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夢は無限に続いていく(1)

 いろいろあった翌日、私は元気に出社した。

 寝癖は翔和くんがきれいにセットしてくれて、しかもヘアアレンジまでやってくれた。すごく可愛いお団子ハーフアップ。目元はちょっと腫れぼったかったけど、気にせずメイクをしたら少しはましになったはずだ。

 その証拠に、誰かに見咎められていろいろ言われることはなかった。

 それどころか髪型を誉めてもらえたので、帰ったら翔和くんに報告しようと思う。


 ただ、江藤くんとも何事もなく、とはいかなかった。

 出社して顔を合わせるなり、彼はわかりやすく気まずそうにして見せる。

「……お、おはようございます、三島さん」

「おはよう」

 私は溜息まじりに応じた。

 その顔を見たらまた怒りが再燃して、冷静になれないんじゃないかと危惧していたけど、そんなことはなかった。至ってフラットな気分で挨拶ができた。


 一晩経ったら、驚くほど気持ちが落ち着いたみたいだ。

 もちろんそれも翔和くんのお蔭だった。彼が傍にいてくれたから立ち直れた。


 だから、江藤くんにも忘れてもらってよかったんだけど、

「昨夜、すみませんでした」

 周りに人がいないのを見計らい、彼は私に頭を下げてきた。

 江藤くんの性格上、やっぱり黙ってもいられなかったのかもしれない。優しい人だから――どうもその優しさの、使いどころを間違っている気もするけど。

「別に謝らなくてもいいよ」

 私が答えると、江藤くんは私を見て、表情を曇らせる。

「でも三島さん、怒ってますよね」

「当たり前じゃない」

 あれだけのことを言われて怒らないなんて、聖人君子でもなければ無理だろう。

 私は当然腹を立てたし、今でも例の一件について謝るつもりは毛頭ない。もはや後悔だってしていない。翔和くんだって言ってくれた、私は何も悪くないって。

 彼が私を信じてくれたように、私も翔和くんを信じる。

「怒ってるけど、謝らなくていい。私が許すっていうのも違う気がするから」

 そう告げると、江藤くんは困り果てたように項垂れた。

「すみません」

 謝らなくてもいいって言ってるのに。

 私は肩を竦めてから、逆に尋ねた。

「彼女さんとはあの後、仲直りできた?」

「ええ、どうにか」

 すんなり頷いてみせた様子を見るに、事実なんだろう。


 案外、私の当時の片想いが、本当に二人の恋を盛り上げてしまったのかもしれない。

 今となっては、それだってどうでもいいけど。


「そっか。じゃあ、もう不安にさせないようにね」

 彼女を不安にさせないのが彼氏の仕事だ。

 その思いは、昨夜から何一つとして変わっていない。翔和くんの『仕事ぶり』を拝見した後なら尚のことだ。

 彼女さんからすれば、一度私のことを聞いてしまった手前、すぐには安心できっこないだろう。でもそれを安心させてあげるのは江藤くんの仕事だ。私じゃない。

