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ときめきは夜に落ちてくる(2)

 水曜日、私は予定通り八時少し前に仕事を終えた。

 黒野くんからは、

『先に入って、空席状況を見ておきます』

 とメールが来ていた。

 平日の夜は大抵空いているから、満席で入れないということは多分ないはず――そんなことを思いながらロッカールームで化粧を直していたら、二通目のメールが届いた。

『最終のプログラムまで余裕で空いてます。ゆっくり来てくださいね』

 やっぱりね。

 私は何となく微笑んで、『今から会社出るよ』と返信する。

 そしてロッカールームを飛び出して、そのままの勢いで勤務先を後にする。


 帰宅ラッシュで混み合う駅前を通り抜け、ビル街の中に建つ科学館を目指した。

 科学館の外観は普通のビルに比べると特徴的だ。アシンメトリーの近未来チックなデザインに、プラネタリウムがあると一目でわかるドーム型の屋根、正面入り口側の外壁は天井まで一面がガラス張りだ。いざという時にはこのまま宇宙に飛び出せるんじゃないかとさえ思えるつくりをしている。


 私が科学館の入場ホールに滑り込むと、

「都さん」

 すかさず、黒野くんの声がした。

 振り返れば入ってすぐのところにアッシュブロンドの彼が立っていて、こちらに向かって小さく手を振っている。

「お仕事お疲れ様です」

「ありがとう。待たせちゃってごめんね」

「いえ、好きで早く来てただけですから」

 駆け寄る私に、彼は優しく目を細める。

 相変わらず、ともすれば見惚れてしまいそうになるほど甘い微笑みだった。


 今夜の彼はネイビーのテーラードジャケットに白ニット、細身のデニムというコーデだ。シンプルかつきれいめな着合わせなのは、普段からなんだろうか。

 何せこちらは本当に仕事帰り、服装も一切捻りのない上下スーツだ。化粧だけは直してきたけどおめかし感からは程遠く、黒野くんの服装次第では浮いてしまうところだった。だから彼の姿を見て、少しほっとしてしまった。


