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季節は空から訪れる(2)

 何も予定のない休日の朝は、幸福な二度寝から始まる。

 特に今朝はいい気分で布団に包まることができた。昨夜、あんなにもやもやしていたのが嘘みたいだ。

 布団の外は冬みたいに冷え込んでいて、腕を伸ばして時間を確かめることもためらわれるような朝だった。私はぬくぬくと二度寝を堪能し、午前八時過ぎに起床した。


 今日は一日、のんびり過ごそうと決めていた。

 遠出をするのも億劫だし、誰かと会いたい気分でもない。ちょうど録り溜めていたドラマもあったことだし、二日がかりで消化してしまうのもいいかもしれない。ついでにのんびりお風呂に浸かったり、普段なかなか作れない手の込んだご飯を作ってみたりして――。

 もっとも、朝ご飯を作るのに冷蔵庫を開けたら食料品の備蓄が底をつきかけていた。

 特に買い置きの梅干し、納豆、卵などが軒並み切れかけているのは大事だ。朝は白米派の私にとって、これらはなくてはならない人生の盟友だった。せっかくの休みなんだし、買い出しくらいは済ませておくべきかもしれない。

 朝食を済ませて身支度を整え、部屋を出ようとしたのが十時頃。

 すると壁を隔てた隣室の玄関でも、がたがたと物音がしていた。黒野くん、これから出勤かな。


 靴を履き終えた私が玄関のドアを開けると、隣室のドアもほぼ同じタイミングで開く。

「あ、おはよう都さん」

 外へ出てきた黒野くんも、私に気づいて振り向いた。

 今朝はライダース着てマフラー巻いてと、完全防寒装備のようだ。それだけ寒い朝だった。

「おはよう。これから仕事?」

 私が尋ねると、黒野くんはマフラーに顔を埋めるように頷く。

「今日は遅番。けど、お蔭で朝から都さんと会えた」

 また嬉しそうに言ってくれるなあ。

 こそばゆくなる私をよそに、黒野くんは屈託なく笑ってみせる。

「都さんはどっか行くの?」

「ちょっと買い出しにね、そこのスーパーまで」


 このアパートからは歩いて五分の距離にスーパーがある。思い立ったらすぐに買い物に行けるのがありがたい。

 今日のうちに必要な買い物は全て済ませて、あとは月曜まで外に出なくてもいいようにしておきたかった。たまにはこんな休日の過ごし方もいい。


「じゃあ、途中まで俺と一緒に行く? 通り道だし」

 黒野くんが誘ってくれた通り、彼のお店もまたこの住宅街の中にある。スーパーよりもちょっと先、もう五分歩くくらいのところだ。

 そしてせっかく誘ってもらったんだから、私もすぐに頷いた。

「お言葉に甘えようかな」

「どうぞ甘えて。さ、行こ」

 ドアに鍵をかけた黒野くんが、朗らかに私を促す。

 誰かと会いたい気分じゃないって言っても、黒野くんは別だった。

 昨夜のもやもやを引きずらずに済んでいるのも彼のお蔭だ。


 アパートの階段を下りて路上へ出ると、吐く息の白さに気がついた。

「寒っ。今朝は一段と冷えるね」

 ぶるっと身体を震わせた黒野くんも、真っ白な息でそう言った。

「昨日あたりから気温下がってきた気がするね。もう冬みたい」

「もう冬なんだと思うよ。天気予報が今日、雪降るかもって」

「雪? まだ十一月なのに……」

 思わず聞き返しつつ、私は空を見上げてみる。


 一面に広がる真っ白な曇り空は、確かに秋というより冬の空みたいだった。

 これだけ冷え込んでいれば、雨ではなく雪が降ってもおかしくはない。

 もっとも季節外れの雪、そして冷え込みを歓迎する気にはなれなかった。あまりに急な気温の落ち込みに、身体も、それにクローゼットの方も準備ができていない。


「衣替えしないと駄目かもなあ」

「都さん。まだしてないの? 俺なんてほら、もう冬の装いだよ」

 歩き出しながら、黒野くんが首に巻いたチェックのマフラーを指差す。

「十二月入ってからでもいいかなって思ってた。黒野くん、準備いいね」

 私が誉めると彼はにやりとしたけど、その後であっさり続けた。

「引っ越してきたばっかだから、衣替えっていうより荷解きしただけ」

「ああ、そういうことね」

 種明かしをされれば納得もできた。確かに引っ越し直後じゃ、衣替えも何もない。

「せっかくのお休みだし、私も済ませちゃおうかな」

 やりたいことはいくつかあったけど、衣替えを済ませた後でも十分事足りるだろう。何せ予定のない休みが二日間だ。

「都さん、この週末は何する予定だったの?」

「のんびりしようかなって思ってた。ドラマ見たり、ご飯作ったり」

 私が答えると、黒野くんはにわかに瞳を輝かせた。

「今日の夕飯、何?」

「まだ決めてないよ。さっき朝ご飯食べたばかりだもの」

 買い物ついでに決めようと思っていた。今日は寒いから、何か温かいメニューがいい。

「都さんの手料理か、食べてみたいな」

 黒野くんがねだるように言って、目の端で私を見やる。

 私も彼をちらりと見てから応じる。

「そんな大したものじゃないからね。手の込んだご飯作るの、週末だけだし」

「ってことは今日は手の込んだ何かを作るんだ?」

「そのつもりだけど。私のは、普通に家庭料理でしかないよ」


 私の料理の腕は人並み程度だ。

 自分で作るメニューは、大抵がお店では食べられないようなもの――市販のルーを使ったシチューやカレー、炊飯器で炊く具だくさんの炊き込みご飯、ウインナーやじゃがいもを入れてみたおでん、みたいな感じで誇れるほどでもない。


