プロローグ
初投稿です。よろしくお願いします。
「カイガイリョコウミヤゲノハンドクリーム」
爽やかな銀葉樹の匂いとともに、突如として、この耳慣れない言葉が脳裏に浮かんだ。それは、まるで記憶の扉を開く鍵のように機能した。
「違うわ、知ってる言葉じゃない」
断片的に、見知らぬ、だが見慣れた風景が流れていく。
◇
高層ビルが立ち並ぶ街。 たくさんの人が行き交う駅。
机に向かってカタカタと音を立ててPCに向かう自分。
スーツを着た社員たちが忙しそうに動き回るオフィス。
◇
私の名前は佐藤アヤメ。28歳。
東京の小さなコンサル会社で働いている。いや、正確には「いた」と過去形で言うべきなのかもしれない。なぜなら今、私の意識は12歳の少女の体の中にあるのだから。
目を開けると、そこは見知らぬ家の中だった。薄暗い室内に、日が差し込んでいる。居心地がよさそうな木製の家具が並ぶ落ち着いた部屋。
初めて見る感覚と、見慣れた感覚が同時にあって、頭が混乱する。
鏡に映る自分は、少しパサついたダークブラウンのロングヘアに大きな紫の瞳を持つ痩せた少女の姿。なかなかの美少女だ。不思議なことに、この少女の記憶も同時に頭の中に存在している。この体の持ち主の名前はアイリス・ヴェルダントという。12歳。
紫色の目かぁ……異世界転生? 転移? ラノベ? 今の私がアヤメなのは間違いないけど、この身体はアイリス。うん。さっきまでのアイリスの記憶も残ってるわね……えっと、アヤメの最後の記憶は……うーん、終電で帰ってて……
突然、前世の最後の記憶が鮮明に蘇った。
◇
終電間際の地下鉄のホーム。 人々の喧噪が遠のいていく。
「アヤメ、この企画書、明日の朝イチで確認お願いね!」
先輩の声が耳に残る。 「任せてください!」 と笑顔で頷く自分。
終電で帰り、改札を抜けて夜中の街へ。
信号待ちをしていると、ふいに強い光が目に飛び込んでくる。車のヘッドライト。
衝撃の瞬間、世界がスローモーションになる。
ゆっくりと移動していく視界には夜空しか映っていない。
まるで他人事のように、のんびりとした思考が流れる。
「交通事故と月の満ち欠けは関連性あるって聞いたけど……今日の月は……あぁ……キレイな三日月……」
そう思った瞬間、世界は暗闇に包まれた。
不釣り合いに、森の中にいるような爽やかな香りが漂っていた。
◇
記憶から現実に戻り、深呼吸をする。
ふーっ、思いっきり跳ね飛ばされたわね。先輩、企画書の確認できなくてごめんなさい。社長、プロジェクトから抜けます。もうすぐ終わりで、今なら、被害少な目だから許してください。
とりあえず、その場で頭を下げておく。紫の瞳でも日本人気質は抜けないようだ。
「よし、まずは現状分析ね。それからヒアリングして、課題の洗い出し。解決策と実行計画の策定。進捗管理。ペンと紙を見つけなきゃ」
声に出して、今後の手順を確認する。
いつもの仕事と同じ作業をすると、少しこの意味不明な現実に折り合いをつけられる気がした。うん、冷静にいこう。大丈夫。現実逃避じゃない……はず。平常心、大事。
現状分析。まずは環境の把握から。
この子の記憶によると、ここはエイレニア王国の北方、ボレアリス地方の田舎町ヘルバらしい。
窓の外には、石畳の狭い路地を行き交う人々の姿が見える。遠くには、尖塔のような建物のシルエットもある。馬車の音が聞こえて、空気には薪の煙と土埃の香りが混ざっている。
石畳の道や、建物の外観、人々の服装……昔のヨーロッパみたいな世界に見えるわね。テーマパークよりリアルな景色と匂いだわ。王国ってことは、王様がいるわけよね? それにしても馬車か……。電気も通って無さそうだし、環境的には、ちょっと覚悟が必要かもしれない。
