アノミーの残響
私は意識がぼんやりとしていく中で相対したその人がほんとうにその人なのかよくわからなくなっていた。グラスと頭を空っぽにして、考えるのを次第に放棄する。
突然、とうに削除したはずのアドレスからメールが届いたときは本当に驚いた。「元気にしてる?よかったらご飯でも行こう」、開封するのに数日を要したそのメールの本文は随分とあっさりとしたものだった。宛先人は、もう二度と会えないだろうと思っていた人だったからだ。
私は悩みに悩み、返信した。一週間後、高校の最寄り駅の居酒屋で、私は彼と再会する。
アノミーの残響
高校1年、その「病」は、私に突然降りかかった。
口にするもの一切、味がしなくなったのだ。
私はそれ以降、昼食の時間になると、教室でご飯を食べることができなくなった。皆が弁当を広げる中、一人だけ食べないでいるには不自然過ぎるし、私はこのことを相談する相手も、解決する手段も持っていなかった。昼食の時間になる前にこっそりと教室を抜け出し、旧校舎にある進路指導室の隣にある、空き教室に忍び込んだ。ここはほとんど人通りがなかったから、気が楽だった。むせながらも申し訳程度に水を喉に流し込んで、長い昼休みをぼんやり過ごすようになっている。
そんな日々が続いたある日のことだった。その日は特に体調が優れなかった。いつもの空き教室になだれ込むように扉を開けると、なんとそこには先客がいた。隣の席の佐々木くんがこちらを見る。どうしてここに?と問いかけると彼は苦笑いを浮かべた。
「これ、うるさいって追い出されちゃって」
「そうなんだ」
佐々木くんは授業中を除いて、ほとんどの時間をギターの練習に費やしていた。いつも黒い大きなギターケースを背負っており、休み時間、私の教室でギターの音を聞かないことはない。
「昼いっつもいないよね、ここで毎日ご飯食べてるの?」
「ううん、食べてない、何食べても、味がしないんだ」
あっさりと自分の「病」を告白した。佐々木くんはそっか、と特に驚く様子もなく、抱えていたギターに触れる。
「それなら無理に食べない方がいいね」
「うん」
「でもしんどかったら保健室行った方がいいよ」
「ありがとう」
シャリシャリ、っと乾いた音が、いつもは静かな空き教室に響き渡った。私は音楽やギターのことなんてよく知らないけれど、心地いい音だということは分かった。
「どんな曲を弾くの?」
「うーん、今は次の合同ライブで引く曲を練習中」
「ごうどうらいぶ?」
「うん、他校と合同で、うちの高校で演奏するんだ」
こんな風に他愛ないことを話していると、いつの間にか昼休みが終わる時間になっていた。佐々木くんが戻ろうか、と言い、答えて立ち上がろうとすると頭がぐらり、とした。体の中で血が急速に駆け巡るのを感じる。
「……さん!」
まずい、そう思った次の瞬間、私は地面に叩きつけられた。
保健室で目を覚ましたのは放課後だった。
私は養護教諭に自分の現在の症状をたどたどしく話すと、すぐに病院で診てもらうよう勧められた。そして佐々木くんが真っ青な顔で私を運んできてくれたことを教えてもらった。そうか、先生や医者に相談すればよかったのだ。滑稽なほど、私は自分のことを他者に話すことを失念していた。彼に明日謝らなければならない、と思いながら帰路につく。
それ以降、佐々木くんは私を心配してか、昼休みになると例の空き教室に来てくれるようになった。彼は毎日袋パンを二つほど頬張りながらギターを弾いていた。横に座って私はその音を聞く。私を襲った「病」は通院の甲斐あってか、徐々に快方に向かっていき、少しずつ物を口に入れることができるようになった。
そして、ギターの音に耳をすませ、彼の機敏に動く右手を見ながら昼休みを過ごす。空き教室の埃っぽい空気と、窓から差し込む日の暖かさが私たちを包んでいた。
「今度ライブをやるんだ」