「普通の家庭料理が食べたいんだよ」

 わかってないと言わんばかりに、黒野くんがマフラーに包まれた首を竦める。

「独身男はそういうのに弱いんだ、家庭の味に飢えてる」

 それは男性に限った話ではない気もするけど、だからこそ気持ちはわかる。

「都さんがごちそうしてくれたら俺、飛び跳ねて喜んじゃうな」

 何より、黒野くんがどうしても食べたがっているようなので。

 昨夜のお礼という意味でも、そのくらいごちそうしてあげてもいいかな、と思う。

「じゃあ、お裾分けしてもいいよ」

 私が言うと、

「やった。ねだってみてよかった!」

 彼は宣言通りぴょんぴょん飛び跳ねてみせる。まだごちそうもしないうちからこの喜びよう、こういうところはちょっと可愛い。

 そこまではしゃいでもらえると、こっちも気合い入れて作んなきゃなって気になる。

「でもあんまり期待しすぎないでね。本当に普通だからね」

 一応釘は刺したけど、大喜びの黒野くんの耳に入っているかどうか。

「都さんの手料理、どんなのかな。めちゃくちゃ楽しみにしてる!」

「ご期待に沿えるよう頑張るね。ところでメニューは何がいい?」

「俺、何でも美味しくいただけるよ。好き嫌いないから」

 黒野くんはそう答えた後で、私の顔を見つめながら言い添える。

「でも強いて言うなら、身体の温まるメニューがいいな」

「私もそうしようと思ってたよ。今日は寒いもんね」

 こうして歩きながら話している間にも、私達の上には白い吐息が立ち上っている。

 髪を切ったばかりだからか、特に首の後ろあたりが寒くて仕方ない。衣替えは急務だ。とりあえずマフラーだけでもすぐ使えるようにしておかないと。


「……あ」

 道の向こうにスーパーの看板と、駐車場の入口が見えてきた時だった。

 黒野くんがふと立ち止まり、ライダースのポケットに突っ込んでいた手を広げる。

「都さん、見て」

 彼の手の上に、ふわりと綿毛のような何かが舞い降りた。

「雪だよ。もう降ってきた」

 それは黒野くんの手のひらの上でみるみるうちに解けてしまったけど、空を仰げば同じように、白い雪がはらはらと降り始めている。


 秋の終わりらしい景色が、たちまち冬景色に変わる。

 まだ閑散としたスーパーの駐車場も、店の前の通りに立ち並ぶ葉の落ちた街路樹も、そしてその道を行くコート姿の人々も、一気に冬の装いへと転じてしまったようだ。


「初雪だね、今年は随分早かったな」

 予報通りとは言え、驚いた。十一月のうちから雪が降るなんて、この街に来て初めてのことだ。

「そうなんだ。毎年こんなに寒いもんかと思ったよ」

 黒野くんは興味深げに雪降りしきる空を見ている。わずかに口を開いて、空に目を奪われたその表情は、雪に見とれているようだった。

「結構降るんだな……いいね、雪の降る町って」

 彼のアッシュブロンドの髪に雪が留まる。

 私はそれを横目に見ながら、何気なく聞いてみた。

「黒野くんの地元って雪降らないの?」

「全然。降っても風花がちらつく程度で、積もることってまずないよ」

 声を弾ませて彼は続ける。

「だから雪降ると皆で大はしゃぎ。授業放り出してグラウンドで遊んだりしたな」

 雪でそんなに盛り上がれるのっていいな。こっちは雪が降ると電車が停まったり転ぶ人が出たりで、あんまり喜ばれてるイメージがない。

