を撫でる。


「その反動で、意識が消えた。

 次に目を覚ました時、俺は子供の体で廃屋に倒れていた。

 記憶もなく、名前もなく。」


「それが……今の……」


「ああ。今の俺。ラゼルだ。」


ラゼルは顔を上げ、セナを見た。


「俺は、同じ世界の過去に戻った。

 前の人生をやり直しているんだ。」


セナは何も言えなかった。

ただ、涙を流しながら、彼を見つめていた。


「信じられないかもしれない。

 狂人の戯言だと思うかもしれない。」


「……思わない。」


セナの声は、震えていた。


「あなたの目を見ればわかる。

 嘘じゃない。本当のことを話してる。」


「セナ……」


「私は……前の人生では、死んだの?」


「いや。生きていた。俺が駆けつけた時は、まだ。

 だが……その後のことは、わからない。」


セナは目を閉じた。


涙が頬を伝い、地面に落ちた。


「……ありがとう。」


「ん?」


「助けに来てくれて。前の私を。」


(でも、きっと。あなたがいなくなった世界なら私は……)


セナは首を振った。


そっと手を伸ばし、ラゼルの頬に触れた。


その手は、温かかった。

震えながらも、確かに温かかった。


ラゼルはセナに言えない覚悟を飲み込み、微笑んだ。


(セナ、もう一人にはならない……アルトがいる)



同じ頃。


聖都アルディア、白塔の上層。


記録院の光の帯が、静かに揺れていた。


アゼルは机に向かい、水晶の板を見つめている。

その表面に、光の文字が浮かんでいた。


通信。

遠方からの報告。


『アゼル様。アルト輸送班より報告いたします。』


「聞いています。器はどんな様子ですか?」


『泣きわめいて暴れるので、魔法で眠らせています。』


「そうですか。無理もありません。

 幼い子供ですからね。」


アゼルの声は穏やかだった。

だが、その目は笑っていなかった。


『予定通り、明後日には聖都に到着します。』


「わかりました。くれぐれも丁重に。

 傷一つつけてはなりません。」


『了解いたしました。』


通信が切れた。


アゼルは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。


「器、か。」


呟きが、静寂の中に溶けた。


「君はまだ知らないでしょうね、ラゼル。

 あの子供が何を宿しているのか。」


光の帯が、微かにざわめいた。


「神の残滓を喰らい、生き延びた獣。

 その魂が、君と繋がっている。」


アゼルは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。


眼下には、白い街が広がっている。

かつてレンが滅ぼし、そして再び立ち上がった街。


「あの獣……面倒なことをしてくれたものです」


月明かりが、アゼルの横顔を照らした。


「来なさい、ラゼル。

 すべての答えは、ここにある。」


窓の外で、風が鳴いた。


白塔の影が、夜の街に長く伸びている。


その先に、何が待っているのか。


まだ、誰も知らない。

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