ネフェリス自由同盟
風が変わった。
乾いた大地の匂いの中に、鉄と油と香辛料の混じった風。
それが、ネフェリス自由同盟の空気だった。
街の外壁は低く、代わりに幾百もの風車が回っている。
帆が唸り、光が跳ねる。
風が街そのものを動かしているようだった。
街の入口で馬を止め、身分証がないと伝えると、門番は大きく笑い、
「身分証はいらねぇよ。ここじゃ誰でも“旅の人”だ。ようこそ。ネフェリスへ!」
ラゼルは再び馬車を進め、セナに視線を向ける。
彼女は少し戸惑いながらも、微笑んだ。
「……名前も聞かれないのね。」
「そうだな。」
「自由って、こういうことなのかな。」
「そうかもな。」
◇
街の中はアルディアとはまるで違っていた。
石畳の路地を裸足の子どもたちが走り抜け、行商人の声が陽気に響く。
鍛冶屋の槌音、焼き立てのパンの香り、風に揺れる色布。
どこからも祈りが聞こえない。塔が鳴らす鐘の音も。
あるのは、生活の音だけだった。
二人は市場を見て回っている。
その時、はしゃぎながら走ってきた少年がつまづき、派手に転倒した。
膝から血がでている。
セナはかがみ、手を差し出した。
優しく一言。
「少しだけ我慢してね。」
彼女は祈りの言葉を口にせず、無言だった。
手は淡い光に包まれ、彼女の手の光に照らされた少年の傷をゆっくりと癒やしていく。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
少年は笑顔で走り去っていった。
それを見たラゼルが呟く。
「あの子どもはお前に救われた。」
その一言に、セナは笑った。
「それは大げさだよ。」
それは、アルディアを出てから初めての“心からの笑顔”だった。
◇
夕暮れ、街の外れにある宿。
風車の影が路上に長く伸び、金色の光が窓辺を染める。
宿の主人は気さくな中年の女で、彼らを見るなり言った。
「夫婦かい? 部屋は一つしか空いてないけど、それでいいかい?」
セナは顔を赤らめた。
「えっ……あ、い、いいです、それで。」
ラゼルは特に動じず、「頼む。」とだけ答えた。
部屋は質素だった。
小さな机、ひとつのベッド、窓の外には回る風車。
セナは窓を開け、風を受けながら呟いた。
「……静かね。」
「そうだな。」
ラゼルは背中から剣を降ろし、壁に立てかける。
その音が、重く響いた。
「剣を降ろすの?」
「少しだけな。」
ラゼルは冒険者になってから人前で剣を降ろしたことがない。
もちろん、セナも初めて見る光景だった。
「あなたが剣を背負ってないなんて。新鮮!」
「だろうな。」
ふたりは、顔を見合わせて笑った。
◇
夜。
遠くで風車がゆっくりと回っている。その影が窓辺を横切り、室内に淡い光の帯を描く。
ラゼルは椅子に腰をかけ、窓から外を見ている。
窓辺で月光を受けるその横顔をセナは眺めていた。
静寂。
昼の賑わいが嘘のように静かで、穏やかな夜。
「今日は見張り…しなくていいね。」
「ああ。俺も寝る。」
ランプの灯りを消し、ベッドの端に腰を下ろした。
その横にラゼルも座る。
「…ここなら誰にも監視されない。」
「ああ。」
「…神にも、誰の目にも。」
「そうだな。」
「…こういう日々が、ずっと続けばいいな。」
「――続くさ。」
セナは微笑んだ
その笑みは、十年前の少女のものに戻っていた。
ひとつ違うのは、その瞳の輝きが、眩しい太陽の光ではなく――
柔らかく包み込む、月の光のようだった。
セナは目を閉じ、そっと彼の肩に頭を預ける。
窓から月の光が柔らかく差し込んでいる。
その光の中で、ふたりの影が静かに重なった。
――観測されぬ者たちの街。
そこから、二人の新しい“生”が始まった。