 いや、私の周りにはいないだけかもしれない。この街に来てからは大人としか接してないから、子供達は今頃、早い初雪に大喜びしているのかもな。

 それと、私の隣にいる黒野くんもだ。

「黒野くんも雪、好きなんだね」

 彼の表情の輝きを見ればわかる。

 予想通り、黒野くんは照れくさそうにはにかんだ。

「好きだよ。この歳になっても雪が降ると、何か浮かれちゃうんだよな」

 隣に立つ私を見つめ返して、

「だから、都さんと見れてよかった」

 しみじみと噛み締めるように付け加える。

「じゃあ俺、そろそろ行くから。夕飯楽しみにしてるよ」

 そして、ここまでの五分間の名残を惜しむみたいに、私に向かって小さく手を振った。

「任せといて。お仕事頑張ってね、黒野くん」

 私が手を振り返すと、彼は一度大きく目を瞠ってから、嬉しそうに甘く微笑んでみせた。

「ありがとう都さん。お見送りって、嬉しいね」


 出勤する黒野くんを見送った後、私は一人でスーパーに入った。

 開店直後の店内はさほど混み合ってはおらず、のんびりと見て歩きながらメニューを決めることができた。キャベツと合い挽き肉が特売だから、今夜はロールキャベツにでもしようかな。温まるし、手間の割に見映えもいいし、何より失敗の少ないメニューだ。

 黒野くんには散々警告してしまったけど、ごちそうすると言った以上はやっぱり美味しいものを作りたい。

 そう思いながら店内を歩いていたら、私の気分まで弾んでいることに気がついた。


 買い物を済ませてスーパーを出ると、雪はいよいよ本降りになっていた。

 寒さに身を竦ませつつ、買い物袋を提げて歩き出す。

 こんな寒い日は用が済んだらとっとと帰って、お部屋でぬくぬく温まるのがいいに決まっている。マフラーもないのに寄り道なんてもってのほかだろうけど、私は何となく、アパートとは反対の方角に足を向けていた。


 ヘアサロン『クロノス』は、スーパーから五分ほど歩いた先にある。

 白レンガ造りの、カフェみたいに可愛らしい外観は、雪が降りしきる中で眺めるとより一層幻想的な姿に映った。まるでおとぎ話に登場するお菓子の家みたいだ。

 そのお店の小さな窓の向こうに、黒野くんの姿がちらりと見えた。

 前を通りすぎるついでに覗いてみたら、仕事中の彼がちゃんといた。スタイリングチェアに座るお客さんの髪を、あの芸術品のように美しい手で梳いている。お客さんとは会話が弾んでいるのか、楽しそうに笑いながら何事か話しているようだった。もちろん会話は聞こえないけど、お仕事を頑張っていることだけはわかった。

 店内には他のお客さんの姿もあったようだけど、小さな窓からは他のスタッフの姿までは確認できなかった。前回は黒野くん一人しかいなかったけど、次に訪ねていく時には他のスタッフさんにも会えるだろうか――黒野くんに科学館の場所を教えたというその人、とか。その時は店長らしく振る舞う黒野くんの姿も見られたりするのかな。どんな感じなんだろうな。

 切りたての髪は一週間くらいじゃまだ伸びてない。次に『クロノス』へ行くのは年が明けてからになるかな。今からちょっと、楽しみにしている。

 首の後ろに肌寒さを覚えつつ、私はお店の前を離れた。


 さてと、部屋に戻って美味しいロールキャベツでも作りますか。

 黒野くんも頑張ってるんだし、私も頑張らないとね。

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