遠い記憶、そして、温もり
夜明け前。
空はまだ藍色に沈み、星が薄く残っていた。
ラゼルは眠るアルトを背負い、家の戸口に立った。
セナが最後の荷物を肩にかけ、振り返る。
「……行こう。」
短い言葉。
それだけで十分だった。
風車の街を出る道は、まだ暗かった。
石畳が途切れ、土の道に変わる頃、ようやく東の空が白み始めた。
アルトは背中で静かに寝息を立てている。
小さな手が、ラゼルの肩にしがみついていた。
セナが隣を歩く。
時折、不安げに後ろを振り返る。
「……追手は、まだ来ていない。」
ラゼルが低く言った。
「わかってる。でも……」
「気配があれば、俺が先に気づく。」
セナは小さく頷いた。
だが、その横顔には影が落ちている。
二人は黙って歩いた。
朝露が草を濡らし、靴底が湿った音を立てる。
やがて、丘の上に出た。
振り返ると、ネフェリスの街が小さく見えた。
風車の列が、朝焼けの中でゆっくりと回っている。
「……綺麗ね。」
セナが呟いた。
「ああ。」
ラゼルは短く答えた。
だが、その目は街ではなく、遠くの地平線を見ていた。
◇
昼過ぎ。
森の入り口で、三人は足を止めた。
「少し休もう。」
ラゼルはアルトを下ろし、木の根元に座らせた。
セナが水筒を取り出し、アルトに飲ませる。
「とうさま、どこいくの?」
「遠くだ。」
「とおく?」
「ああ。新しい家を探しに行く。冒険だぞ」
アルトは首を傾げたが、すぐに笑った。
「あたらしいおうち! ぼうけん! たのしみ!」
その無邪気さが、胸を刺した。
セナがパンを分け、三人で簡素な食事を取った。
森の中は静かで、鳥の声だけが響いている。
ラゼルは木に背を預け、目を閉じた。
――その瞬間。
視界が、白く弾けた。
◇
見知らぬ部屋。
だが、その匂いはひどく懐かしい。
窓の外には、高い建物が並んでいる。
そして、その奥には聳え立つ白塔。
空は灰色で、雨が降っていた。
自分は椅子に座っている。
目の前には、女がいた。
金色の髪。青い瞳。
白い服を着て、微笑んでいる。
――セナ。
だが、今のセナとは違う。
髪が長い。服も違う。
けれど、間違いなく彼女だった。
『ねえ、レン』
彼女が名前を呼んだ。
『子供、欲しいね。』
何かを答えようとした。
だが、声が出ない。
『男の子だったら、なんて名前にする?』
口が動いた。
自分の声が、遠くから聞こえる。
『――アルト。』
『アルト? どういう意味?』
『高い、って意味だ。空に向かって、真っ直ぐ伸びるように。』
セナが笑った。
花が咲くような笑顔だった。
『いい名前。私も気に入った。』
その笑顔が、光に溶けていく。
◇
「――ラゼル!」
目を開けた。
セナの顔が、目の前にあった。
「大丈夫? また……」
「ああ……」
額に汗が滲んでいた。
心臓が、痛いほど打っている。
アルトが不安そうに見上げている。
「とうさま、だいじょうぶ?」
「……ああ。大丈夫だ。」
ラゼルは息を整え、ゆっくりと立ち上がった。
セナが心配そうに見つめている。
その青い瞳が、さっきの幻影と重なった。
(……思い出した。)
全てではない。
だが、断片が繋がり始めている。
「セナ。」
「なに?」
「少し……話がある。」
セナは黙って頷いた。
アルトは木漏れ日を受けながら、木の実を拾って遊び始めている。
ラゼルは言葉を探した。
どこから話せばいいのか、わからない。
だが、もう隠せなかった。
「……俺は、前にもお前と一緒にいた。」
セナの目が、わずかに見開かれた。
「この人生じゃない。別の……もっと前の話だ。」
「別の……人生?」
「ああ。詳しいことは、まだ思い出せない。
だが、お前がいた。俺の隣に。」
セナは何も言わなかった。
ただ、静かに聞いている。
「子供が、欲しかった。」
ラゼルの声が、かすかに震えた。
「二人で何度も願った。だが……できなかった。」
風が吹き、木の葉が揺れた。
アルトの笑い声が、遠くで聞こえる。
「生まれたら、"アルト"と名付けるつもりだった。」
セナの息が、止まった。
「空に向かって、真っ直ぐ伸びるように。
そう願って、ずっと待っていた。」
ラゼルは木の根元で遊ぶアルトを見つめた。
「だから……あの子の名前を聞かれたとき、迷わなかった。
ずっと、決めていたんだ。自分でも気づかないうちに。」
沈黙が落ちた。
セナの目に、涙が滲んでいた。
だが、彼女は泣かなかった。
「……そう、だったの。」
その声は、震えていた。
「あなたは……ずっと、この子を待っていたのね。」
「ああ。」
ラゼルは短く答えた。
「思い出して、ようやくわかった。
俺は……ずっと、アルトに会いたかった。」
セナは何も言わず、ラゼルの手を握った。
その手は、温かかった。
◇
セナは微笑んでいた。
だが、その胸の奥では、別の感情が渦巻いていた。
(異界の魂は、子を成せない。)
それは、聖女として学んだ知識だった。
この世界の外から来た魂は、新たな魂を生み出すことができない。
教会の古い文献に、そう記されていた。
(……前の人生で子供ができなかった……?)
ラゼルは知らない。
自分が「子を成せない存在」だったことを。
セナはそれを言わなかった。
言えなかった。
(異界の魂だから……)
考えても結論はでなかった。それを今さら伝えて、何になる。
過去は変えられない。
だが――
(今世でアルトが生まれたのは……?)
アルトの笑い声が、耳に届く。
木の実を両手に持って、嬉しそうに駆けてくる。
(この子は、確かにここにいる。
ラゼルと私の子として、この世界に生まれた。)
異界の魂は、子を成せない。
それが真実なら、アルトは存在しないはずだった。
(……今世では何かがあった……)
その答えは、まだ見えない。
「かあさま! みて、きれいなみ!」
アルトが駆け寄ってきた。
手のひらには、赤い木の実が三つ。
「ほんとね。綺麗。」
セナは笑顔で答えた。
その笑顔の奥に、不安を隠しながら。
◇
日が傾き始めた頃、三人は再び歩き出した。
森を抜ければ、街道に出る。
そこから東へ向かえば、国境を越えられるはずだった。
アルトはラゼルの背中で眠っている。
セナは黙って隣を歩いていた。
やがて、森の出口が見えてきた。
その瞬間――
ラゼルの足が止まった。
「どうしたの?」
セナが振り返る。
ラゼルは答えなかった。
ただ、前方を睨んでいる。
風が止んでいた。
鳥の声も、虫の音も、消えている。
静寂。
不自然な、死んだような静寂。
「……来たか。」
ラゼルの呟きが、低く響いた。
森の出口の向こう。
街道の上に、人影が並んでいた。
白い鎧。聖光教の紋章。
整然と並ぶ、十数の騎馬。
その先頭に立つ男が、ゆっくりと前に出た。
「帳簿外の魂よ。」
声が、風に乗って届く。
「逃げ場はない。観念しろ。」
ラゼルは剣の柄に手をかけた。
背中で、アルトが小さく身じろぎした。
夕陽が、森の木々を赤く染めている。
その光の中で、白い鎧が冷たく輝いていた。




