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まだ出会う前の二人はシリアスみが強い 前編


 男爵家の半地下にまるで牢獄のように、ひっそりと据えられた粗末な一室の隅で、薄いボロ布でできた服を着た一人の少女が、ガクガクと身を震わせていた。

 少女は屋敷で働く使用人ではない。


(どうして私はいつもこんな目に遭わなければならないのだろう)


 少女はこの屋敷の主人、アングロッタ男爵の末娘、ミラジェだった。


 元々この部屋は物置として作られた場所だった。それを無理やり人間が住む部屋へと仕立て上げたせいもあって、冬の間は、凍えるような隙間風が容赦なく吹き込んでくる。

 ミラジェが震える体をなんとか温めようと、ベッドに敷いてあったシーツを身にぐるりと纏う。薄いシーツには大した耐熱効果はないが、ないよりはマシだ。


 今日は、こんなに寒くて眠れるかしら、と不安な思いが脳裏をよぎった瞬間、古い木製の扉がドンと大きな音を立てて開かれた。


「あ……。義母様……。お姉様……」


 開かれた扉の先に立っていたのは、ミラジェの二人の姉と義母だった。三人は、怒りを隠すことなく、ミラジェを鋭い眼光で睨みつける。


「ミラジェ! あなた食料庫の食べ物を盗んで食べたでしょう? なんて性根が卑しい子なの⁉︎」


 下の姉が、腕を組みながらミラジェに問い詰めた。

 彼女が言うように、ミラジェは今朝、食糧庫からパンを一つ盗んで食べてしまったのだ。

 しかし、もう三日何も食べていないミラジェは、何か盗んででも食べないと死んでしまうほどの極限状態に追い詰められていた。盗みは悪いことだ、なんてそんなことは分かっている。ただ、どうしても、どうしてもお腹が空いていた。


 生存本能の訴えを無視することはできず、使用人たちが出払った瞬間を狙い食糧庫に入った。まさか、義母たちが見ているなんて思っていなかったが。


 ガリガリに痩せた体をプルプルと震えさせながら、ミラジェは恐ろしい喧騒で怒鳴りつける上の姉の顔を上目遣いで見た。


「すみません……お姉様。どうしても空腹に耐えられなくて……」


 そう言うと二人の姉の隣で話を聞いていた義母は、大袈裟に表情を崩す。


「まあ! あなたはわたくし達が十分な食事を与えていないとでも言うの? 本当に卑しい子だわ」

「そんなこと……」

「だまらっしゃい」


 否定をする前に、義母が持っていた鞭でビシリと叩かれる。叩かれた皮膚は火傷を負ったように赤く腫れ上がり、焼けるように熱い。瞬く間に、痛々しい赤黒い色へと変化していった。


「申し訳ありません……義母様……」


 謝ったところでもう遅い。二人の姉と母の折檻は一度始まってしまうとそう簡単には止まないのだ。彼女達は、始めこそ怒りの感情を持って、ミラジェへの折檻を始めるが、次第にその顔に笑みを浮かべ始める。

 ストレスの多い彼女達にとってミラジェの折檻は一種の娯楽なのだ。


 三人はミラジェを打つとき、目元をほんのりと染めて、楽しそうに笑う。彼女たちはミラジェをまるでサンドバッグのように扱い、虐げることで得られる爽快感に、快楽を感じているのだろう。

 折檻を受けているミラジェにとってその時間はただの地獄だが、彼女達にとっては気分転換に適した運動の時間に過ぎない。


(どうして、私はこんな目に遭わなければならないのだろう。せめて、せめて……この時間が早く終わりますように)


 ミラジェは永遠にも思えるほどに長い、折檻の時間を目をぎゅっと瞑って、懸命に耐えた。



 ミラジェはアングロッタ男爵家の末娘である。

 と、言っても彼女の身分は家の娘達の中では一番低い。


 それどころかその扱いは、男爵家に仕える使用人よりもよほど酷いものであった。


 教養は与えられない。食事も与えられない。部屋も地下室。もはや名前だけある家畜のような扱いだ。


 なぜそんなことが許されてしまうかというと、ミラジェの母は男爵家当主が手を出した使用人__いわゆる妾の子供だったからだ。


 使用人の中でも美しい風貌をしていたミラジェの母は、男爵家当主の命令的求愛に逆らえず、半分脅されるような形で行為を受け入れていた。

 やっとの思いで男爵家から下町へと逃れたミラジェの母は、自身が妊娠していることに気がつき、絶望した。それでもなんとか一人でミラジェを産み育てたのだから、立派な人だとミラジェは思う。


(私は同じような状況に陥ったら、生まれた子供を愛せるだろうか)