その一言を聞いて、彼の演奏を聞きに行こうと思い立ったのは高校二年の夏のことだった。改札を抜けて、私は京阪電車に乗り込んだ。特急を一つ見送って準急に乗ったのは、一日の利用者数はかなり多いのに、特急が止まらないその駅が目的だったからだ。理由を教えてもらったことはあるけれど、もう忘れてしまっていた。電車を降りると、少し時間が余っていたので、駅のサンマルクコーヒーでアイスコーヒーと、甘ったるいチョコレートの入ったクロワッサンをつまんだ。店を出て、スマートフォンの地図を頼りに歩いていく。川にかかる小さな橋を越え、私は難なく小さなライブハウスに辿り着いた。
私はプロのライブですら一度も行ったことがなかった。どのように振舞っていいのかがわからず、その狭く暗い室内に入ることすら躊躇する。何とか受付でチケットとドリンク代を支払い終えて、やけに重たい戸を開けると、人がひしめき合っていた。彼の出番には少し早いので、部屋の後ろの方で壁にもたれながら引き換えたオレンジジュースを啜る。口の中で正しく、オレンジの甘酸っぱさが跳ねる。舞台の上では彼と同じような高校生バンドの人たちが演奏を続けている。何組かのバンドが演奏を終えるといよいよ、彼とそのバンドメンバーが舞台に現れた。わっと歓声が上がり、心臓は跳ねた。
彼のバンドのボーカルが挨拶をする。彼は確か軽音部の部長で、さすが部長だと納得してしまうほどトークが上手だった。このライブハウスで演奏するのは初めてではないらしく、以前の思い出話を語ったり、今後のライブの宣伝もしていた。ほどなくして演奏が始まる。いつも教室で聞いているささやかな音ではなく、頭を、手を、足を、心臓をびりり、と震わせるほどの爆音が私の中を走った。演奏されている曲が何かは分からなかったけれど、音の厚みが、会場の熱気が私をただただ夢中にさせる。
生き生きと身体を揺らしながら、弦を弾く。音を、リズムを、照明を、観客を統べては音楽そのものになる。彼の笑顔だけがスポットライトに照らされているかのような錯覚に陥ってしまうくらい、私は彼から目が離せなかった。
ライブが終わり彼が舞台を降りた後でも私は呆然としていた。ふらふらとした足取りで駅に戻り、電車を待っている間もずっと先ほどの彼の姿を思い浮かべていた。
陳腐だ、だけど私は明確に恋に落ちてしまった。
じっとりとした空気を含んだ夜風が、プラットホームに吹き込む。
「昨日は来てくれてありがとう」
「えっ、うそ、気付いてたの?」
「もちろん、目がいいのが自慢なんだ」
翌日の昼休み、いつもの場所で彼は待っていた。ライブに行くことは伝えておらず、こっそり見に行って驚かせようと思ったのに。まさか、あの狭くて暗い、人が密集している箱の中で、後ろの方にいる自分のことを見つけられているなんて思っていなかった。
「あの、とってもよかった。私、あーいう場所に行ったことなかったから、すごく新鮮で、演奏もすごかった」
「ありがとう、それはなにより」
私の語彙力がまるでない賛辞にも笑って答えてくれる。今度文化祭でも演奏するからぜひ、と言うと、いつものようにぺんぺん、とギターの弦を弾きはじめた。昨日の彼の姿を思い出す。ボーカルの人のように、一番目立つわけでもないのに、私には彼の姿が直視できないほどまぶしかった。
「……周囲には馬鹿にされるんだけど、これで生きていきたいと思ってる」
「え?」
「高校出てからも、ギター続けていきたいんだ」
夢だけどね、と彼は照れ臭そうに笑った。私もつられて笑う。どれだけ素敵なことだろう、彼はこれからもギターを手に、多くの人を魅了する。そして私は、ずっと前から彼の演奏が大好きだったのだとこっそり胸を張るのだ。普通科高校のボロい校舎の中で、私はささやかできらめいた夢を描いた。
けれど、それ以降、私が彼の演奏を聴くことはなかった。
あのライブハウスの演奏の一週間後、彼は右手に三角巾をして登校してきた。
それからはいつも教室に鳴り響いていたあのギターの音は聞こえなくなった。三角巾がとれて包帯だけになった頃、彼は学校を休みがちになり、文化祭にも来ることはなかった。どんなことがあっても休まなかった軽音部の活動にも顔を出さず、部員たちは肩を落としていた。誰も彼も、かける言葉を持ち合わせていなかった。
