記憶の影
アルトは庭の隅で、小さな木の剣を振り回していた。
ラゼルが削って作った、軽い枝の剣だ。
「とぉーっ!」
「おい。人には向けるな。」
「わかってるよ! ぼくは魔物をやっつけるの!」
「そうか。」
ラゼルは薪を割る手を止め、その姿をしばらく眺めていた。
セナが家から顔を出す。
「怪我しないように見ててね。」
「斬れはしない。」
「そういう問題じゃないの。」
言い争いではない、柔らかなやり取り。
それがこの家の空気になっていた。
(……いつからだろうな。)
剣を振るう理由が、自分のためでも、金のためでもなく、目の前のこの小さな背中を守るためになっていたことにラゼルはふと気づく。
「とうさま!」
「なんだ。」
「大きくなったら、ぼくにも剣、教えてね!」
「……そうだな。」
「やくそくだよ!」
アルトは無邪気に笑った。
ラゼルは短く返事をし、斧を構え直して薪を割る。
乾いた音が、青空に吸い込まれていった。
◇
その夜。
アルトを寝かしつけた後、
セナとラゼルは家の前の小さなベンチに腰を下ろしていた。
空には星が散り、遠くの風車がゆっくりと回っている。
ここには塔も鐘もない。
「……静かね。」
セナが夜空を見上げながら言う。
「アルディアの夜は、いつも何かの音がしてた。祈りの声とか、鐘の音とか。 あれがない夜にも、ちゃんと朝って来るんだね。」
「当たり前だ。」
「ふふ。そうね。」
セナは少し黙ってから、ぽつりと呟いた。
「この子には……私たちみたいな“運命”がないといいな。」
「運命、ね。」
「神様とか、信仰とか、そういうものに縛られない生き方。 ただ、笑って、泣いて、生きて、いつか静かに終われるような。
そういう一生を――この子にはあげたい。」
「……そうだな。」
ラゼルは、自分の手のひらを見る。
剣を握り続けて固くなった掌。
無数の傷跡が刻まれた指。
セナがそっと、その手に触れる。
「ねえ……気づいた?」
「何を。」
「あなたの手、前より柔らかくなった。」
「そうか?」
「うん。人を斬るより、薪を割る方が増えたからかな。」
セナは冗談めかして笑う。
ラゼルも、かすかに口の端を上げた。
「人を斬るより、人を抱く方が……少しは慣れてきたのかもな。」
「それ、とってもいいこと言ってるのに、あなたが言うと不思議ね。」
二人の笑い声が、小さく夜に溶けた。
◇
その翌日。
昼近くになっても、風が吹かなかった。
いつもなら絶えず回っているはずの風車が、一斉に止まっている。
「……風が、ない。」
セナが窓の外を見ながら呟いた。
ラゼルは戸口に立ち、止まった風車の列を眺めた。
妙な静けさ。
胸の奥が、かすかにざわつく。
(……嫌な感じだ。)
次の瞬間、頭の中に鈍い痛みが走った。
視界が揺れる。
地面が遠のき、代わりに――
焼けた大地。
沈みかけの黒い太陽。
崩れ落ちる塔。
耳をつんざくような悲鳴と、それを押し殺すような低い声。
『――記録ヲ、修正スル。』
誰かがそう告げた気がした。
人の声ではない。
だが、どこかで何度も聞いたような響き。
「……っ」
気がつくと、ラゼルは片膝をついていた。
額に汗が滲み、呼吸が浅くなる。
「とうさま?」
小さな手が袖を引いた。
アルトが心配そうに見上げている。
「どうしたの? どこか、いたいの?」
現実に引き戻される。
風のない、静かな庭。
セナが戸口から出てきて、駆け寄ってきた。
「ラゼル? 顔色、悪いよ。」
「……何でもない。」
「何でもなくはないでしょ。」
セナが額に手を当てる。
冷たく、優しい手。
ラゼルはゆっくりと息を整えた。
「少し、昔の夢を見ただけだ。」
「目、開いてたよ?」
「起きたまま見る夢もある。」
軽口を叩きながらも、胸の奥のざわめきは消えなかった。
(今のは――夢か、記憶か。)
アルトが不安そうにラゼルの外套の裾を掴む。
「とうさま、どこにもいかない?」
ラゼルは、その頭に手を置いた。
「ああ。」
それ以上の言葉は、なぜか喉を通らなかった。
◇
夜。
アルトは早々に眠りにつき、
セナも疲れたのか、隣で静かな寝息を立てていた。
ラゼルだけが目を開けて、天井を見つめている。
耳の奥で、まだあの声が微かに残響していた。
――記録ヲ、修正スル。
どこかで聞いたその響きが、アゼルのいた白塔の一室と、燃え落ちる塔の幻影を結びつけていく。
「……くだらない。」
ラゼルは自分に言い聞かせるように呟いた。
ここはネフェリス。
帳簿からも祈りからも遠い風の街。
白い塔も鐘の音もない。
隣にはセナがいて、その向こうにはアルトがいる。
それだけで、この世界は完結しているはずだった。
――それでも。
目を閉じたとき、ラゼルはまた見てしまう。
燃える空。
崩れる塔。
そして、己の手から放たれる――
見たこともないほど巨大な“光の奔流”。
「……俺は、何をした。」
答える者はいない。
ただ、外で風車が、止まっていたはずの帆をきしませて、ゆっくりと回り始めた。
風が戻る音が、夜の底を揺らす。
ラゼルは薄く目を開け、隣の寝顔を見た。
セナの呼吸は穏やかで、アルトは小さな手を胸の上に置いて眠っている。
朝が来れば、またパンの匂いと子どもの声で目を覚ますだろう。
今はまだ、その当たり前が続いている。
――暁の光は、まだ優しかった。
ただ、その優しさの向こうで、
何かが静かに、目を覚まそうとしていた。