「私が言えた義理じゃないかもしれないけど、それはやっぱり、江藤くんが自分ですべきことだと思う」

 そう続けると、江藤くんはまだ飲み込みきれていない顔で頷いた。

「わかりました。本当に、ご迷惑おかけしました」

 彼は本当にちゃんとわかっているんだろうか。

 理解したのかしてないのか、今回の反省を今後に生かす気があるのかないのか――そんなことは、私の知ったことじゃない。


 かつて黒野くんが言っていた通りだ。

 江藤くんは私にとって、『わからない人』なんだろう。傍にいても傷つくだけの、ちっとも理解できない人でしかなかったんだろう。

 だから私も、無理に理解しようとするのはやめる。


「わかってくれたならいいよ。この話、もうおしまいにしよっか」

 私は不毛な会話を終えるつもりで、江藤くんに告げた。

 すると江藤くんは一度ためらってから、不意に切り出してきた。

「三島さんのお付き合いしてる人って、どんな人なんですか?」

 江藤くんがどうしてそれを知りたがったのか、私にはやっぱりわからなかった。

 純粋な好奇心というやつなのか、私に彼氏がいるというのをただの出任せだと思っているのか、それとも――。

 考えたってどうせわかるはずもないし、私の答えも決まっている。

「すっごく素敵な人だよ。私のこと、一度も不安にさせたことないの」

「へえ……すごいですね、その人」

 江藤くんは素直に感心していたようだ。何だか、おかしかった。


 その日はできる限り早めに退勤した。

 翔和くんから、

『今日は早上がりだから、一足先に帰って待ってるよ』

 ってメールが入っていたからだ。


 急ぎ足で駅前通りを抜け、アパート裏手の道へ差しかかる。

 そこも足早に通り抜けようとした時、不意に、頭上で息を呑むような気配があった。

「……都さん」

 聞き慣れた声が私を呼んだ。

 立ち止まった私が顔を上げると、翔和くんが、彼の部屋のベランダに立っていた。

 通りに面したベランダの手すりに寄りかかるようにして、翔和くんは私を見下ろしている。夜の薄暗さのせいだろうか、彼の表情は心なしか硬いように映った。アッシュブロンドの髪が夜風に揺れ、彼の唇が微かに動く。

『おかえり』

 声に出さずにそう言ったのが見えた。

 私は思わず微笑んで、彼を真似るように唇の動きだけで返事をする。

『ただいま』

 以前も交わした、無言のやり取り。

 あの時はちょっと照れたけど、今はむしろ、何だか嬉しい。

 私の笑った顔が見えたのだろうか、翔和くんはそこで、安心したように口元をほころばせた。さっきまで浮かべていた硬い表情が雲散するのが、見上げる距離からでもわかった。


 もしかしたら私を案じて、こうして帰りを待っていてくれたのかもしれない。

 以前のように、手が冷たくなるのも構わずに。


 そう思うといても立ってもいられなくなって、私はヒールのまま走り出し、アパートの外階段を駆け上がる。自分の部屋の鍵を開け、中に入り、真っ直ぐに室内を突っ切って狭いベランダへ出る。

