2-38 感謝を込めて
朝日を浴びてきらめく町を見ながら、私は月ちゃんにソルディト最後の水やりをしていた。季節は初夏となり、これからグングン気温が上がるだろう。窓辺で静かに眠る月ちゃんの鉢植えは、この1週間で明らかに変化している。土が1センチほど盛り上がり、今にも芽を出しそうだ。
「月ちゃん、頑張って。もうちょっとだよ」
『アイリス様、生育データによると、1週間前と比べて土の盛り上がりは3ミリ増加、盛り上がり面積は243%拡大、芽が出ましたら肥料の配合調整を──』
「テオ、データは任せた! 私は月ちゃんのお世話係兼応援隊だけするわ。どうせ、カウントダウンの理由は教えてくれないんでしょ?」
『アレはなんでしょうねー? 私にもさっぱりわからないですーふしぎですねー』
「後ろに、カッコ棒って付けといて」
空っぽになった部屋を見回す。荷物のほとんどは送り出して、がらんとしている。
『アイリス様、本日の天気は晴れ、気温は24度まで上がり少々暑くなりますが、絶好の旅立ち日和となります。風速は東より2メートル、馬車での移動に影響はございません』
いつものように、テオのアドバイスを元にステータス画面でコーデを悩んで、結局はテオおススメの空色のチェックのワンピースに決めた。髪型は編み込みでまとめ、長時間の馬車移動でも乱れにくいようにしている。メイクはかなり薄いナチュラルメイク。
『アイリス様、本日のスケジュールです。午前7時、月ちゃんへの水やりと最終観察終了。7時30分、寮の退室手続き。書類は机の上です。8時、商会で朝食後、挨拶。9時、王都行き馬車出発。本日の宿への到着は17時の予定です。なお、道中3回の休憩がございます。アイリス様のお気に入りのお菓子も、手持ちバッグに入っていますが、計画的にお召し上がりください。また、念のため酔い止め・目薬・のど飴などはトランクからバッグに移動させたほうがよろしいかと』
「はいはい、分かったわ。テオに任せておけば安心ね!」
テオのいつもの態度に笑ってしまう。相変わらずの几帳面さが、とても頼もしい。というか、いまや、絶対に必要不可欠生活必需品になっている。
商会の社員食堂に着くと、朝早いのに多くの売場の人たちがいた。朝ごはんを食べて、数人と最後のおしゃべりを楽しんでいると、みんなが集まってきた。
そこで、愛情と感謝をたっぷり詰め込んだ最後の置き土産をみんなに見せる。
「皆さん、これを残していきますので、是非、活用してください!」
テーブルいっぱいに大小、様々な 『地図』 を広げた。ステータス画面の地図スキルを利用して作ったソルディトの色んな種類の地図だ。
「アイリス、この地図には薬草の採取場所まで細かく書いてあるわね。季節ごとに色分けまでしてあるし……すごい! 最適な採取時間と採取数まで載ってるわ!」
サラさんが一番に薬草の地図を手に取って見ている。
「はい。春と秋で採取できる場所が違うので、色分けしてあります。あと、サラさんに教えていただいた保存方法も、余白に書き加えておきました」
「あら、この地図は……これは春のお花の名所ね。デートプランのルートが3通りも書いてあるわ。わぁ、レストランやカフェもデート向けのお店なのね。 『ここで夕陽を見ながら告白すると、83%の成功率!』 って、ふふふ、アイリスちゃんらしいわね」
「あ、これ便利! 『昼食のデリバリーが頼める店』 ですって。裏面は 『遅くまで開いているパン屋さん総菜屋さんの地図』 なのね。お店の開いてる時間まで載ってて便利だわ」
「ねぇ、見てみて。こっちは 『子供と一緒に楽しめるお店の地図』 だわ。子供を安全に遊ばせられる水辺も載ってるし、こんな情報、本当に助かるわ」
みんなが興味深そうに地図を手に取る。次々と新しい発見があるらしく、あちこちで驚きの声が上がる。めっちゃ忙しい中、頑張ったかいがあったみたいだ。
「この 『自然が楽しめる地図』 は写しがほしいわ。行ったことない場所がいっぱいだもの」
「それは、天気予報のことを調べて、あちこち行った時のものをまとめました。穴場情報も多いですよ。春から初夏にかけてお花が美しい野原、夏の夕涼みにおすすめの河川敷、秋の紅葉の名所、冬の雪景色が見える高台まで、全部書きました」
「これはいいわね! お客様への案内に使えそうだわ」
「ねぇ、アイリスちゃん。この 『飲食店の地図』 の星は何なの? 星の数が違うわね」