 ミラジェの母は不義の子として生まれてしまったにもかかわらず、ミラジェに惜しみなく愛を注いでくれていた。


 目を瞑れば、母の優しくて強い笑顔が蘇る。


「かわいい、かわいい、私だけの大切な子。私はあなたのことが本当に大好きよ」

「お母さん、大好き!」


 どんな瞬間にも慈しみを感じる優しい時間はミラジェにとって幸福そのものだった。


 二人は下町のはずれにポツンと建つ、誰が見ても小さな家だねえ、と言ってしまうような家に、身を寄せ合うようにして暮らしていた。

 家の中もボロボロで、年がら年中、隙間風が吹き込んでいて、吹けば飛ぶような造りであったし、母の仕事が不安定なこともあり、食事もそこまでたくさんは食べられない生活であった。


 しかしそれでも母からの愛情だけはたくさんあった。


 母はミラジェを毎日優しく抱きしめた。


「ミラジェ。あなたは大好きな人に愛されて暮らすのよ。私にはできなかったことだけど、あなたにならきっとできるわ」


 か細い声で語る母の言葉に、ミラジェは首を傾げた。


「なんで? 私、お母さんのこと大好きだよ! いっぱい愛しているもん! それじゃあダメなの?」


 その言葉を聞いた母は目を丸くした。


「……そうね。私は大好きなミラジェに愛されているものね。それだけで幸せだわ」


 母は今にも消えてしまいそうな儚い笑顔で微笑んだ。

 その笑顔の中にどれだけの苦悩があったのか、ミラジェには想像もつかないが。


 下町で暮らした日々は幸せそのものだった。

 あの日々が続いていたら……。そんなことを今でも思ってしまう程度には。



 母と二人で下町でひっそりと幸せに暮らしていたミラジェだったが、その幸せな時間は六歳の冬、突然絶たれてしまった。


 母親が流行り病の末に亡くなってしまったのだ。


 悲しみに暮れる中、身寄りがなくなったしまったミラジェの元にやって来たのが、当時アングロッタ男爵家当主になったばかりのミラジェの父だった。どうやら、母が生前、自分が死んだ後に面倒を見てくれないかと連絡をしたらしい。


「お前が、リリアーナの子供か……、顔だけはあの女に似ているな」


 初めて見る父は平民として街の隅で隠れるように暮らしてきた自分とは比べ物にならないくらい綺麗な格好をしていた。

 艶のある重そうなベルベット地のロングコート、緻密な刺繍、宝石がこれでもかと盛り込まれたボタン。その全てが、ミラジェの生活に存在しないものばかりだった。

 しぶしぶという様子で迎えにきた父を見て、ミラジェは悟った。


(この人にとって私は本当に必要のない存在だったのだわ)


 不要だが、その身に流れる貴族の尊い血を市井へまき散らさせるのは許せなかったのだろう。

 こうして、ミラジェは下町から貴族家へと迎え入れられる数奇な運命を辿ることになったのだ。



 それからの生活は、まさに悪夢だった。

 男爵家に引き取られてからは、義母と姉たちにいじめ抜かれる日々が続いた。

 特に義母は愛する夫の愛情を奪った母に似た顔つきをしたミラジェのことを酷く忌み嫌った。


 ミラジェは自分を嫌う義母に対して反抗心は抱かなかった。むしろ無理はないと思って達観しながら受け入れていたくらいだ。


(義母様にとって、私は人生の汚点そのものだろうから……)


 ミラジェの存在は義母にとって、自分が愛されなかったことの証明そのもののように思えるに違いない。

 それでも、自分を養育してくれるなら、どんな蔑みでも甘んじて受け入れよう。そう心の中でルールを定めることにした。


 二人いる姉は、甘やかされて育っていた。欲しいと思ったアクセサリーやドレスを湯水のように与えられ、これこそ、貴族の子女という気高い気質を持っていた。


 それとは反対に、ミラジェには何も与えられなかった。服も、貴金属も、食料も、教育も。姉達に無償で与えられていたものは、妾の子であるミラジェには不要だと判断され、ことごとく排除された。


(それでも、雨風が凌げる家があるだけで私は幸せなのかもしれない)


 もし、母が亡くなって、孤児となった時。誰も自分を引き取ってくれなかったら、自分は生きていなかっただろう。親と家を失い、路上に打ち捨てられるように暮らす自身の姿をありありと想像することができた。きっと、あのまま一人ぼっちだったら、一度だって冬を越えることはできず、命を失っていただろう。


 でも、幸せな記憶を抱きしめたまま、凍え死んでしまえた方が、幸せだったかもしれないと今となっては思う。


 生きていても、命があったとしても、男爵家の暮らしはミラジェにとって、地獄でしかなかった。


 与えられた養育、と銘打った躾は、虐待としか言えぬ仕打ちだったのだ。


 最初は頬を打たれるくらいの折檻だった。


 初めてミラジェの頬を打った義母は、やってしまった、と後悔するような表情を浮かべていた。しかし、回数が増え、ミラジェを殴ることで己の心模様がスッと晴れることに気づき始めると、下卑た顔をして笑うようになった。


