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うしろのひと

作者: 譜久村崇宏

 スマホの時刻表示は、もうすぐ二十二時。次の地下鉄まであと五分。

 街灯の少ない大通り沿いにある、駅の二番口に向かって足早に歩く。

 その日の内に仕事が終わるのはひさしぶりだった。一分一秒でも早く帰りたい。明日も七時に出社して、終わらない「死の行進」をつづけるのだから。

 一ヶ月前くらいに、はす向かいのおとなしい後輩が来なくなった。

 次は、となりの同期だろう。お調子者で無駄口が多かったのに、最近は口数が少ない。それに……今日、彼の首に不気味な黒い手が絡まっているのを見てしまった。

 ――同期の仕事が回ってきたら……。

 みんなと同じように、あの「黒いやつ」にとりつかれるのも時間の問題だ。

 肩こりがひどい。目がかすんで、頭がぼうっとする。疲れているのに、よく眠れない。床についても、就活の失敗や後悔を思い出して目がさえてしまう。

 追い詰められている。でも、毎日の仕事に追われて、どうすることもできない。

 ――私が死んだり、上司を殺したりしたら、仕事しなくてよくなる、のかも……。

 ふと思いついた考えに驚いて、足を止めたそのとき、通りがかったコンビニの刺すような照明で視界が塗りつぶされた。

「来ないでっ!」

 突然、右うしろから、か細い声がした。初夏のむしむしとした熱気の中、ひやりとした空気をまとった影が走り抜ける。それは幼い少女の姿だった。長い髪とワンピースのすそを振り乱し、息を切らせている。

「逃がさねぇぞ……」

 今度は左うしろからだ。はっ、はっ、という荒い呼吸音が耳に届く。獣臭い空気を感じた直後、大きな影が追い越していった。毛むくじゃらの人間だ。頭は狼のかたちをしている。

 二人とも青白く光っており、輪郭がはっきりしていない。首筋に寒気が走った。

 少女が右に曲がる。コンビニの先にある店のあたりだ。吸い込まれるように姿を消した。彼女を追いかけて、人狼も右に曲がる。同じように、消失してしまった。

 ――何を、見たんだろう……。

 着ぐるみをきた変質者が女の子を追いかけている、というのが想像の限界だった。

 理解を超えることでも、間近で起こったのなら無視できない。いざ、というときは警察に通報できるよう、スマホをにぎりしめ、少女と人狼が消えたところまで走り寄る。

 そこには、バーがあった。

 月光のように輝くネオンサインで「miroir」と描かれている。

 赤褐色の光沢が美しい木製の扉には、ガラスの窓がはめ込まれていたが、くもっていて中が見通せない。

 どうしようか迷っていると、ぎぃっと音を立てて、扉が開いた。出てきたのは、黒のカマーベストに黒の蝶ネクタイを締めた、いかにもなバーテンダーだ。

「こんばんは。一杯いかがですか?」

 店主なのだろうか。特徴のない顔だった。見ようによっては、男性にも女性にも、年上にも年下にも見える。違和感を覚えたが、ハスキーな声がとろけるように心に染みて、スマホをにぎりしめた手が思わず緩む。

 この状況では帰りづらい。それに、少女と人狼のことをちゃんと確かめたい。唇をきゅっと結び、うなずいた。

「それでは、どうぞ」

 店主のまねきに従って店内に入る。

 奥に向かって長い、五つの席が並ぶカウンターに目が行く。扉と同じ色合いと光沢が、薄暗くて柔らかい照明に映えていた。

 どうやら、店内にあの二人の姿はないようだ。ふと、店の左奥を確認する。

 小さなステージがあった。中央にはアンティーク調の姿見が置かれている。そして、奥の壁には、逃げる少女と牙をむく人狼の絵画が飾られている。

 ――あの絵って、まさか……。

「こちらへ」

 突然の呼びかけにうわずった声で応え、案内されたカウンター中央のスツールに腰かける。

 店主の背後の棚には、整然とビンが並んでいた。ラベルには異国の言葉が描かれている。

 差し出されたメニューには、見慣れないお酒ばかり載っていた。左上に書かれた種類のおすすめを注文する。飲み方はお任せした。

 店主が選んだビンのラベルには、異国というよりも異世界のような言葉とともに青色の植物が描かれていた。手のひらに収まるグラスに、それに詰められた淡い青色の液体を注ぎ、曇りのない水晶玉のような給水器から、水をひとしずくずつ落としていく。

 まるで、魔法使いの儀式のようだ。青色だった液体が、ゆっくりと白濁し、青白く光りはじめる。その幻想的な様子に見惚れていると、遠くから声が聞こえてきた。

「どちらを選ぶの?」

「どっちを選ぶんだよ?」

 あの二人の声だ。もう一度あの絵に目をやる。少女と人狼が、消えていた。

「どうぞ、ごゆっくり……」

 グラスが目の前に差し出される。今にも飛び出しそうな叫び声を呑み下すため、青い光を放つそれをつかんで、中の液体をぐいっとあおる。

 甘い香り。とろりとした舌触り。蠱惑的な蜜が口の中に広がり……焼けるような強いアルコールを感じた。

 呑み込んですぐ、これまでに経験したことがないほど酩酊する。意識がはっきりしない。

 悪寒がする。冷たい手に全身を撫でまわされるようだった。それとともに恥ずかしさが高まっていく。心の奥に隠していたものが這いずり出てきた。大きくなり、際限なく広がる。もどかしくて今度こそ叫びたい、そんな衝動が暴れ出す。