でも、安全性は問題なさそう。いきなり生命の危機じゃなくてよかった。
次は、リソースの確認。
前世から持ち込んだものは無し。やっぱり転移じゃなくて、転生なのかな。
この子の記憶では、ここは魔法が無い世界なのね。なんかちょっと残念。膨大な魔力があったり、前世の知識で新しい魔法を開発したりはできないらしい。神様にも会わなかったし、転生ボーナスは無いってことか。スキル選択制なら「言語理解、箱庭、転移、空間収納、鑑定」を選ぶって決めてたのにな。つまんない。
ふむ。この家にあるものは全部、好きに使ってよさそう。衣住は問題なし。食は……
そして、状況の分析。
この子の両親は、1年前に事故で亡くなっている。薬屋をしている頼もしい父親。いつも笑顔の美人な母親。愛情たっぷりに育てられた一人娘のアイリス。家族はめっちゃ仲が良かったみたいだ。理想的な家族像なのに、親戚はいないのか縁遠いのか、とにかく事故から後は、一人暮らしをしてたみたいね。12歳で一人暮らしって、この世界では普通なのかな? 要確認だ。
それにしても、アイリスって私と一緒なんだ。…………私も両親を亡くして一人暮らしだった。私が両親を亡くしたのは成人後だったし、ちゃんと生命保険もおりたから、お金に困ることはなかったけど……記憶をのぞき込んでるからか、ちょっと喪失感がシンクロしてしまった。
で、この子は父親から教わった知識で薬草を採って、市場でそれを売って生計を立てていたけど……うーん、あんまり薬草は売れてなかったっぽい。ほとんどお金が無くなって、最近は、食事もあんまりしていなかったみたいだ。
薬屋は立派な建物みたいなのに、何でお金がなかったの? あ、父親が高価な機械を買ってて、精算で持っていかれちゃったんだ。この子が泣いてる間に、全部、終わったっぽいし、もしかして騙されてたかもしれないなぁ。機械も代金も持っていくっておかしいでしょ。
でも、この子は箱入りの12歳だもんね。はぁ……しょうがないか。
今日も市場に行く準備をしていて、薬草の匂いがトリガーになって「海外土産のハンドクリーム」という単語が浮かんで、今の状況に至ったわけね。この銀葉樹って薬草、ティーツリーの匂いに似てる。うん、色々と理解。
『お父さん、お母さん、会いたい』
それが、この子が最後に思い浮かべていた言葉だ。大人として胸が痛くなる。目の前の細い手首をみると、この少女はたぶん栄養失調で……そしてきっと前世の私も。
軽く頭をふって、声を出した。
「最後は、行動計画の策定ね! お腹空いてるとネガティブになっちゃう。とりあえずなんか食べてー、それから薬草の仕分けとやらをしてー、市場に薬草を売りに行ってー、うん、そこで現状確認のヒアリングをしよう! いきなりお隣さんに聞くより自然よね」
食べ物を探してみるけど、食材はほとんどない。
とりあえず、この硬いパンの切れ端と、クズ野菜でスープを作ろうかな……えぇぇ! かまどなの!? ちょっと萎え。いや、かなり萎えぇぇ。都会に行ったらガスがあるといいんだけど。田舎だからローテクなのか、この世界がローテクなのか……判断は保留にしときたい。
少女の記憶をなぞって、マッチと枯草と薪でカマドの火をおこし、塩だけで調理する。
物足りないスープをサッと飲む。コンソメほしい。
薬草の仕分けテーブルに移動して雑然と積まれた薬草を見た瞬間、私の中の『仕事人間』がバチバチして腕まくりをし始めたのがわかった。アドレナリンでてるな。これは。
私は、市場で薬草を売るための戦略を練り始めた。
今晩は、絶対に味付けしたお肉を食べてやるっ!!