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愛で奈落を駆け上がる(2)

 楽しい日々ほど、あっという間に過ぎていく。

 八日間のお休みは惜しまれながら去っていき、私はこれまで通りの日常に戻っていた。


 これまで通り――では、ないかもしれない。

 私の日常には当たり前みたいに、翔和くんがいるようになった。

 もともと休日が合わないので、仕事が始まるとあまり会えなくなってしまう。今まではそれをメールでやり過ごしていた感じだったけど、もうそんな必要もない。

 合鍵を使えば、いつでも彼の傍まで行ける。忍び込める。


 もちろん、初めのうちは自重していた。週一程度に訪ねるくらいが翔和くんの負担にもならないんじゃないかと思っていたから、夜中にふと会いたくなって、隣室に彼がいる気配がしてもぐっと我慢するようにしていた。

 だけど翔和くんの方が、三日くらい間が空けばすぐ、

『都さん、今夜こっち来ない?』

 なんて嬉しい連絡をくれるから。

 週一ペースの目標があっという間に三日おきになり、それからしばらく経って、今や一日おきになりつつある。

 毎日になるのも時間の問題かもしれない。

 何せ、会いたいと思ったら数秒で会いに行ける距離にいるんだから。

「いっそ一緒に住んじゃおうか」

 ある夜、彼が何気なくそう言って、そうなるかもしれないなと私も思う。

 そうなっても全く支障がない関係を、いつしか彼と築いていた。


 一度だけ、お風呂の時間が一緒になった。

 仕事の帰りが九時過ぎになってしまい、でも冷える夜でシャワーだけで済ませるのは辛かった。私はバスタブに湯を張り、疲れを癒そうと温かいお湯にのんびり浸かっていた。


 すると、隣室で物音がした。

 初めは湯を張る水音。

 しばらくしてお湯が止まったかと思うと、バスルームのドアが開く独特の金属音が響いた。

 びっくりした。バスルームの音ってこんなに筒抜けなんだ。しかも壁越しに聞こえるだけではなく、天井にある換気口からも音が伝わっているようだった。

 間取りはほぼ同じである私と翔和くんの部屋だけど、バスルームだけは隣り合わせに配置されていることは知っていた。でもまさか、ここまでとは――それで翔和くんも『気配がわかる』って言ってたのか。それどころではない感じだけど!

 翔和くんがお湯を浴びる音がする。

 それから、バスタブに身体を沈めたらしい音もする。


 盗み聞きをしているようで申し訳なくて、逡巡の後に私は壁を軽くノックした。

 すると、換気口を通して彼の笑い声が聞こえてきた。

「偶然だね、都さん」

 バスルームでは声がよく響く。翔和くんの声も、頭上から降ってくるみたいに聞こえてきた。

 彼の笑い声をシャワーみたいに浴びながら、私はそっと返事をする。

「声、結構聞こえるね」

「でしょ? 隣り合ってるもんね」

 これまで、何回くらい一緒の入浴時間になったことがあるんだろう。恥ずかしさもかなりあるけど、今は何だか不思議な感じだ。温かいお湯にたゆたいながら翔和くんの声を聴いていると、心が一層安らぐようだった。

 お風呂の気持ちよさに加えて、翔和くんの声を聴ける幸福。

 せっかくだから堪能したくなる。

「……翔和くんって長湯派?」

 私はお湯をかき混ぜながら、壁の向こうに声をかけた。

「そうだね、ゆっくりするの好きだよ」

 返事は頭上から聞こえる。

「私も。冬場は特にね」

「俺は一年中浸かりたい派だな」

「夏もお湯張るの?」

「張るね。温めにしてじっくり入る」

 そう言うと、翔和くんはまたおかしそうに笑った。

「こうして話してると温泉みたいだね。男湯と女湯」

 彼の笑い声が降ってきて、それを浴びるのが心地いい。


 温泉かあ。そういえばここの近郊にいい温泉があるって聞いたことある。

 今度、翔和くんを誘って行ってみようかな。その時は有給でも取って、泊りがけで。


「翔和くんって温泉、好き?」

「好きだよ」

 優しい声が、バスタブから立ちのぼる湯気と混ざって溶けていく。

 もっと、ずっと聴いていたいけど、そろそろお湯が冷めてきた。

「今度一緒に行こうか。近くに評判の温泉があるんだ」

「いいね。是非都さんと行きたいな」

 彼は幸せそうに言った後、また笑ったようだった。

「都さん。後で、こっち来ない?」

 話をしていたら会いたくなる。それはお互い、同じ気持ちのようだった。

「うん。後で行くよ」

 私はそう答えた後、ゆっくりとバスタブから上がる。

 今の会話、外にまで聞こえていないといいけど――でも、ベランダで話しているのと、そんなに変わらないかな。


 年明け以降、私のプライベートはこんなふうに充実していた。

 翔和くんのお蔭で毎日が楽しかった。幸せだった。


 仕事の方は相変わらずだ。

 忙しい時はとても忙しいし、残業が長引いて日付が変わるぎりぎりまで勤務をすることもある。

 それでも毎日の楽しみがあるから頑張れた。疲れた時は翔和くんが癒してくれたし、彼が忙しい日には私が夕飯を届けたり、傍にいて話を聞いてあげたりして過ごした。

 プライベートの充実が顔に出ているのだろうか。近頃、職場のおじさま方が言う。

「三島さん、最近幸せそうだね。いいことでもあった?」

 正直に答えるつもりはないから、私は曖昧に笑っておく。

「そうですね。最近、天気がいいので」

 彼氏自慢をしたい気持ちもなくはない。だけど翔和くんのことを言い触らす気にはなれなかった。彼のことはもっと優しく、丁寧に、大切にしたいと思っている。

 私が彼に癒されているように、翔和くんにも私がいると幸せだって思って欲しかった。


 ただ、そんな毎日の中に一つだけ、気がかりがあった。

 私の幸せと反比例するみたいに、年明け以降、江藤くんの元気がない。

「はあ……」

 勤務中に深々と溜息をついていたり、妙に暗い顔をしていたりする。

 体調が悪いというわけではないみたいだ。私と同様、職場のおじさま方からあれこれ尋ねられたり、女子社員たちに気にかけられていたりしたようだけど、そういう時は弱々しく笑って『何でもないです』なんて言う。何でもないようには見えなかったけど。


