記憶の裂け目
風車の回る音が、遠くでくぐもっていた。
ネフェリスの朝の空気は、いつもより少しだけ、重く感じられた。
ラゼルは斧を振り下ろしながら、胸の奥にこびりついたざらつきを持て余していた。
乾いた薪が割れる。
木目の線に沿って、きれいに割れる。
いつもなら、それだけのことだった。
だが――
「……っ。」
握った手に、別の感触が重なった。
柔らかいものを、押し潰すような感触。
骨が軋み、肉が裂ける音。
焼けた鉄と血の匂い。
視界の端が、赤く染まる。
「とうさま?」
ラゼルは一瞬、息を止めた。
振り向くと、庭の入り口でアルトが立っていた。
小さな手に木の剣を握りしめ、その瞳が不安げに揺れている。
「どうしたの?」
「……何でもない。」
掠れた声。
自分の声とは思えない。
「手……血が出てる。」
ラゼルは気づいていなかった。
斧の柄を握る指先から、薄く血が滲んでいる。
「とうさま……いたい?」
「痛くはない。」
それは嘘だった。
痛みは指ではなく、頭の奥で鳴っていた。
アルトは駆け寄ろうとしたが、ぴたりと足を止めた。
「……とうさまの目、こわい。」
その言葉に、ラゼルは目を伏せた。
「そうか。」
斧を置き、血を布で拭う。
傷は浅い。
すぐに塞がる。
だが、さきほどの“感触”は、消えてくれなかった。
(俺は……何を……?)
◇
昼。
セナは市場の手伝いを終え、家に戻ってきた。
戸を開けると、台所の椅子に腰を下ろしたラゼルが、ぼんやりと掌を見つめているのが見えた。
「ただいま。」
「……おかえり。」
セナはエプロンを外しながら、彼の前に立つ。
「手、どうしたの?」
「少し切った。」
「見せて。」
ラゼルは抵抗せず、右手を差し出した。
すでに傷はふさがりかけていたが、周りの皮膚には細い線が何本も走っている。
セナはそれを指先でなぞった。
「……増えてる。」
静かな声。
責める感じはない。ただ、事実を確かめるように。
「仕事は木箱の運搬でしょ? 前みたいな依頼は引き受けてないはずよね?」
「そうだ。」
「なら、この傷……どこで?」
ラゼルは答えなかった。
言葉にならないものが、喉を塞いでいる。
セナは小さく息を吐いた。
「ねえ、ラゼル。最近……夢、見てない?」
「夢?」
「寝てるときじゃなくてもいい。目を開けたまま見る、嫌な記憶。」
ラゼルは視線を上げた。
彼女の青い瞳が、真正面から自分を見ている。
「……昔の景色が、少しだけ見える。」
「昔、って……十年前?」
「もっと前かもしれない。」
セナの喉が、小さく鳴った。
(……やっぱり)
記録院で聞かされた“外部因子”の話。
帳簿に記されぬ魂。
――転生。
「怖くはないの?」
「さあな。」
自分でも、わからなかった。
恐怖なのか、諦めなのか。
ただ一つ確かなのは――
(このまま思い出せば、きっと戻れなくなる)
そんな予感だけだった。
「ラゼル。」
セナはそっと、彼の手を両手で包んだ。
「もし……何か思い出したら。
どんなことでもいいから、教えてほしい。」
「話して、どうなる。」
「何も変わらないかもしれない。
でも――あなたが一人で抱えたまま、どこかに行ってしまうのだけは、嫌。」
ラゼルは短く目を伏せた。
(どこかに、行くつもりはない……)
そう言いかけて、言葉を飲み込む。
それは約束になる。
約束は、破るときに誰かを傷つける。
彼はそれを知っていた。
「……考えておく。」
それが、今の彼にできる精一杯だった。
セナはそれ以上何も言わず、「じゃあ、夕飯の支度するね」と笑って立ち上がった。
その笑顔は、少しだけ震えていた。
◇
同じ頃。
遠く離れたアルディアの白塔の上層では、記録院の光の帯が静かに乱れていた。
淡い光の線に、微妙な滲み。
あるはずの“隙間”が、わずかに形を変えている。
アゼルは指先で光をなぞり、目を細めた。
「……外部因子の揺らぎが、増している。」
光の粒が弾け、一つの“空欄”の輪郭が浮かび上がる。
本来、何も記されぬはずの領域。
そこに、かすかに文字の影が現れては、消えていく。
『……zel』
断片。
完全な名ではない。
「君は、まだ“選んでいない”ということか。」
アゼルは静かに笑った。
「帳簿外の魂。
契約者。
――破壊する者。」
背後の壁一面に流れる光文字が、微かにざわめきを増す。
「教会は動き始めている。
あとは、記録が追いつくだけだ。」
机の上には数通の文書が置かれていた。
『異端調査局特務騎士団 派遣命令』
『行き先:ネフェリス自由同盟周辺地域』
『目的:外部因子と思しき存在の捕捉および削除』
アゼルはその文書を軽く指で押さえ、囁くように言った。
「運命とは、帳簿に従うこと。