「そうよ……。全部この子が悪いんだから。罰は受けなくっちゃね?」


 そう言った義母の顔は悪魔的に歪んでいたことを今でも覚えている。


 そこから仕打ちはどんどんエスカレートしていった。

 体の痣は徐々に浅黒く染みつき、古傷はいつしか消えない刻印のように、体を覆った。長年打たれたことであちこちの筋を駄目にしたのか、体の自由は年々利かなくなってくる。


 それでも、姉と義母のいやらしいところは、ギリギリ死なない程度の栄養と治療をミラジェに与えるところだった。


 死にそうで、死なない。そんな消えてしまいそうな境界を一人ぼっちで歩く日々は寂しくて、悲しい。


(もし、誰かが私に温かい愛を向けてくれたら……なんて夢に思うことはあるけれど。きっと私の人生にそんな幸運は訪れない。願うだけ無駄だわ……)


 ミラジェは本当は今すぐにでも死んでしまいたかった。しかし、自死を選ぶには覚悟が足りない。


 自分の存在を心の底では疎ましく思っていたかもしれない母が命をかけてこの世に産み落としてくれたこの命を自分の決断で終わらせてしまうのは、母に対してあまりにも不義理に思えたからだ。


 夢を見ることも許されないミラジェの心は年月を重ねるに連れ、何も感じないほどに凍っていってしまった。



 ミラジェが男爵家に住み始めてから九年が経ったある日の朝。

 その日はまだ日が上らぬ時間から、姉達が妙に騒がしかった。普段着とは趣向の違う、一張羅だろう煌びやかなドレスを身に纏い、顔にはこれでもかという厚化粧を施していた。

 今日は姉たちにとっては勝負の一日だった。

 何を隠そう、今日の夜、王城では陛下主催の舞踏会が開かれるのだ。この舞踏会で無条件に招かれているのは十五歳__この国で成人を迎えている全ての未婚の女性達だ。


 男性は陛下から直々の招待状がある未婚の人間しか招かれないことになっている。


 ということは、このパーティーは貴族男性の中でも爵位が高い人間のお見合いパーティーである可能性が高い。

 招待されていると噂に上がっている貴族男性達の名前を聞いたミラジェの姉達は、驚きの声をあげた。


「この舞踏会は陛下の従兄弟でいらっしゃるシャルル・エイベッド様のために催されたらしいって噂よ!」


 上の姉がギャンギャンと耳に響く声で騒ぐ。


「嘘っ! あの、シャルル様が⁉︎」


 下の姉も、その事実が衝撃だったようで、バンと勢いよく机を叩き立ち上がる。


(シャルル・エイベッド様……)


 シャルル・エイベッド公爵はこの国で知らぬ者がいないほどの有名人である。


 どんな相手に対しても、表情を変えることなく一切笑わないことから、氷の騎士と呼ばれているが、そのあまりにも美しすぎる顔にくらりとこない淑女はいないと評判の男だった。


 その美しい顔と、王国でも高い地位を持つ彼の存在は下町の子供でも知っているレベルで有名だ。貴族の女性達のみならず、大衆にもアイドル的人気がある高貴な貴族なので教育を与えられていないミラジェでさえ、その名を知っているほどだった。


 それと同時に、身内に対しても公正な態度を貫き、どんな不正も許さない、厳しい人であることも有名だ。

 税を不正に申告していた自身の父を断罪し、三十二歳の若さで、自身が公爵家の当主になった。


(そんな高貴で厳格な方を、姉様達が射止められるとは思わないけれど……)


 ミラジェの姉達はミラジェの目から見ても、そこまで器量良しではなかった。見た目は悪くもないが良くもない。夜会に出たとしても見目麗しい令嬢が多くいればモブになって霞んでしまうであろう、いたって普通の令嬢といった風貌なのだ。


 それでも持てる財力をふんだんに使い、最新の流行を踏襲した化粧や、評判のいい工房のドレスを身に纏っているので、そこそこかわいいと思えるくらいに加工はできているかもしれない。しかし、中身がいかんせん残念だとミラジェは分析していた。


 大人気の公爵様ならば、どんな女性だって選び放題のはずだ。そんな選り取り見取りの条件下でわざわざ妹をいじめることだけを人生の楽しみとしている心根が曲がった人間を選び取るとは思えない。


 人の愛憎は、時に考えられぬほどの狂乱を呼ぶ。できるだけ平和に暮らしたいと願っているミラジェは、そんな得体の知れないいざこざに巻き込まれるなんてごめんだった。


 ミラジェはいかなる場所においても、目立つ人間には決して近づかないことを信条としていた。



完結済みなので、毎日2話更新。


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