「その星の数は、お店の評価を示していて、オススメメニューや価格も書いてます。カフェは紅茶やケーキの評価を、夜の居酒屋は料理の質と値段のバランスで評価しています。この星の評価は、1年に1度は見直した方がいいので、これは今だけの評価ですが……」
「おぅ、それなら食いしん坊のタラやシスリンが引継いだらいいんじゃね?」
「えぇぇ、食いしん坊じゃないですよ、ギリム先輩ひどいです……でも、全部、廻ってみますけどね、シスちゃんと!」
「タラとカフェの星付けはできますけど、夜の居酒屋評価はギリム先輩たちに任せます」
その場で、飲食店情報の交換が賑やかに始まった。
「アイリスさん、これは何? 『みんなの散歩コース』 って?」
「これはお休みの日に活用してもらえたらいいなと思って作りました。例えば、服飾売場の皆さんには紫色のコースで、流行の店が多い通りを巡れるようにしてあります。眼鏡売場の方には青色のコースで、光の加減が確認しやすいスポットと精密機器の工房が多いルートです。それぞれの売場の方が、お散歩を楽しみながら情報収集できるコースを考えてみたんです」
「商品開発室用の赤色のコースは──」
開発室のヴェガさんが言いかけたところで、エリク工房長が割り込む。
「この 『配送ルート地図』 の緑色の線は、いつもの紙すき職人さんのアトリエまでの抜け道ですね! これ、馬車の交通量まで書いてある。配達の時間短縮に使えそうです」
家具売り場のおじさんが、散歩コースを指でたどりながら声を上げる。
「おや、この散歩コースの途中の星印は何だ? 『商品開発のヒント』?」
「はい。各部署での新商品開発のヒントになりそうな場所です。例えば、印刷工房なら──」
「アイリスさん、アイリスさん!」
また、エリク工房長が目を輝かせて割り込む。これだからオタク界隈は……
『アイリス様、それは偏見だと思います! 訂正して謝罪してください!』
(一言もテオのことをオタクとは言ってないけど?)
『いえ、常日頃からデータオタクと──』
「ねぇ、ここの印刷工房コースの星印! 新しい紙漉き場ですよね。ここは、伝統的な技法と最新の機械を組み合わせていて、チャレンジ精神がすごいんです。アイリスさんの言ってた 『貼って剥がせる付箋』 の紙を頼もうと思っていた工房なんですよ」
「あら、調薬室の新しい糊の研究はもう少しで成功しそうなのよ。薬草から抽出した天然素材で、何度でも貼り直せる糊ね。早く紙の選定に入ったほうがいいかも」
調薬室のサラさんが言うと、開発室のヴェガさんも話に入る。
「そうそう! 調薬室で完成したら、すぐに開発室で粘着力の調整をするわ。普通と強粘着が必要なのよね? 文具として使いやすいデザインも考えなくちゃ!」
「えっ? 皆さん、開発が早くないですか……」
調薬室のキオンさんが腕を組んで難しい顔をし、考えながら続ける。「そう言えば、この前、商品開発室が試作した香りつきインクと、調薬室の研究を組み合わせたら面白そうなんですよね。仕入れ先の紙漉き職人さんが、新しい技法に挑戦するなら、みんなで 『集中力が上がる机上用品のシリーズ』 が作れるかも」
「それは、眼鏡売場でも使えそうですね。レンズ職人さんが、目の疲れにいい素材を探してたんです。インク以外でも、集中力が上がる香りと組み合わせる商品の可能性は──」
眼鏡売場のマイケルさんが加わると、事務長が珍しく笑いながら言う。
「もしかして、集中力シリーズがあれば、事務室の残業も減りそうですね? 予算は付けますよ」
地図の話から、次々と部署を超えたアイデアが飛び交い、それぞれのアイデアが新しいアイデアを呼んでいき始めた。各売場の専門スタッフが、取引先の職人さんとの連携を提案していく。
『アイリス様、皆さまの発想力が素晴らしいですね。これは予想外の展開です』
「皆さんすごいですね。新商品のアイデアがいっぱいです」
私が驚きながら言うと、ベテラン開発者のエリーさんが笑う。
「アイリスったら。あなたが開発室に来るたびに、 『この売場とあの売場のコラボしたら面白いかも』 って言ってたの、もう忘れたの?」
「そうそう、取引先の帽子職人さんと来季の打ち合わせをしてると、アイリスちゃんが 『実は薬草で面白い素材ができそうなんです』 って飛び込んできたの、覚えてる? あの日から、私たち、部署の垣根を超えて相談するようになったのよ」
服飾売場の責任者、ローラさんにも笑われたけど、覚えがあるようなないような……
「本当に? 私、そんなにでしゃばっていたでしょうか……」
ちょっと反省していると、サラさんが優しく言う。
