選択の朝
朝の光が、窓の隙間から差し込んでいた。
ラゼルは椅子に座ったまま、夜を越えていた。 眠れなかった。 目を閉じるたびに、あの光景が蘇る。
焼けた大地。崩れる塔。 そして――自分自身の姿。
(俺は、何をした。)
答えは、まだ出ない。
足音が聞こえた。 振り向くと、セナが寝室の扉の前に立っていた。
「……起きてたの?」
「ああ。」
セナの視線が、机の上の手紙に落ちた。彼女は何も言わず、それを手に取った。
ラゼルは止めなかった。
紙を広げる音。 静寂の中で、それだけがやけに大きく響いた。
セナの表情が、少しずつ強張っていく。 唇が震え、指先が白くなる。
読み終えても、彼女は何も言わなかった。 ただ、手紙を机に戻し、椅子に腰を下ろした。
沈黙が、二人の間に横たわる。
やがて、セナが口を開いた。
「……教えて。」
責める声ではなかった。 ただ、知りたいという、静かな意志。
「この手紙に書いてあること。全部、本当なの?」
ラゼルは目を伏せた。
「……ああ。」
「異端調査局が、あなたを……"削除"しに来る。」
「そうだ。」
「理由は?」
ラゼルは少し黙った。 言葉を選ぶ。 だが、選べる言葉などなかった。
「……俺は、帳簿に載らない魂だ。 この世界の"外"から来た存在らしい。」
セナの瞳が揺れた。
「外……?」
「詳しいことは、俺にもわからない。 ただ、教会はそれを"異端"と呼ぶ。 修正されるべき存在、だと。」
セナは唇を噛んだ。 涙が滲みかけたが、彼女はそれを堪えた。
「……ジークさんは、逃げろって書いてる。」
「ああ。」
「あなたは、どうするつもり?」
ラゼルは答えなかった。
脳裏に、二つの選択肢が浮かぶ。
一人で立ち向かう。 セナとアルトを遠くへ逃がし、自分が囮になる。 そうすれば、二人は巻き込まれない。
だが――
(俺が倒れたら、誰があの二人を守る。)
逃げる。 三人で、できるだけ遠くへ。 追手が来る前に、この街を出る。
だが――
(逃げ切れるのか。教会の手は、どこまで伸びているのか。)
どちらを選んでも、危険は消えない。 どちらを選んでも、誰かを傷つける可能性がある。
「……ラゼル。」
セナの声が、思考を断ち切った。
「私は、逃げたい。」
その言葉に、ラゼルは顔を上げた。
セナは真っ直ぐに彼を見ていた。 涙の跡はあったが、瞳は澄んでいた。
「一人で戦うなんて、言わないで。 あなたが何者でも、どこから来ても、関係ない。 私たちは――家族でしょう?」
家族。その言葉が、胸の奥で静かに響いた。
「アルトには、父親が必要なの。 私にも、あなたが必要なの。
だから――お願い。三人で逃げましょう」
ラゼルは黙っていた。
セナの手が、彼の手を握った。 温かい。 震えている。
「遠くへ行こう。 海の向こうでも、山の果てでも。 三人だけで生きていける場所を探そう。」
ラゼルは目を閉じた。
瞼の裏に、アルトの笑顔が浮かぶ。 木の剣を振り回す、小さな背中。 「とうさま」と呼ぶ、無邪気な声。
(守りたい。)
その想いだけは確かだった。
「……わかった。」
ラゼルは静かに言った。
「逃げよう。三人で。」
セナの目から、涙がこぼれた。 安堵の涙だった。
「ありがとう……」
「礼を言うのは早い。 まだ、逃げ切れるかはわからない。」
「それでも。」
セナは微笑んだ。 震えながらも、確かな笑顔だった。
「一緒にいてくれるなら、それでいい。」
◇
荷物をまとめ始めたのは、陽が高くなる前だった。
セナは食料と水、最低限の着替えを袋に詰めている。 アルトはまだ眠っていた。 起こすのは、出発の直前でいい。
ラゼルは寝室の隅に置いた古い剣を手に取った。 ネフェリスに来てから、ほとんど抜いていない剣。 柄を握ると、手のひらに馴染んだ。
(……この感触。)
その瞬間、視界がぶれた。
白い光。 崩れる壁。 悲鳴。
――違う。
ラゼルは目を開けたまま、別の景色を見ていた。
広い部屋。 石造りではない、滑らかな壁。 窓の外には、見たこともない高い建物が並んでいる。
手元には、紙の束。 文字が並んでいる。読める。だが、この世界の言葉ではない。
誰かが名前を呼んだ。
「――蓮。」
振り向くと女性が立っている。 顔は見えない。だが、声には聞き覚えがあった。
「また残業? 体、壊すよ。」
何かを答えようとした。 だが、声が出ない。
景色が歪み、光が弾ける。
――次の瞬間。
ラゼルは剣を握ったまま、床に膝をついていた。
「ラゼル!?」
セナの声。 駆け寄る足音。
「大丈夫……? また、あの……」
「……ああ。」
額に汗が滲んでいた。 心臓が早鐘を打っている。
(今のは……"前"の記憶か。)
蓮。 その名前が、胸の奥で重く沈む。
「休む? まだ時間は……」
「いや。」
ラゼルは立ち上がった。
「急いだ方がいい。 ……悪い予感がする。」
セナは何も言わず、頷いた。
窓の外では、風車がゆっくりと回っている。 だが、その音が、いつもより重く聞こえた。
記憶の断片が、まだ頭の隅でちらついている。 白い部屋。 高い建物。
そして――
「蓮」という、もう一つの自分の名前。
(思い出すな。今は、まだ。)
そう言い聞かせても、記憶は止まらない。裂け目は、もう開いてしまった。
ラゼルは剣と荷物を持ち、寝室を出た。
朝の光が、窓から差し込んでいる。 穏やかな光。
だが、その向こうに何が待っているのか、彼にはわからなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
もう、戻れない。
どこへ逃げても、記憶は追いかけてくる。 そして、教会も。
それでも――
(今は、この手で守れるものを守る。)
ラゼルはアルトの寝顔を見つめ、静かに呟いた。
「……起きろ。出発だ。」
小さな瞼が、ゆっくりと開いた。




