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灰燼の契約  作者: 天城 朱雀
第一部

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25/30

遠い記憶、そして、温もり

夜明け前。

空はまだ藍色に沈み、星が薄く残っていた。


ラゼルは眠るアルトを背負い、家の戸口に立った。

セナが最後の荷物を肩にかけ、振り返る。


「……行こう。」


短い言葉。

それだけで十分だった。


風車の街を出る道は、まだ暗かった。

石畳が途切れ、土の道に変わる頃、ようやく東の空が白み始めた。


アルトは背中で静かに寝息を立てている。

小さな手が、ラゼルの肩にしがみついていた。


セナが隣を歩く。

時折、不安げに後ろを振り返る。


「……追手は、まだ来ていない。」


ラゼルが低く言った。


「わかってる。でも……」


「気配があれば、俺が先に気づく。」


セナは小さく頷いた。

だが、その横顔には影が落ちている。


二人は黙って歩いた。

朝露が草を濡らし、靴底が湿った音を立てる。


やがて、丘の上に出た。

振り返ると、ネフェリスの街が小さく見えた。

風車の列が、朝焼けの中でゆっくりと回っている。


「……綺麗ね。」


セナが呟いた。


「ああ。」


ラゼルは短く答えた。

だが、その目は街ではなく、遠くの地平線を見ていた。



昼過ぎ。

森の入り口で、三人は足を止めた。


「少し休もう。」


ラゼルはアルトを下ろし、木の根元に座らせた。

セナが水筒を取り出し、アルトに飲ませる。


「とうさま、どこいくの?」


「遠くだ。」


「とおく?」


「ああ。新しい家を探しに行く。冒険だぞ」


アルトは首を傾げたが、すぐに笑った。


「あたらしいおうち! ぼうけん! たのしみ!」


その無邪気さが、胸を刺した。


セナがパンを分け、三人で簡素な食事を取った。

森の中は静かで、鳥の声だけが響いている。


ラゼルは木に背を預け、目を閉じた。


――その瞬間。


視界が、白く弾けた。



見知らぬ部屋。

だが、その匂いはひどく懐かしい。


窓の外には、高い建物が並んでいる。

そして、その奥には聳え立つ白塔。

空は灰色で、雨が降っていた。


自分は椅子に座っている。

目の前には、女がいた。


金色の髪。青い瞳。

白い服を着て、微笑んでいる。


――セナ。


だが、今のセナとは違う。

髪が長い。服も違う。

けれど、間違いなく彼女だった。


『ねえ、レン』


彼女が名前を呼んだ。


『子供、欲しいね。』


何かを答えようとした。

だが、声が出ない。


『男の子だったら、なんて名前にする?』


口が動いた。

自分の声が、遠くから聞こえる。


『――アルト。』


『アルト? どういう意味?』


『高い、って意味だ。空に向かって、真っ直ぐ伸びるように。』


セナが笑った。

花が咲くような笑顔だった。


『いい名前。私も気に入った。』


その笑顔が、光に溶けていく。



「――ラゼル!」


目を開けた。

セナの顔が、目の前にあった。


「大丈夫? また……」


「ああ……」


額に汗が滲んでいた。

心臓が、痛いほど打っている。


アルトが不安そうに見上げている。


「とうさま、だいじょうぶ?」


「……ああ。大丈夫だ。」


ラゼルは息を整え、ゆっくりと立ち上がった。


セナが心配そうに見つめている。

その青い瞳が、さっきの幻影と重なった。


(……思い出した。)


全てではない。

だが、断片が繋がり始めている。


「セナ。」


「なに?」


「少し……話がある。」


セナは黙って頷いた。

アルトは木漏れ日を受けながら、木の実を拾って遊び始めている。


ラゼルは言葉を探した。

どこから話せばいいのか、わからない。


だが、もう隠せなかった。


「……俺は、前にもお前と一緒にいた。」


セナの目が、わずかに見開かれた。


「この人生じゃない。別の……もっと前の話だ。」


「別の……人生?」


「ああ。詳しいことは、まだ思い出せない。

 だが、お前がいた。俺の隣に。」


セナは何も言わなかった。

ただ、静かに聞いている。


「子供が、欲しかった。」


ラゼルの声が、かすかに震えた。


「二人で何度も願った。だが……できなかった。」


風が吹き、木の葉が揺れた。

アルトの笑い声が、遠くで聞こえる。


「生まれたら、"アルト"と名付けるつもりだった。」


セナの息が、止まった。


「空に向かって、真っ直ぐ伸びるように。

 そう願って、ずっと待っていた。」


ラゼルは木の根元で遊ぶアルトを見つめた。


「だから……あの子の名前を聞かれたとき、迷わなかった。

 ずっと、決めていたんだ。自分でも気づかないうちに。」


沈黙が落ちた。


セナの目に、涙が滲んでいた。

だが、彼女は泣かなかった。


「……そう、だったの。」


その声は、震えていた。


「あなたは……ずっと、この子を待っていたのね。」


「ああ。」


ラゼルは短く答えた。


「思い出して、ようやくわかった。

 俺は……ずっと、アルトに会いたかった。」


セナは何も言わず、ラゼルの手を握った。

その手は、温かかった。



セナは微笑んでいた。

だが、その胸の奥では、別の感情が渦巻いていた。


(異界の魂は、子を成せない。)


それは、聖女として学んだ知識だった。

この世界の外から来た魂は、新たな魂を生み出すことができない。

教会の古い文献に、そう記されていた。


(……前の人生で子供ができなかった……?)


ラゼルは知らない。

自分が「子を成せない存在」だったことを。


セナはそれを言わなかった。

言えなかった。


(異界の魂だから……)


考えても結論はでなかった。それを今さら伝えて、何になる。

過去は変えられない。


だが――


(今世でアルトが生まれたのは……?)


アルトの笑い声が、耳に届く。

木の実を両手に持って、嬉しそうに駆けてくる。


(この子は、確かにここにいる。

 ラゼルと私の子として、この世界に生まれた。)


異界の魂は、子を成せない。

それが真実なら、アルトは存在しないはずだった。


(……今世では何かがあった……)


その答えは、まだ見えない。


「かあさま! みて、きれいなみ!」


アルトが駆け寄ってきた。

手のひらには、赤い木の実が三つ。


「ほんとね。綺麗。」


セナは笑顔で答えた。

その笑顔の奥に、不安を隠しながら。



日が傾き始めた頃、三人は再び歩き出した。


森を抜ければ、街道に出る。

そこから東へ向かえば、国境を越えられるはずだった。


アルトはラゼルの背中で眠っている。

セナは黙って隣を歩いていた。


やがて、森の出口が見えてきた。


その瞬間――


ラゼルの足が止まった。


「どうしたの?」


セナが振り返る。


ラゼルは答えなかった。

ただ、前方を睨んでいる。


風が止んでいた。

鳥の声も、虫の音も、消えている。


静寂。

不自然な、死んだような静寂。


「……来たか。」


ラゼルの呟きが、低く響いた。


森の出口の向こう。

街道の上に、人影が並んでいた。


白い鎧。聖光教の紋章。

整然と並ぶ、十数の騎馬。


その先頭に立つ男が、ゆっくりと前に出た。


「帳簿外の魂よ。」


声が、風に乗って届く。


「逃げ場はない。観念しろ。」


ラゼルは剣の柄に手をかけた。


背中で、アルトが小さく身じろぎした。


夕陽が、森の木々を赤く染めている。

その光の中で、白い鎧が冷たく輝いていた。

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