アルト
ネフェリスの風は、今日も穏やかだった。
乾いた風が風車を回し、遠くの海から潮の香りが届く。
この街に来て、もう三年が経つ。
二人が暮らす家の前には、小さな花壇と木製の柵。
朝になると、セナはそこに水をやり、ラゼルは薪を割る。
「ねえ、ラゼル。 この街の風、毎日ちょっとずつ違うの。季節の匂いっていうのかな。」
「風の匂い?」
「うん。昨日より、今日は甘い匂いがする。」
「……お前らしい感想だな。」
セナは笑い、ラゼルも微かに笑った。
◇
数ヶ月後。
冬を告げる風が丘を越え、家の中に暖かな火が灯っていた。
セナはベッドの上で静かに息をしている。
ラゼルはその手を握り、額の汗を拭った。
「……セナ。」
「大丈夫。……もうすぐ、会えるから。」
小さな産声が響いたのは、それから間もなくのことだった。
初めて見る命の誕生。
「……お前に、似てるな。」
セナが微笑む。
「ううん。あなたに似てるよ。――ほら、眉の形が。」
「そうか。」
ラゼルは小さな手をそっと握った。
◇
日が昇るたびにアルトは成長した。
笑う声、泣く声、歩き出す小さな足音。
家の中は、生きる音で満たされていた。
セナは子を抱きながら、ラゼルに言った。
「ねえ、この子の名前……決めようか。」
「……名前。」
「うん。あなたが最初に呼んであげて。」
ラゼルは少し考えてから、ぽつりと呟いた。
「アルト。」
「アルト……素敵。」
セナは優しくその名を繰り返した。
「おはよう、アルト。」
その声を聞いた瞬間、ラゼルの胸の奥で、何かが微かにざわめいた。
――“アルト”。
どこかで、その名を聞いた気がした。
◇
夜。
ラゼルは眠る二人を見つめながら、静かに目を閉じた。
夢を見た。
紅く染まる空。崩れ落ちる塔。
そして、黒い翼のような影が世界を覆っていく。
「――アルト。」
誰かが叫んでいた。
炎の中で、幼い声が泣いている。
ラゼルは息を詰まらせて目を開けた。
汗が額を伝う。
横には、穏やかに眠るセナと、胸の上で小さく眠る子。
「……夢、か。」
ラゼルは天井を見上げた。
月明かりが木の梁を照らし、ゆっくりと影が揺れていた。
(この感覚……なぜだ。知っている気がする。)
外では風が吹き、風車が軋む。
その音が、遠い鐘のように夜空に溶けていった。
――穏やかな夜だった。
けれどその静けさの奥で、ラゼルの“記録”は、ゆっくりと目を覚まし始めていた。