 すぐに、防火壁の向こうから声がした。

「都さん、お疲れ様」

「うん。待っててくれてありがと、翔和くん」

 手すりにもたれかかりながら答えると、翔和くんがこちらに顔を覗かせた。

 パーマがかったアッシュブロンドの髪、実年齢よりも若く見える垂れ目の顔立ち、そしてそこに浮かんだとびきり甘い微笑み。

 もうすっかり見慣れたお隣さん、そして大好きな人の顔だ。

「あんまりやきもきしないように、平常心で待ってようと思ったんだけど」

 翔和くんは首を傾げるようにして私を見る。

「でもやっぱ、落ち着かなくってさ。待ってたんだ」

「ごめんね、心配かけて」

「俺がしたくてしてるんだから、いいんだよ」

 そう話す翔和くんの頬は、寒さのせいかほんのり赤い。

「翔和くん、寒かったんじゃない?」

 私が防火壁越しに手を差し出すと、彼は黙ってその手を握ってきた。

 芸術品のように美しい彼の手は、石膏細工の見た目通りにひんやりしていた。

「ほら、手冷たいよ。風邪引かないでね」

「まだ平気だよ、このくらい」

 翔和くんは一笑に付すと、すぐに真剣な声で尋ねてきた。

「都さんこそ、今日、大丈夫だった?」

 会社でのことを聞きたがっているんだろう。それがわかったから、私も包み隠さず答えた。

「大丈夫だったよ。目が腫れてること、誰にも指摘されなかったし」

「……それだけ?」

「あと、江藤くんとも話した。謝られたけど、許すことはできなかったかな」

 それは怒りのせいというより、わかりあえない空しさのせいかもしれない。


 でも、そういうものだ。

 世界中の全ての人とわかりあえるはずもないし、許しがたいことがあったとして、謝られたからと言って必ずしも許す必要はない。

 同じように、江藤くんだっていつまでも謝り続ける必要もない。わかりあえない者同士、今後は適度な距離を取って付き合っていくより他ない。

 それでいいんだ、と今は思う。

 私は私の愛する人を、そして私を愛し大切にしてくれる人だけを想えばいい。


「都さんが平気ならいいんだ」

 翔和くんは、感情を押し込んだような声で言った。

「もしまた都さんを傷つけるようなことがあったら、今度は俺が許さないけど」

「ありがとう。多分、大丈夫だよ」

 何より私自身が、少しだけ強くなれた気がする。

 一人じゃないって実感したからだろうか。私には翔和くんがいる。辛い時も悔しい時も、みっともない涙を流している時だって、彼がいてくれれば泣き止んで、いくらでも立ち上がれる。

 この手を、絶対離さない。

 やっと見つけた、私の運命の人の手だ。

「……思えば、こうしてベランダで話すのも久々だ」

 私の手を握る翔和くんが、どこか懐かしそうに目を細めた。

「最近はずっと、お互いの部屋で会うこと多かったもんな」

「そうだね。それに、冬だし」

 答えながら、私はベランダから見える夜景に視線を馳せる。


 小高い土地に立ったこのアパートからの眺めは、それなりに悪くない。

 ここから見下ろす住宅街の夜景は家々の明かりばかりで、ビル街や繁華街の目映さと比較するとひっそり地味だった。だけど家々の一つ一つに灯る温かみのある光が、かつてホームシックだった私の心を癒してくれた。

 そして今は、大好きな人と一緒に眺めている。

 夜景が見える部屋という触れ込みに惹かれて住み始めてから七年、いつか誰かを招く日がくるんじゃないかと思っていた。


「ここの夜景、結構いいでしょ」

 私の言葉に、翔和くんもベランダ越しの景色に視線を投げた。

 その目元が見惚れるように和らいで、横顔で深く溜息をつく。

「確かに眺めいいな。街明かりもきれいで、ちょっと切なくなるけど」

「そうだね……」

 私にとっても翔和くんにとっても、この街は故郷じゃない。

 だけど私はここに七年住み、彼はここにお店を構えた。お互いにとって『住めば都』のホームとなったこの街で、気づけばたくさんの思い出ができていた。

「私ね、いつかここに、誰か呼びたいって思ってたの」

 手を繋いだまま、私は彼に打ち明ける。

 翔和くんが目を瞬かせた。

「誰かって?」

「好きな人、かな。そういう人と、いつか一緒に、ここから夜景を見るのが夢だったんだ」


 私の運命は随分と長い間遠ざかっていて、七年もの間、そういうご縁は一切なかった。

 ここからの景色は好きだったけど、せっかくの眺めだ。誰か大切な人と分けあえたらもっと素敵だろうなってずっと思っていた。

 今になってようやく、私の運命を時が連れてきてくれたみたいだ。


「だから今、翔和くんと見られて幸せなの。夢が叶って、嬉しくて」

 冷たい夜風を浴びながら、私はそっと呟いてみる。

 翔和くんはそんな私を数秒間見つめた後、繋いでいた手を急に離した。

「それなら、せっかくだから一緒に見ようよ」

「もう見てるじゃない、二人で」

「そうじゃなくて、一緒のベランダで」

 私を見つめる垂れ目がちな瞳が、楽しそうに輝いている。

 それで私も彼が何を言いたいか理解した。

 確かにそうだ。今の私達はこんな、防火壁で隔てられたところでこそこそ話していなくてもいいはずだ。

「いいよ、そうしよっか」

 私は幸せな気持ちで、彼に向かって頷いた。

 防火壁越しに翔和くんも顎を引く。

「じゃあ俺、そっち行くよ。すぐ行くから待ってて」

「うん。急がなくていいからね」

「急がなくたって五秒で着くよ」

 私達はお互いに、一旦自分の部屋の中へ戻った。

 そして宣言通りの五秒後に、私の部屋のチャイムが鳴って――。


 更にその五秒後には、翔和くんと二人、私の部屋のベランダから夜の街明かりを眺めていた。

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