1-19 テオの嫉妬とデータベース爆誕
6月に入り、少し蒸し暑い季節になってきた。
市場での仕事を終えて家に戻ると、いつものように芽が出ない月ちゃんに「ただいま」の声をかけて、調薬の練習を始める。去年の秋から練習を始めて、はや半年以上……成果はでていないけど、早くお父さんみたいに薬で人を助けられるようになりたい。それには、地道に練習を続けていくしかないのだ。今日も頑張るぞ。
一番初心者向けの薬は、癒し草で作る軽い痛み緩和の薬だ。細かく刻んでペースト状にし、抽出器にかけて、できた抽出液をろ過するだけだ。そう、たったそれだけなのに、毎日、失敗を繰り返している。『調薬の基礎』を読むと、10回以上の連続成功が一つの基準のようだけど、私は今のところ4回である。お父さんすごい。世の中の薬屋さんすごい。尊敬する。
前世で、車の運転教習所に通い始めた頃に、世の中の全ドライバーを尊敬したあの気持ちである。早く仮免くらいまで行きたい……
それでも、諦めずに今日も練習する。癒し草を計量し、すり鉢で丁寧にすりつぶしていく。
『アイリス様、0.8グラム多すぎます。すり方も粗いですね。もう少し細かくすりつぶす必要があります』
テオの声が頭に響く。確かに的確なアドバイスだけど、集中して作業している時はうるさい。
「わかってるわよ、テオ。ちょっと黙っててくれない? 集中できないわ」
『申し訳ございません。しかし、アイリス様の上達のためには──』
「はいはい」
私は軽くため息をつきながら、テオの言う通りに修正を加えていく。しかし、結果はやはり失敗だった。はぁ……5回に1回くらいしか成功しない。やっぱり調薬に向いてないのかな……がっかりしながら、私は失敗した数値や材料をメモ帳に記録していく。
「ほんとメモ帳って便利よね~! 誰かさんみたいにうるさくないしぃ~」
つい八つ当たりで嫌味を言った私は悪くないと思う。でも、その言葉にテオが反応した。
『……承知いたしました、アイリス様。確かにメモ帳は……静かですね。ですが、そのような単純なメモでは調薬の腕前は上達いたしません。少々お待ちください。今すぐにメモ帳機能をアップグレードいたします。この私が、単なるメモ帳以上のお力添えができることをお示しいたしましょう』
「え? ちょっと待って、テオ!」
テオの応答はなかった。
メモ帳は1回大幅アップグレードしてもらったし、今のところ不満は無いんだけど……どこをどう変えるつもりなんだろう?
テオの声が消えてから、ほんの数分後にステータス画面が現れて明るく光り、メモ帳のアイコンが変形し始めた。黄色から赤に変わって変形が落ち着いたアイコンは、「データベース」という名前に変わっていた。
『今までのメモ帳の内容や記憶を最適化しますので、もう少々お待ちください』
テオの声とともに、これまで私がメモしてきた売上げ、在庫、顧客、アイデアメモなどの画面が次々と現れ、まるで魔法のように新しいデータベースへと吸い込まれていった。
「え……ちょ、ちょっと待って!」
データベースは、薬草辞典スキルのページも次々に吸い込んでいく。最初は数画面ずつ吸い込んでいたが、今は部屋中に広がって渦を巻き、竜巻のようなすごい速さで吸い込まれ始めていた。
「ほんとに止めて、テオ! 私が触れなくなる!」
データベース化を止めようとした私の頭に、テオのどこか勝ち誇った声が響く。
『ご安心ください、アイリス様。従来のメモ帳形式、辞典スキル形式でのデータ呼び出しも可能です。使い勝手はそのままに、データの分析能力を大きく改善いたしましたので、ご満足いただけるかと存じます』
みるみる間に薬草辞典が吸い込まれてしまったが、確かに辞典スキルが残っていることを確認して、ほっと胸をなでおろした。露店で暇な時は、薬草辞典を眺めながらアイデアを探すのが大事な日課なのだ。急にお客さんが来ても「Windows」+「D」が必要ない薬草辞典は、もはや相棒と言える大事な存在だ。無くなったら泣いちゃう。
テオのデータベース化の勢いは止まらない。アイリスとアヤメの記憶は、意識に残っていないレベルまで吸い込んでいるようだ。記憶回顧スキルでも見たことがないピアノを弾くアイリスの母の姿が見えたかと思うと、朝のワイドショーの画面が見え、帝国語の本、アイスクリームのメニュー表、夏フェスのライブ、前世と今世が混じって次々と吸い込まれていく。部屋中に記憶の断片の音があふれていてうるさい。こんなことなら、前世でWikipediaを全ページ見ておけばよかった。
しばらくして、やっと全てのデータベース化が終わったようだ。音が消えて、静かな部屋に戻る。
『アイリス様、調薬のデータベースを分析なさってみてはいかがでしょうか』
何も無かったかのような落ち着いた声のテオの提案に、私は少し意地悪な気持ちで返した。
「メモ帳に嫉妬してデータベースにアップグレードするくらいなら、テオが分析までしてくれたらいいじゃない」
『恐れ入ります、アイリス様。分析をご提案しましたのは、ひとえに貴方様の認知機能低下防止のためでございます』
つまり、ボケ防止に分析しろってこと?
