旅路
風が冷たい。
アルディアを離れて五日。
白い塔の影は、もう地平の向こうに沈んでいた。
ラゼルは馬の歩調を緩め、背後の山稜を振り返る。
あの街を包んでいた白光は、遠くでかすかに揺れている。
「もう振り返らないようにしよ?」
セナの声は静かだった。
彼女は外套のフードを外し、頬に風を受けた。
「なんか、懐かしい気がする。……子どもの頃に感じた風。」
「アルディアの空気は淀んでたからな。」
「ふふ。そうね。」
ラゼルは無表情ながら、穏やかで、いつものように歯を食いしばってるかのような緊張感はなかった。
その横顔を見つめるセナの目には、少しだけ光が戻っていた。
◇
翌昼。
街道の途中、枯れた井戸の近くで馬を休ませた。
セナは持参した水袋を取り出し、掌に少しだけ水をすくう。
風にさらされた肌が乾いて、ひび割れていた。
「冷たい……でも、気持ちいいなぁ。」
「ただの水だろ?」
セナは小さく笑い、ラゼルに水を差し出した。
「はい。あなたも。」
ラゼルは受け取って、口をつける。喉の奥まで冷たさが落ちていく。
こんな水の味を、いつから忘れていたのだろう。
◇
夜。
二人は丘のふもとで野営を張った。
焚き火の火がはぜ、赤い光が二人の顔を照らす。
「……ラゼル、眠れないの?」
「見張りだ。」
「交代する?」
「いや、慣れてる。」
少し沈黙が続いた。
焚き火の火が、風に揺れる。
「昔は、こういう夜が怖かったの。」
「なぜだ?」
「音がないから。祈りの鐘も、人の声もない。 でも今は……怖くない。不思議ね。」
「塔の音より、こっちのほうがいい。」
火の粉が夜空に舞う。
その時、低い唸り声が風に混じった。
ラゼルが反射的に剣を抜く。
闇の向こうに、二つの赤い光――獣の目だ。
「後ろに下がれ。」
ラゼルが前に出た瞬間、黒い影が飛びかかってくる。
牙が火の明かりを反射し、砂が跳ねた。
斬撃一閃。
火花とともに獣の体が崩れ落ちる。
さらに二体、茂みの奥から突進してきた。
セナが杖を構え、青白い光を放つ。
「――癒光障壁!」
光の壁に獣が衝突し、勢いを失った。
ラゼルがその隙に剣を振り下ろし、一体を斬り伏せ、地面を擦る剣が振り向きざまに、もう一体を斬り上げた。
静寂が戻る。
焚き火の火がぱちぱちと鳴る。
セナは荒い息をつきながら、手の甲の光を見つめていた。
「……まだ、使えるんだ。」
「祈りを捨てても、力は残るらしいな。」
「それでも……もう、神の名では唱えられない。」
「いいさ。信仰がなくても、人は癒せる。」
その言葉に、セナはふっと微笑んだ。
「あなた、昔より優しい。」
「昔?」
「十年前。塔の前で会った時。あなたの目はもっと冷たかった。」
「そうだったか。」
「ええ。今は……少し、あったかい。」
火の粉が二人の間を漂い、夜空へ昇っていった。
◇
翌朝。
夜明けの光が地平を染め、乾いた草原の向こうに赤い砂の丘が連なる。
セナが馬上から身を乗り出し、声を上げた。
「見て! 虹!」
薄い霧の中、太陽の光が七色に弧を描く。ラゼルもその光を見つめる。
「アルディアでは見たことないな。見ていなかったのか。わからん。」
「今は見えるね!」
「そうだな。」
二人の笑い声が、風に混ざって遠くまで流れていった。
――その風の先に、ネフェリスがある。




