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灰燼の契約  作者: 天城 朱雀
第一部

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18/30

ネフェリス自由同盟

風が変わった。

乾いた大地の匂いの中に、鉄と油と香辛料の混じった風。

それが、ネフェリス自由同盟の空気だった。


街の外壁は低く、代わりに幾百もの風車が回っている。

帆が唸り、光が跳ねる。

風が街そのものを動かしているようだった。


街の入口で馬を止め、身分証がないと伝えると、門番は大きく笑い、

「身分証はいらねぇよ。ここじゃ誰でも“旅の人”だ。ようこそ。ネフェリスへ!」


ラゼルは再び馬車を進め、セナに視線を向ける。


彼女は少し戸惑いながらも、微笑んだ。

「……名前も聞かれないのね。」

「そうだな。」

「自由って、こういうことなのかな。」

「そうかもな。」



街の中はアルディアとはまるで違っていた。


石畳の路地を裸足の子どもたちが走り抜け、行商人の声が陽気に響く。

鍛冶屋の槌音、焼き立てのパンの香り、風に揺れる色布。


どこからも祈りが聞こえない。塔が鳴らす鐘の音も。

あるのは、生活の音だけだった。


二人は市場を見て回っている。

その時、はしゃぎながら走ってきた少年がつまづき、派手に転倒した。

膝から血がでている。


セナはかがみ、手を差し出した。


優しく一言。

「少しだけ我慢してね。」


彼女は祈りの言葉を口にせず、無言だった。

手は淡い光に包まれ、彼女の手の光に照らされた少年の傷をゆっくりと癒やしていく。


「ありがとう、お姉ちゃん!」

少年は笑顔で走り去っていった。


それを見たラゼルが呟く。

「あの子どもはお前に救われた。」


その一言に、セナは笑った。

「それは大げさだよ。」


それは、アルディアを出てから初めての“心からの笑顔”だった。



夕暮れ、街の外れにある宿。

風車の影が路上に長く伸び、金色の光が窓辺を染める。

宿の主人は気さくな中年の女で、彼らを見るなり言った。


「夫婦かい? 部屋は一つしか空いてないけど、それでいいかい?」


セナは顔を赤らめた。

「えっ……あ、い、いいです、それで。」

ラゼルは特に動じず、「頼む。」とだけ答えた。


部屋は質素だった。

小さな机、ひとつのベッド、窓の外には回る風車。

セナは窓を開け、風を受けながら呟いた。


「……静かね。」

「そうだな。」


ラゼルは背中から剣を降ろし、壁に立てかける。

その音が、重く響いた。


「剣を降ろすの?」

「少しだけな。」


ラゼルは冒険者になってから人前で剣を降ろしたことがない。

もちろん、セナも初めて見る光景だった。


「あなたが剣を背負ってないなんて。新鮮!」

「だろうな。」

ふたりは、顔を見合わせて笑った。



夜。

遠くで風車がゆっくりと回っている。その影が窓辺を横切り、室内に淡い光の帯を描く。


ラゼルは椅子に腰をかけ、窓から外を見ている。

窓辺で月光を受けるその横顔をセナは眺めていた。


静寂。

昼の賑わいが嘘のように静かで、穏やかな夜。


「今日は見張り…しなくていいね。」

「ああ。俺も寝る。」


ランプの灯りを消し、ベッドの端に腰を下ろした。

その横にラゼルも座る。


「…ここなら誰にも監視されない。」

「ああ。」

「…神にも、誰の目にも。」

「そうだな。」

「…こういう日々が、ずっと続けばいいな。」

「――続くさ。」


セナは微笑んだ

その笑みは、十年前の少女のものに戻っていた。


ひとつ違うのは、その瞳の輝きが、眩しい太陽の光ではなく――

柔らかく包み込む、月の光のようだった。


セナは目を閉じ、そっと彼の肩に頭を預ける。


窓から月の光が柔らかく差し込んでいる。

その光の中で、ふたりの影が静かに重なった。


――観測されぬ者たちの街。

そこから、二人の新しい“生”が始まった。

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