――だが、君はいつまで逆らい続けられる?」
◇
夕刻。
ネフェリスの街の一角。
荒い紙に雑な筆致で書かれた一通の手紙が、酒場の主からラゼルの家へと届けられた。
「ラゼル。手紙だ。」
馴染みの主人が、少しだけ神妙な顔で封筒を差し出す。
封蝋には見覚えのある印章――鉄の獅子。
「……ジークか。」
家に戻り、ラゼルは一人で封を切った。
紙を広げると、最初の一行目に、彼の粗雑な字が躍っていた。
『よぉ、相変わらず生きてるか。』
そこだけで、短く息が漏れる。
続く行は、笑えない内容だった。
『あんまり詳しくは書けねぇが、教会と記録院が本格的に動き出してる。
黒の森の件、お前の“契約”がどうやら奴らの気に障ったらしい。
“帳簿外の魂は、修正されねばならない”だとよ。』
インクの滲みが、一箇所だけ深い。
そこにだけ、ジークの苛立ちが宿っているようだった。
『異端調査局の騎士団が、ネフェリス方面に向かった。
名目は盗賊掃討だが、実際の目的は………まぁ、お前だ。』
ラゼルの指先に力が入る。
紙が小さく軋んだ。
『セナの嬢ちゃんも、もう巻き込まれてるはずだ。
こっちで何とか手を回して時間は稼ぐ。だが――』
そこから先の字は、僅かに震えていた。
『――逃げろ。
お前たちはもう、教会に捕捉されてる。
嬢ちゃんを連れてすぐに逃げろ。』
最後の一行。
『生き残れ。ラゼル。何を犠牲にしてでも、だ。』
ラゼルはしばらく、紙を見つめたまま動かなかった。
(……ジーク。)
炎の前で笑っていた男の顔が浮かぶ。
ボロボロの片腕。
古びた槍。
そして、あの日の言葉。
『“契約”ってやつを教えてやる。
それは、命を賭ける約束だ。』
今、また一つ、“契約”を突きつけられている気がした。
戦うか。
逃げるか。
――何を、捨てるか。
◇
夜。
ランプを落とし、家が静けさに包まれた頃。
ラゼルは一人、椅子に腰を下ろしていた。
セナとアルトはすでに寝息を立てている。
寝室の扉の向こうから、かすかな呼吸の音が聞こえる。
手紙は机の上に置かれていた。
読み返すまでもなく、その内容は頭に刻み込まれている。
目を閉じた。
――落ちていく。
暗闇の底。
足元が消え、世界が裏返る感覚。
気づくと、ラゼルは見知らぬ荒野に立っていた。
黒く焼けた大地。
横倒しになった塔。
空はまるで、血のような色をしている。
風がない。
音もない。
あるのは――光だけ。
地平線の向こうから、白く眩い光が押し寄せてくる。
それは炎ではない。
炎よりも冷たく、炎よりもよく燃える“何か”だった。
光が塔を呑み込み、街を呑み込み、
祈りの声も悲鳴も、すべてを白く塗りつぶしていく。
その中心に、ひとりの男が立っていた。
焦げた外套。
血に濡れた剣。
――自分自身。
ラゼルは、その男の口が動くのを見た。
「世界を――」
唇の形が、はっきりと読める。
「――終わらせてやる。」
耳の奥で何かが弾けた。
次の瞬間、頭蓋の内側を焼き尽くすような痛みが走る。
「……っ!」
ラゼルは椅子から転げ落ちた。
息ができない。
視界が白く染まり、床と天井の区別がつかなくなる。
胸の奥から、聞き覚えのある低い声が重なった。
――オボエタカ。
ヴォルグの声。
それに重なる、別の声。
『観測ヲ、再開スル。』
「やめろ……」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
記憶の断片が、容赦なく押し寄せてくる。
白い部屋。
丸い机。
紙と、文字と、疲れた顔。
――スーツ。
それが何なのか、ラゼルは知らない。
だが、別の自分は知っていた。
蛍光灯の光。
夜の街の雑踏。
電車の中の沈黙。
名前。
“Ren”。
誰かがそう呼んだ。
自分が振り向いた。
(……俺は、)
胸の奥に空いた穴が、
今になって形を持ち始める。
――俺は、この記憶は? この世界に生まれた人間じゃない。
気づいた。気づいてしまった。瞬間、何かが決定的に変わった。
その事実は、剣の切っ先よりも鋭く、どんな呪いよりも重かった。
「ラゼル!」
遠くで、セナの声が聞こえた。
肩を揺さぶられる感覚。
アルトの泣き声。
「とうさま! とうさま!」
世界が、ゆっくりと色を取り戻す。
天井。
ランプ。
セナの涙に濡れた顔。
アルトの震える手。
「……大丈夫だ。」
そう言った自分の声が、
ひどく遠く感じられた。
(もう、“大丈夫”なんて言葉じゃ足りないところまで来てしまった。)
その夜、ラゼルは目を閉じても、眠れなかった。
記憶はまだ全てではない。
だが、裂け目は開いた。
その向こうで、
崩れた塔と燃える空が、彼を待っている。
――次に思い出したとき。
それを考えるだけで、ラゼルは恐怖した。