テオの澄ました回答に、思わず吹き出してしまう。
まったく……そうね、頼りっぱなしじゃ、どっちが主人かわからなくなってしまうもんね。
キレイに分類され、グラフや表になった調薬資料を何枚もの画面に出して読み込み始めた。グラフで見ると、自分でも気付いていた「室内気温」だけでなく、コントロールできないと諦めていた「湿度」も成功率に関係ありそうだ。
「ねえ、テオ。この温度と湿度のデータ、成功率に関係ありそうじゃない?」
『さすがはアイリス様、鋭いご指摘です』
テオの声には、明らかな喜びが混じっていた。すぐに、詳細な分析結果の画面が表示される。
『癒し草を主成分とする痛み緩和薬の調薬には、室温22度、湿度45%が理想的な環境となります』
そうだったんだ……調薬の大切なポイントは、『室温と湿度』にあったんだ。お父さんが残した色々な複雑な機械の中に、エアコンみたいな調節機があるのかもしれない。触れるのが怖くて手をつけなかった私の考えが甘かったってことだ。だって、博物館とかにある骨董品みたいな機械なんだもん……壊しそうで怖い。
さらに、成功した温度でソートをかけて見ていたら、気になることを見つけた。
「待って。最適な温度と湿度でも失敗してる時があるわ。逆に外れていても成功しているときもあるし」
何が違うんだろう……データに目を走らせる。癒し草の刻み方、ペーストの粘度、抽出時間……機材の状態……機材……え? 乳鉢の材質! もしかしてこれ?!
気温20度以上の時は陶器製、それ以下の時は木製の乳鉢しか成功していない。気温と乳鉢の材質に関係あるなんて……調薬の本のどこにも書いてなかったわ。
『アイリス様、お見事です。これからデータを増やし、より良い環境を構築していきますので、どうかご協力くださいますようお願いいたします』
前世で商品の売上げ傾向を分析した時の記憶が蘇る。
一種類だけの薬の実験資料からレポートを作るなら、表計算機能をメモ帳に追加するだけで十分かもしれない……でも、今後の在庫や売上げ、顧客リストなんかとの連携を考えたら、データベース管理の方が絶対に便利だ。テオはちゃんと想定しているんだろうな。
どういう仕組みなのか、今度はデータベースのアイコンが光って、空中に次々と画面が放出され重なっていく。最後に、その画面の重なりが辞典スキルに吸い込まれ、「薬辞典」が増えていた。
薬辞典には、何度も眺めていた父親の記録や、『調薬の基礎』にあった薬などが載っていた。7割ほど埋まっている「薬草辞典」に比べ、「薬辞典」はまだ2割も埋まっていない。こっちもコンプ目指したいな。よし、もっともっと調薬を頑張るぞ!
その夜、恒例のステータス画面を開くと、ちょっと予想していた通りの変化があった。
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【スキル】 緑知の指
(採取、鑑定、探知、調合、栽培、抽出、調薬)
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ずっと5つのままだった緑知の指の技能が、一気に2つも増えてる。そして、待ちに待った「抽出」と「調薬」の技能が追加された。すごい……こんなに一気に! めっちゃ嬉しい。
データベースのおかげなのは確かだけど、もし全てをテオに任せていたら、この新しい技能は得られなかったかもしれない。自分で考えて試行錯誤することが大切なんだ。最近は、何でもテオに甘えすぎていた自分を反省する。
「ねえ、テオ」
『はい、アイリス様』
「ありがとう。本当に」
その言葉に、テオの声が少し照れたように聞こえる。
『い、いえ……アイリス様が頑張っているから、私もできる限りの補助をしようと思えるのです。明日からもよろしくお願いいたします。おやすみなさい、アイリス様』
「うん、おやすみ、テオ」
もちろん、その後はテオお得意の、眠りやすい呼吸のレクチャーが始まった。ブレないウザママモードだ。頭に響くテオの穏やかな声を聞きながら、静かに目を閉じた。ASMRと思えば最高だ。今度、靴磨きの音とか、耳かきの音をリクエストしてみよう。
明日からは、新しい知識と技能を活かして、さらに調薬に励もう。そして、いつかお父さんのように、薬で多くの人を助けられる存在になりたい。
窓から差し込む月明かりが、まるで私の決意を祝福しているかのように、柔らかく部屋を照らしていた。
――――この時、私はまだ薬の難しさを理解せず、希望だけを抱いていた。
ChatGPT先生に聞くと、毎日8時間Wikipediaを読んだ場合、日本語版だけでも20年、全言語版だと855年かかるそうです。ネットの海は広いです。