 それをなんとか抑えこんで落ち着いたとき、店内が突然暗転した。

 手に持ったグラスの液体がさらに輝き、深淵の闇を一瞬だけ明るく照らす。

 右どなりからくぐもったすすり泣きが聞こえてくる。恐るおそる、そちらを見ると……探していた白いワンピースの少女が座っていた。グラスの中身と同じように不気味に光りながら、顔を両手で覆っていた。

 左どなりからは、うなり声と、ぽた、ぽた、という水音が聞こえてきた。唇の震えが止まらない。ゆっくりと左を向く。そこには怪しく光る人狼がいた。口吻をめくり上げて牙をむく。よだれが、カウンターに落ちた。

 声が出ない。身じろぎもできない。グラスの光を見つめて、この幻影が消え去ることを願う。

 しかし、それは叶わなかった。二人が話しかけてくる。

「ねえ、死んじゃいましょうよ。静かで安らかな場所へ行きたいでしょう?」

 涙に濡れた幼い声が右耳から侵入する。聞かずにはいられない、甘い声だった。

 重く低いうなり声が左耳から侵入する。それは、ヒトの言葉として理解できた。

「おい、さっさと殺しちまえよ。おまえの苦しみを奴らに教えてやれって!」

 少女と人狼の言葉が胸の中で混ざり合う。ぐるぐると渦をまき、その中心から、虚ろな瞳をもつ、あの「黒いやつ」が生まれた。ぽっかりとあいた空洞のような口が声を発する――

「大丈夫、ですか?」

 悪夢から目を覚ましたかのように、がばっと顔を上げる。目の前にいた店主の声だ。現実の感覚が戻ってくる。割れそうなくらいに頭が痛みだした。

「チェイサーです」

 額に手を当ててうめいていると、店主から水が差しだされる。あわててひとくち飲みこむと、店内が元の明るさになった。しかし、少女と人狼は居座ったままだ。

「となりの少女と狼……いったい何者なんですか!?」

 店主に思い切って尋ねると、平板な顔が、わずかに怪訝な表情となった。

「少女と、狼……なんて、どこにもいませんが……」

「え、見えない? そんなこ――」

 再び、店内が暗転した。コツ、コツ、という靴音とともに、何かが奥のステージの方から近づく気配がする。そして、背後に立った……。

「ええ、となりには誰もいません。誰かがいるのは……あなたの、うしろです」

 店主の声があやしく響く。鼓動が速まる。うしろに何がいるというのか。

 少女がすすり泣く右側から顔を振り向けると、目の端にうしろの誰かの持ち物が映った。革で仕立てられた瀟洒な鞄。もう少しお金が貯まったら、思い切って買おうとしているブランドもののバッグだ。持ち主を見てやろうと、スツールを回転させたとき、声がかかった。

「振り向かないで」

 聞き覚えがある声だった。これは、オンライン会議でたまに聞こえてしまう自分の声。そのときと同じ違和感が、不可解な状況に拍車をかける。

 ――うしろにいるのは、私……?

 冷たい汗がじわりとにじむ。心もからだも縮こまり、カウンターにしがみついた。

「少女と狼。どちらを選ぶ?」

 答えられなかった。少女と人狼の言葉がたどり着く先。それが、あの「黒いやつ」だとしたら、どちらも選びたくない。

「そうなんだ」うしろのひとが、ふふっとかすかに笑った気がした。「それなら、進むしかない。あなたが信じる『前』へ」

 言葉とともに、ぽん、と背中を叩かれる。

 その柔らかな衝撃が、疲弊した心を揺り動かした。

 どうして今までそうしなかったのだろう。不埒なことを考えたり、実行したりするよりも、はるかに楽だったはずだ。

 軽い靴音が、出口の方へ向かい、やがて消えてしまった。残っていた水を一気に飲み干すと、少女と人狼の幻影も掻き消え、店内が明るくなる。

「お客さん?」

 店主の気づかいに目礼し、席を立つ。

「もう、大丈夫です。お騒がせしてすみませんでした。明日があるので、今日は帰ります」

 代金を手渡すと、店主がにこり、と微笑む。

「そうですか。それでは、おやすみなさい」

 出口へ向かおうとして、ふと、うしろを振り返る。何もないステージの奥、壁にかけられた絵画に目を向けると、少女と人狼が戻っていた。

 もう一つ、何かおかしなことがあったが、不思議と気にならなかった。

 しっかり前を向いて歩く。酔いはすっかりなくなっていた。扉にある窓枠のガラスが、鏡のように私を映す。会社を出たときよりも晴れやかな顔だと思った。

 扉を開いて、外に出る。

 うんざりするほどの熱気は変わらない。今日も熱帯夜だろう。でも……

 ――明日、話してみよう。

 見覚えのある鞄を抱えた誰かが、前を横切る。地下鉄の二番口に向かっているようだ。

 私は、その人に追いつこうと走り出した。


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