「でしゃばってなんかないわよ。うちの調薬室だって、アイリスちゃんが来てから随分と変わったわ。他の部署の人が気軽に相談に来てくれるようになったし。ねぇ、キオン?」
「そうだね、ここでランチしてる時にも、気軽に声を掛け合う雰囲気ができたよね」
『アイリス様、皆さまの成長は確かな事実です。データ上でも、部署間のコミュニケーション頻度は523%増加し──』
「アイリス、あなたが通りすがりに声をかけてくれて、売場のディスプレイの工夫を教えてくれたおかげで、私は自分でも色々と考えることが楽しくなったわ」
「私も! ラッピングの工夫でお客さまの笑顔が増えて。アイリスから習ったラッピングだけじゃなくて、今は自分でもお客さまに合わせて工夫を楽しんでいるのよ」
「そうだよ。アイリス君は、いつも 『こうしたら面白いかも』 って言ってくれただろ。そうやって工夫すると、本当に売上に影響が出るんだ。だから、自分でもアイデアを探そうって、そういう風に考えられるようになったんだ」
「本当に? 私、そんなに……」
「みんな、アイリスの言葉を覚えたわ。今あるものをより良く工夫する『カイゼン』と、新しい価値を生み出す『イノベーション』が大切なのよね? 絶対に忘れないわ。……でも、ちゃんと、忘れてないか確認しに来てね」
ミナさんが、声を震わせながら抱きついてくる。
「ふふ、テストしにくるわ。ミナさんのカイゼンとイノベーションを楽しみにしてるわね」
『アイリス様、出発の時間です』
テオの声に、私は深く息を吸った。
「皆さん、本当にお世話になりました。この地図は、私の感謝の気持ちが詰まっています。ソルディトの人たちが、私にたくさんの思い出をくれたように、これからソルディトに来る人たちにも、素敵な思い出を作ってもらえたらいいなと思います」
いつの間にかやってきたレオン会長が、一番大きな全体地図を大切そうに抱えた。
「アイリス、ソルディトはお前の第二の故郷だ。いつでも帰ってこい。みんなが待ってるぞ。それに、次はお前が教えてくれた考え方で、みんなも何か面白いことを始めているかもしれないしな」
「レオン会長……」
「おっと、泣くなよ。王都で新しい仲間と一緒に、もっと大きな夢を追いかけるんだろ?」
私は大きく頷いた。
「はい! たくさんの人を笑顔にできる商品を作って、この商会をもっともっと大きくします!」
みんなに見送られて、王都行きの馬車に乗り込む。窓から手を振りながら、私は思う。ヘルバで露店をしていた時は、自分一人の力で頑張るしかなかった。でも、ソルディトで過ごした日々は、みんなと一緒に成長していく喜びに満ちていた。そして、これからは王都で新しい仲間と共に、もっと大きな夢を追いかけていける。
(テオ、私って本当に幸せ者よね)
『はい。アイリス様は多くの人々から愛されています』
月ちゃんの鉢を抱きながら、私は馬車の窓から街並みを眺めた。家紋が入った貴族の美しい馬車とすれ違う。
(王都は……貴族はさ……やっぱり苦手だけど頑張るしかないよね」
『アイリス様、そういえば、エイレニアの上級貴族にだけ伝わる風習についての情報を入手しました。実は、家紋が刻印されたアクセサリーを、当主がお祝いに送って、最大限の祝福を伝える習慣があるようです。結婚や病気の快気祝いなどにも贈られるそうですよ』
(え? じゃあ、ヴェル様からシャルロッテ様へ送っていた指輪は……)
『はい。おそらく侯爵からの快気祝いだったのでしょう』
(ふーん、そっかぁ。そうだったんだ。でも、しばらく恋愛はいいかな。これから王都で、もっともっと商売繁盛させて、たくさんの人を笑顔にしたいわ!)
『アイリス様らしい決断ですね』
(ってか、テオ! その情報はいつわかったの? 私に黙ってたの!?)
『アイリス様、王都についてからのスケジュールを確認しましょう』
馬車は、軽やかに石畳を走っている。私の挑戦は、これからも続いていく。でも今度は、みんなから教わった「一緒に成長する喜び」を胸に、王都でも新しい仲間と共に歩んでいける。前世の知識とテオの助けを武器に。うん、大丈夫だ。自信しかない。
その後、王都では、貴族サロンを気に入った隣国王族の放蕩息子に振り回されたり、侯爵家の解呪のために無理をしてテオが半年もいなくなったり、月ちゃんが蕾をつけたまま全く成長しなくなったり、特許の世界評議会のメンバーに強制加入させられたり、ずっと波乱に満ちた楽しい生活が待っていることを、この時の私は知らなかった。
ソルディトが見えなくなるまで、ずっと見つめ続けた私の頬を、夏の風が爽やかに撫でていっただけだった。