 私も、残業で一緒になった時に尋ねてみた。

「最近元気ないね、江藤くん」

 ちょうどその時、オフィスに二人きりだった。私も帰り支度を済ませていて、あとは江藤くんだけという状況だった。

 だからだろうか。江藤くんは仕事の手を止め、苦笑いを浮かべてみせた。

「実は、ちょっと……」

 いつもは暗い表情なんて見せることのない彼の、珍しいくらい弱気な表情だった。

 少し前なら私は、その顔にくらっと来ていたことだろう。

 今は気持ちの整理がついていて、こちらも驚くほど静かに、穏やかに受け止めることができた。

「悩み事でもあるの?」

 私は笑って、更に尋ねた。

「引きずるようなことなら、早めに片づけちゃった方がいいんじゃない?」

 これは質問というより、アドバイスのつもりだった。職場の皆も気にしているみたいだったし、業務に支障が出る前に解決させた方がいい。

 すると江藤くんは、縋るような目で私を見た。

「三島さん……もし、できたら、なんですけど」

「何?」

「ちょっと、相談に乗ってもらえませんか」

「……私に?」

 私は、訝しさに眉を顰めた。


 去年の一件以来、私と江藤くんは適度な距離を保つ先輩後輩の間柄になっていた。

 以前のように彼を食事だ何だと誘うこともなくなっていたけど、会話だけは普通に交わしてきたつもりだ。最近では彼を意識することもなくなり、割と楽しく世間話ができるようになってきたところだった。

 だというのに江藤くんはなぜ、私を深刻そうな相談の相手に指名してきたのだろう。


「内容にもよるけど、私じゃいいアドバイスできないかもよ」

 とりあえず一歩引いてみる。

 内容によっては別の相談相手を紹介するつもりだった。可愛い後輩に対して薄情かもしれないけど、仕方ない。

「あの……」

 そこで江藤くんは言いにくそうに口ごもった後、

「実は俺、彼女と喧嘩しちゃって……」

 時間をかけて、ようやく、そういうふうに続けた。

 江藤くんから彼女の話を聞くのは、クリスマス以来だろうか。あの時は上手くいっているような口ぶりだったのに、一体何があったんだろう。

「それで、私?」

 私は困惑しつつも聞き返す。

「はい」

「どうかなあ。そういう相談を異性にしたら、余計に拗れると思うよ」

 恋愛相談を異性にしてはいけない、というのは恋の鉄則の一つだ。

 なぜかと言えば、誤解と錯覚の元だからである。

 彼女さんだって、喧嘩した話を職場の女に持っていったと知ったらいい気分にはならないだろう。ましてやその女は、かつて彼のことが好きだったのだから――まあ、江藤くん自身は知らないだろうけど。

 それでも事実は事実だ。たとえ私の方にもその気持ちがなくなった後だとしても。

「でも、三島さんじゃないと駄目なんです」

 江藤くんは必死なくらいに追い縋ってくる。

 よほど辛い状況なのだろうか、表情には憔悴の色も滲んでいた。

「俺、彼女とどうしても仲直りしたくて……」

 どうやら、かなり切羽詰まっているみたいだ。


 正直に言えば、後輩にここまで言われて見捨てるのも夢見が悪い。相手が江藤くんでなければ飲みにでも誘って、どうしたどうしたと聞き出しにかかっていたことだろう。

 でも私にだって、今は絶対に誤解されたくない相手がいる。

 翔和くんを不安にさせるようなことはしたくなかった。とても大切な人だから。


 それで、悩んだ挙句こう答えた。

「電話でなら、いいけど」

「……電話、ですか?」

 途端に江藤くんが目を瞬かせる。

 私は頷き、

「それかメールね。二人で飲みに行くとかは駄目」

「駄目なんですか? でも、それだと――」

「私と二人でいるとこ、彼女さんに見られたらまずいでしょ」

 言い聞かせるようにそう続けた。

 たとえ相手が江藤くんにとって、全く眼中にない先輩だとしてもだ。彼女さんはそうは思わないかもしれない。喧嘩中なら尚のこと、余計な火種は作るべきじゃない。

「……わかりました」

 江藤くんも意外とすんなり納得したようだった。

 てっきり『三島さんとじゃ誤解されるはずないですよ』くらい言われるかと思ったけど、さすがにそこは考えてくれたみたいだ。

 また弱々しく笑って、

「では、帰ったら電話します。よろしくお願いします、三島さん」

 と言った。


 振られた相手からの恋の相談、か。

 もう吹っ切れているから切なくも何ともなかったけど、密かに苦笑したくはなった。


 江藤くんは本当に、私の気持ちに気づいていなかったんだなあ。

 仕方ない。こうなったら最後まで『頼りになる先輩』を演じてあげることにしましょうか。

 翔和くんに誤解されない程度に、手短に。

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