当然、昼休みの空き教室に彼が来ることはなくなった。一人で占有するにはこんなにこの教室広かったのかと驚いてしまった。いつものように菓子パン一袋を食べ、コーヒーを飲む。聞こえてくるはずのないギターの音を空耳してしまうほど、私は佐々木くんと一緒にいた。私は秋を越え、冬に向かって冷えていく空き教室の中で、一人涙を落とし続けた。涙が落ちる音だけを聞き続けた。
そして、卒業式にさえ、彼は出席しなかった。
けれど予感は当たった。式が終わった後、あの空き教室に入ると彼の姿があった。少し痩せて、髪が伸びていた。彼は私の方を向かず、窓際のイスに座り、外を眺めていた。
「佐々木くん」
「動かないんだ、右手が、もう、前みたいに」
高校生活を共にした仲間との別れを惜しみ、未来を夢見る卒業生の声が、春めいた空気と共に冷えた教室に流れ込んできた。佐々木くんが振り返る。彼が泣くのを見るのは初めてだった。
「しにたい、しにたいよ、手が動かない、たすけて、最近、しぬことばかり考える、ここから飛び降りたら、とか今電車にぶつかったら、とか、たすけて、もう、だめなんだ」
見たくなんかなかった。熱があろうと必ず行っていた軽音部の活動をサボる姿も、私を支えたその優しい表情が涙で歪むのも、あんなに美しく、私を魅了した右手が血に塗れるのも、私はもう何も見たくはなかった。何も見たくはなかった。
「たすけて、たすけて、もう、もう、ギター、弾けない」
この人を救えないと思ったとたん、私の体は石のように動かなくなった。何かを言わなくてはならないと思えば思うほど言葉は全身から抜け落ち、抱きしめようと手を伸ばそうとも、腕が動かない。ただ涙を流すことしかできない。怪我の具合は、心配したよ、君がいなくてさみしい、しにたいなんて言わないで、どの言葉も違う。そうなってしまえば、私はもう何も持ってはいない。無知で無謀な18歳の私にただ一つだけわかったことは、この人を喪ってしまうということだった。
感情を爆発させたのち、彼は抜け殻のようにぐったりと俯き、また私に背を向けた。だらりと垂れ下がって震える右手を私は見ていられなかった。そして彼は私に一瞥もくれず、教室を出ていった。扉が閉まった後、私は崩れ落ちて嗚咽した。
ねぇ、佐々木くん、たすけて、
何を食べても何を飲んでもまた、味がしないんだよ。
大学に入学して、それなりの日々を送っているうちにあっという間に月日は流れた。私は成人してからたくさんのお酒を飲むようになった。美味しさなんて微塵もわからないけれど、アルコールに私はどんどん魅了される。これは甘い、これは辛い、これは少し酸っぱい、大丈夫、ちゃんとちゃんと味がわかる。喉を焼き、舌を痺れさせ、思考を鈍らせる。飲酒は私が初めて覚えた自傷の快楽そのものだった。「病」はよくもなったし、悪くなることもあった。
心臓が壊れそうなほど会うのが怖かった。けれど想像したよりもずっと、佐々木くんは壊れる前そのものの佐々木くんだった。3杯も4杯もグラスを空けて、私たちは世間話から近況まで、和やかにいろんな話をした。けれど私たちの基盤である高校時代の話は一切しなかった。もちろんあの卒業式の日のことも。
5杯目に差し掛かったところで完全に酔いが回って私はカウンターに突っ伏した。佐々木くんが心配そうに水を差しだす。かろうじて保っている意識に上ってくるのは、狭いライブハウスの中で一際輝いていたあの時の彼の姿だ。私の夢と、彼の夢が終わりを告げたあの日のことを、何度も何度も思い出す。
ギターなんて弾けなくたって、ステージに立てなくなったって、あなたがただ大切だとあの時伝えればよかった。どうしてあの時一緒に泣いてあげられなかったのか、ずっと自分を呪っていた。果てしない挫折と絶望の中で、佐々木くんどれほど傷ついたのだろう。それなのに、目の前で何もかも忘れたように笑うその人を、私は今、刺し殺したいのか、抱きしめたいのかよくわからなくなっていた。
「泣かないで」
そういったのは私と彼、どちらだったのだろう。私は大きな痣が残った彼の右手にそっと触れた。その手は冷たく、かすかに震えていた。アルコールに打ち負けて朦朧とする意識の中で、聞こえてくるのはあの空き教室で毎日耳にした、彼がギターを弾く音だった。もう聞くことが叶わない、あの音だけだった。