帳簿の番人
塔の鐘が三度、深く鳴った。
夜のアルディアに、白い光が沈む。
白塔の上層――“記録院”。
聖光教の中でも、ごく限られた者しか足を踏み入れられぬ場所。
ここでは、ただ“記録”だけが行われる。
セナは、そこに呼び出されていた。
昨日の「事故」の件で、異端調査局より事情聴取を行うという。
白い回廊を進むたび、足音が吸い込まれていく。
壁面には小さな文字がびっしりと並び、あらゆる名が無数に刻まれていた。
(……これは、何?)
塔の最奥、扉の前で立哨の衛兵が頭を下げる。
「医療派遣班、セナ。入室を許可する。」
扉が音もなく開き、光が流れ込む。
部屋の中央に、ひとりの男がいた。
年齢不詳。白銀の髪を肩に垂らし、瞳は淡い蒼色。
その背後の壁一面には、光を帯びた文字の帯が流れている。
それは呼吸をするように明滅し、かすかな低音を響かせていた。
男は穏やかな声で言った。
「ようこそ、セナ。――私はアゼル・クレイン。記録院の主宰だ。」
「……あなたが、異端調査局の長官?」
アゼルは首を横に振る。
「私は“記す者”だよ。異端を調べるのは、記録が乱れた時だけだ。」
その言葉に、セナの胸がざらつく。
「昨日の件……あなたたちの管理下で、リオナが死にました。」
「“死”ではない。」アゼルは静かに言った。
「彼女は帳簿から“削除”された。」
セナの表情が硬くなる。
「削除……? 彼女は人です。」
「人は記録の結果だ。その名が帳簿に書かれることで初めて存在が確定する。 それがこの世界の法則。」
「救いでも信仰でもなく、記録?……それが“神”の本質だと言うの?」
「いや、厳密に言えば、神とは観測者だ。」
アゼルの瞳が光を帯びる。
「祈りとは“観測を乞う”行為であり、人は観測されて初めて存在する。。 そして、観測されぬ魂はこの世に存在してはならない。」
セナは息を呑む。
「……なぜ、彼女を消したの?」
「我々はただ、帳簿の乱れを正しただけだ。」
アゼルは指先を上げ、空中の光文字を指す。
そこには確かに“リオナ・フェイル”の名が刻まれていた。
だがその行の末尾には――黒い斜線が走っている。
「彼女は“帳簿に抵触した”。」
「リオナは何を……調べていたの?」
「外部因子。君たちの言葉でいうと“転生”と呼ばれている。」
アゼルの声は変わらず穏やかだが、部屋の空気がわずかに震えた。
「帳簿の外から来た魂。神の観測を受けぬ者。 彼らは世界の“整合”を崩す。 ゆえに、我々は修正する。」
(……外から来た魂)
セナの脳裏に、一人の姿が浮かぶ。
黒い外套。灰色の瞳。
――ラゼル。
だが、セナは言葉を呑んだ。
確信ではない。だが、今ここで口にしてはいけないと直感した。
アゼルは一歩近づく。
「セナ。君も医療班として多くの魂を看取ってきたはずだ。 人は死ぬたび、帳簿に“完了”と記される。
だが、もし死なずに――帳簿に記されぬまま現れた魂があれば、 それは、神の観測を逃れた存在。」
「……“異端”というわけね。」
アゼルの微笑みが深くなる。
「そうだ。だが君は優しい。異端に対して、だとしても祈るだろう?」
「祈りは――誰のものでもないわ。」
一瞬、部屋の光が揺れた。
アゼルはその言葉に何かを感じ取ったように、わずかに目を細める。
「……面白い答えだ。だが、忠告しておこう。」
「何?」
「“帳簿の外”の存在に近づくと、君自身の記録が歪む。 異端は君の魂を狂わせる。」
セナは背筋を正し、淡く笑った。
「なら、私の名が消える時は――きっと、その時ね。」
アゼルは何も言わなかった。
ただ、彼の背後の光文字の中で、ひとつの“空欄”が静かに明滅していた。
◇
その頃、ギルド本部。
会議室の空気は重かった。
「黒の森で発見された石碑は、確かに魔狼ヴォルグの遺骸の一部と見られる。」
ギルド長が読み上げる。
「だが、問題はそれに刻まれていた碑文だ。」
ラゼルは黙って立っていた。
報告書の文面を見つめながら、静かに呟く。
「魂は契約と共に眠り――」
会議の隅で、黒衣の男が筆を止めた。
彼の胸元には、聖光教の印章。
異端調査局の密使――記録院直属の者である。
(やはり“帳簿に記載されぬ魂”が発生している。となると、討伐したこの男か?)
◇
夜。塔の外壁を歩くセナ。
風が吹き、白布が翻る。
上空に広がる塔の光は、どこか濁って見えた。
ふと、壁の一角が光を放つ。
薄い文字が浮かび、風に溶けるように流れていく。
彼女が見たのは、名の連なり――
祈りと記録の境目。
だがその列の途中に、ひとつだけ“空欄”があった。
(……誰も記されていない?)
次の瞬間、背後から声が響く。
アゼルの声。
「帳簿はすべてを記す。 空欄――それは、観測の欠陥だ。 我々はそれを修正しなければならない。」
光が消え、闇が落ちる。
セナは反射的に振り返るが、誰もいなかった。
ただ、壁の光だけが静かに消えていく。
そしてその空欄に、一瞬――
“ラゼル”という名が、確かにそこに浮かんで消えた。
それをセナは見逃さなかった。
(そう。やはり……あなたなのね。)
白い塔の広場、祈りが始まる。人々は光を仰ぎ、神の名を唱える。
ラゼル ――帳簿に記されぬ魂。
それでも、確かに生きている“空欄”だった。




