赤い世界は止まり続ける
気が付いた時、テオドールは草原に居た。
黒い装束を着て、赤い夕暮れの草むらを歩いている。血を浴びたように真っ赤な世界だ。雨でも降った後なのか、地面は脹脛に届くまで泥濘んでいて歩き辛い。それなのに、右手をずっと誰かに引かれているせいで、立ち止まることはできなかった。
「こっち、お、いぃ、でぇ」
その誰か、が言った。嗄れた老婆のような耳障りな声だが、こちらを見下ろす顔は鬼か天女のように美しかった。
黒黒と艶のあるまっすぐな髪が揺れて、見上げるテオドールの顔へ落ちてくる。月のような金色の瞳孔が、暗がりで縦に広がる。
蛇の目だった。
その美しい蛇は、テオドールの手を引いて、林檎の樹の下へと連れて行こうとしている。
「あ、たしぃ、魔神の血を、の、飲んだ、飲んだの、どの毒より、美味しぃい、の、よぉ、でもずっと、の、喉が渇くの、の、どから手が出るほど、欲しいの」
何がおかしいのか、蛇はげらげらと笑っている。テオドールは睨まれた蛙みたいに、動けない。その美しい蛇から目が離せない。
すると突然、蛇は笑うのを止めて真顔になった。
「カボチャ畑の醜い小鬼、土から産まれた塊ちゃん、君には魔神の魂があるのぉ?」
ひた、血塗れの手がテオドールの頬に触れる。生温い、嫌な匂いがした。
あぁ、喰われる。
「触んじゃねぇ!」
死を覚悟したその時、耳馴染んだ少年の声がびりびりと空気を震わせた。
トットだ。
テオドールはハッと正気に戻る。金縛りが解けたような感覚だ。振り向くと、血塗れの道の先でトットが立っていた。彼もテオドールとはデザインの違う黒いシャツを身に付けている。狼の耳と尻尾を持つ人間の姿だが、地面に両手を着きそうな程に体を低くして、今にも蛇に襲いかからんとしている。
「テオ! 逃げろ!」
「トット!」
咄嗟に、蛇の手を振りほどく。泥濘む土を払い除けながら、テオドールは必死になって弟弟子の方へと走りだす。夕暮れに照らされたトットは、赤鬼のような肌の色をしていたが、それは間違いなくテオドールの知るトットだった。蛇はそれを引き止めるでも手を伸ばすでもなく、ニヤニヤと笑って見つめている。
「赤よ止まれ、ぇ!」
彼女が叫んだ瞬間、テオドールとトットはギクッと体を強ばらせて、その場で釘を打たれたみたいに動けなくなった。
数歩先で、トットはふーっふーっと獣のように息を荒らげている。彼は本来野生の狼であり、人一倍生存本能が強い。強敵を前にして逃げられないという状況に、強いストレスを感じているようだ。尻尾はぶわぶわと逆立って膨らんでいる。
「おい、テオ! ここは何処だ? あいつ何者だよ? すげぇプレッシャーだ、伏魔族の奴らよりずっと…!」
「ここは、多分、黄金色の草原」
「黄金色? 俺の目には赤色に見えるけどな?」
「えっと、おれ、前に、ここに来たことがある。エリー達に連れられて。黄金色の草原には、黄金色の蛇がいるんだ。それがレイミアっていう、あの女の人なんだけど」
「蛇…レイミアって、魔物の祖かよ!」
トットがレイミアを睨み付け、ぐるぐるると威嚇するように唸った。相手が悪過ぎる。まともに闘って勝ち目は無い。
「ぁ赤い、世界は、止まり続、け、るんだよぉ? 走っちゃぁ、あ、ダメ、だめ、だ、め」
夕日を浴びて、真っ赤に染まった蛇は頭を揺らして笑っていた。この世界で彼女だけは動くことができるらしい。何故ならこれは子供の遊びで、レイミアは鬼だから。気味が悪い、悪夢のような光景だった。
テオドールはごくりと息を飲む。
「あのさ、レイミア、おれ達をゆーかいしたの?」
「んーー? してなぁ、い、い」
「えっ、そうなんだ。じゃあ何でおれ達ここにいるんだろう」
「やべぇ奴の言葉を信じるな簡単に!」
兄弟子と魔物の祖による微妙に緊張感の欠けた会話に、トットは苛立ったような声を上げる。誘拐犯どころか神話時代の化け物相手に、自分達を誘拐したかどうか聞いてどうするんだ、と。
しかしテオドールはまだ考えていた。彼はマイペースな仔供だった。そしてふと、気付いたことをそのまま口にした。
「そう言えばさ、レオが前に教えてくれたんだよね。夢占いの授業の一環で」
「は? その話今じゃないとダメか?」
「確か、人のみる夢の世界では、『魔女とその弟子は常に黒装束を身に付けなければならない』って。これも古代神の決めた星の数ほどある法の一つなんかな」
「なんだその不思議の国みてぇな法律」
トットは訝しげに眉をひそめたが、そこで初めて、自分の寝巻きが見覚えのない黒シャツとスラックスに変わっている事に気付いた。
テオドールは、レイミアの顔を見つめる。
「ここは魔法で創られた夢の世界。…って思ったんだけど、合ってるかな? レイミア」
そう問いかけられて、蛇は一度だけぱちりと瞬きをしてから、彼に大きな拍手を送った。
「だーい、せーい、かーいっ」
おお、とトットは驚く。テオドールの推理は正しかったらしい。
あまりにも現実味の強いこの世界は、しかし魔法で創られた夢の中なのだという。それなら、例えこの恐ろしい魔蛇に頭からぼりぼり貪られようと、目が覚めれば全て元通りになるのでは?
「じゃあさっさと起きようぜ。これ以上こんな趣味の悪い悪夢はごめんだ」
「同感だけど、これどうやって起きんの? ほっぺた抓るにしても、おれ指一本も動かせないんだけど。喋るので精一杯」
「俺もだ」
「あぁーー、ゆ夕陽は真っ赤だから、ねぇ、赤は、止まれ、進めは青、だけ、だっけ。だけど、ね、逃、にがさないから、ね、逃げないで?」
蛇が泥濘む地面を這う音がする。金色の鱗が地面を削る。赤くて熱い泥が跳ねる。
「そう、これ正しくゆめ、正、夢だもん。ゆめゆめ、わするること、なか、れ、ぁあたし、きみの魂を喰べたいの! ねぇさっき、そう言ったよねぇ、ぇ、? 言ってなかったっけ? きゃはははっ!」
蛇が狂ったように笑いながら、テオドール達に近付いてくる。ホラー映画のクライマックスのようなシーン。
テオドールは全身鳥肌を立たせながら、「夢の中で魂を喰われたら、目を覚ますことはできんのかな?」などと恐ろしい事を考えていた。