 私の視線に気づいたか、黒野くんはジャケットの襟元を引っ張るような仕種の後で、

「都さんはスーツだと思って、合わせてみたんです」

 と言った。

「あ、やっぱり? ありがとね、合わせてくれて」

 私がお礼を言うと、彼は秘密を明かすように小首を傾げてみせる。

「都さんの隣歩くんですから、釣り合うように小ぎれいにしときたかったんです」

 それは、どういう意味に受け取ったらいいんだろう。

 さすがは美容師さん、黒野くんは誉め上手だ。そして普段はスーツなんて着る機会もないだろうに、こうして合わせてきてくれるんだからすごい。

「じゃあ、一緒に中入ろっか」

 面食らいつつも私は黒野くんを促し、まずは一緒にチケットカウンターへ向かった。


 事前購入のチケットで入場手続きを済ませた後、改めてプログラムを確認する。

 昼間はファミリー向けの、学術的な内容の上映が多いんだけど、夜になると割と静かな内容ばかりになるのがプラネタリウムの特徴だ。

 デート向け、と言うと身も蓋もないけど、まあそういうことだろう。

 そして次回上映、八時五十分からのプログラムは、

「ヒーリングプラネタリウム……?」

 黒野くんが読み上げるなり怪訝な顔をする。

「そう。読んで字の如く癒し系のプログラムだよ」

 何度か体験したことがある私は、彼にその内容を説明した。


 要は、きれいな星空を見ながら純粋に癒されようという内容だ。

 難しげな解説や専門用語の羅列は一切なく、ただただのんびりと星の光を、静かな空間の中で楽しむというプログラムだった。

 リクライニングシートを倒し、アロマの香り立ち込める中で星空を見上げると、慌ただしい日常からふっと解き放たれて心安らかな気分になれる。


「黒野くんはアロマって興味ある?」

 説明の後で尋ねると、黒野くんはすぐに頷いた。

「はい。仕事柄、ある程度は」

 それもそうか。そういえば黒野くんのお店はすごくいい香りがしてた。今のは恥ずかしいレベルの愚問だったかもしれない。

「考えてみれば、癒しって概念自体が黒野くんの専門だよね」

 ヘアサロンは髪を切るだけの場所じゃない。あの居心地のいい『クロノス』も、間違いなく癒しの空間だった。

 私の言葉に彼は相好を崩す。

「そう思ってもらえると嬉しいです。うちの店で安らげましたか」

「安らげたよ。特にシャンプー、すごく気持ちよかった」

 下積みでやり込んでいただけあって、黒野くんのシャンプーは上手かった。ずっと洗われていたい、なんて思ったのはあの時が初めてだ。

「シャンプーでしたら、いつでもお気軽にお申し付けください」

 黒野くんは快くそう言ってくれたけど、シャンプーは新人さんの仕事だって先日教えてもらったばかりだ。

「さすがに、店長さんにシャンプーはお願いできないでしょ?」

 私が聞き返すと、彼は笑って首を振る。

「いえ、都さんでしたらいつでもお受けしますよ」

「サービスいいね。でもお店のスタッフに示しがつかないんじゃない?」

「その点は大丈夫です。ですから、考えておいてくださいね」

 まるで押し切るようにきっぱりと、黒野くんは私に言った。

 何か、私じゃなくて黒野くんがお願いしてるみたいにも聞こえるような――首を傾げたくなった時、彼が話題を変えてみせた。

「プラネタリウムって、いろんなプログラムがあるんですね」

 それで私も気を取り直して、答える。

「うん。昼と夜でも全然内容違うし、季節によっても違うんだよ」

 私は申し訳ないながら学術的なプログラムにはあんまり興味がなかった。とにかくきれいな星空が見たくて、そういう上映ばかり通っていた。

「まだ先の話だけど、クリスマスにはそれ専用のプログラムがあったりとかね」

 さすがにそれは、一人で見に行く気にはなれなかったけど。

「プラネタリウムでクリスマスですか。素敵ですね」

 黒野くんが興味を示していたので、私はカウンター脇に置かれていたプラネタリウムのリーフレットを勧めた。来たる冬期間のプログラムは全てそこに掲載されている。黒野くんもここを気に入って、また来たいと思うかもしれない。

 今日のプログラムも気に入ってもらえるといいな。

 せっかく付き合ってもらえたんだから、どうせなら楽しんでもらいたい。


 上映開始十五分前に、プラネタリウムの入場ゲートが開いた。

 外観に見えた丸い天井が、ここの全天周ドームシアターだ。普通に見上げたら首が痛くなるくらい、三百六十度全てにぐるりと星が映し出されるようになっている。

 客席は階段上に設置されていて、前方のプレミアムシート以外はリクライニングシートとなっている。

 特に席の指定はないので、私と黒野くんは中央の投影機の脇を通り抜け、後ろの方の席に並んで座った。全体的に客数はまばらで、私達を含めても三十人いるかどうかという感じだった。


「これ、全部倒しちゃった方がいいんですか?」

 私の右隣に座った黒野くんが、シートの仕様に戸惑うそぶりを見せる。

 もしかしたらプラネタリウムは初めてなんだろうか。だとしたら戸惑うのもわかる。座席を全て倒して寝転がるなんて、人前では尚更やりにくいのかもしれない。

「そうだね。普通に見上げると疲れちゃうと思うし」

 私は彼を安心させようと、まず自分の座席を最大まで倒してみせた。

 それから背もたれにゆっくりと寄りかかり、身体も倒す。シートの上であおむけに寝そべる姿勢になる。そうすると無理なくドーム型スクリーン全体が眺められて、まさに身も心も安らげる。

「こうするんだよ、黒野くん」

 そして隣の席の彼に声をかけると、

「……へえ、シャンプーする時みたいですね」

 黒野くんは自分のシートから身を乗り出し、横たわる私をそっと見下ろした。

 上映前の薄明るい場内でも、彼の顔は照明の光を遮り翳って見えた。私の上には彼の影が落ち、笑っていない、真剣な眼差しが私を見下ろす。光のない黒野くんの表情にどきっとする。

 私が動揺したのがわかったからだろうか、黒野くんは笑って自分の席に座り直す。

「じゃあ、俺も」

 そしてシートを思いきり倒すと、同じように横たわってから顔だけこちらに向けてきた。

「楽でいいですね、これ。ちょっと恥ずかしいですけど」

「う、うん。そうだね……」

 お互いにシートを倒して寝そべって、その姿勢のまま向き合ってるっていう状態は、確かにめちゃくちゃ恥ずかしかった。

 座席同士の間は人一人が歩いて通り抜けられるだけのスペースがある。にもかかわらず、黒野くんと隣り合って寝転んでいるみたいな気分になる。こちらを向いて微笑む彼の顔が直視しづらくて、私は視線をスクリーンに彷徨わせた。

 初めてのデートにプラネタリウムは失敗だったかもしれない。

 今までは一人で来てたから、こんなに恥ずかしいものだなんて知らなかった。


 やがて上映開始のブザーが鳴ったかと思うと、場内の明かりが少しずつ落とされていく。

『――本日は、皆様を森の中から見上げる夜空へとお連れしましょう』

 アナウンスの音声さえ優しいヒーリングプログラムが始まった。

『では、ゆっくりと目をつむってください』

 促されて私は目をつむる。

 黒野くんもつむっただろうか。確かめることはできないけど。

 瞼の向こうがうっすらと明るくなるのがわかり、同時に微かないい香りが漂い始めた。ほんのり甘くて心が落ち着くラベンダーと、森の木々を思わせる爽やかなジュニパーベリーの香りだ。

 BGMがない代わりに、微かな葉擦れの音と虫の声、そして微かな川のせせらぎが響く。

『さあ、ここは星明かりに照らされた森の中です。目を開けて、夜空の眺めをお楽しみください』

 もしも瞬きの音が聞こえたなら、今、三十人分の瞬きが場内に響いたかもしれない。


 私もそっと目を開けて、たちまち飛び込んできた満天の星空に息を呑む。

 針葉樹の梢越しに見上げる夜空には、白い満月と細かな光を散りばめた天の川が見えていた。本物ではないはずの星空は、だけど冴え冴えと冷たく光っているように見える。星明かりに照らされた森の中、私はただ言葉もなく光を浴びながら空を見上げていた。

「きれい……」

 思わず呟くと、右隣から微かな笑い声がした。

 外に聞こえないよう、溜息と一緒に零したつもりだったのに。ちらりと右隣を見ると、黒野くんもこちらを見ていた。

 作り物の星明かりの下、黒野くんの顔も青白く、美しく照らされている。垂れ目の瞳にも光が浮かんで、きらきらしている。その目がじっと私を見つめたかと思うと、唇が少し動いた。

『きれいだ』

 唇の動きだけで、彼がそう言ったのがわかった。

 そしてそう言った時、彼はどこか幸せそうで、満足そうな表情をしていた。

 それで私も嬉しくなって、思わず深く頷いた。

『きれいだね』

 真似をして、唇だけ動かして伝えてみる。

 たったそれだけのやり取りが、何だかすごく嬉しい。私がきれいだと思うものを、私の隣にいる人もきれいだと思ってくれている。そしてそれをお互いに伝えたいと思っている――本当にそれだけの些細なやり取りが、どうしてこんなに嬉しいんだろう。

 黒野くんは柔らかい表情で頷くと、それからまた一面の星空に視線を戻した。

 美しい星々に見とれるその横顔も、彼が胸の上で組んだ芸術品のような両手も、はっとするほどきれいだった。


 初めてのデートでプラネタリウムも、やっぱり、悪くはないかもしれない。

 現金だろうけど、隣で横たわる黒野くんを見ていると、そう思わずにはいられなかった。

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