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ふたりは世界を作り出す(2)

 大晦日の午後六時過ぎ、黒野くんから電話がかかってきた。

『準備できたよ、いつでもおいで』

「わかった、すぐ行くね」

 私は電話を切ると、用意していた三段重ねのお弁当箱を手に、隣の部屋へと向かう。


 アパートのドアはどれも全て同じ形をしていて、表札でもない限り見間違いやすい。

 女の一人暮らしである私はもちろん、黒野くんも表札は特に飾っていなかった。代わりにちっちゃな注連飾りがかけられていて、黒野くんがこういうことをするのは意外なような、でも商売をする人ならするかもなと納得できるような。

 そんな彼の部屋のドアの前、チャイムを押す前に私は深呼吸をした。

 やっぱり、ちょっと、緊張する。

 彼の部屋を訪ねるのは初めてだ。黒野くんはこの間、優しい言葉をくれたけど、そうでなくても緊張はするものだ。何せ、二人きりになるんだから。

 チャイムの前で人差し指を突き出したまま、どのタイミングで押そうか逡巡していた。


 すると、

「……何してんの?」

「わあっ」

 注連飾りが下がったそのドアが唐突に開き、黒野くんが顔を覗かせる。

 びっくりして固まる私を見て、彼は笑いを堪えるような表情を見せた。

「都さん、なかなかチャイム押さないんだもんな。待ち切れなくなっちゃった」

 どうやら、私がドアの前に立っていたことに気づいていたらしい。

 まさかドアスコープで覗いていたなんてことは――あってもおかしくないか。どう見ても不審人物だったもんな、今の私。

「ご、ごめん。何て言うか、タイミング測ってて」

「タイミングって何の? いつ押したって結果は同じだよ」

 黒野くんは私の手首をそっと掴むと、笑顔で中へ引き入れてくれた。

 玄関には以前来た時と同じように、瑞々しいグリーンの香りが漂っている。すっきり整頓されているのも前と同じだった。

「ここって結構、壁薄いからさ」

 私の手を離した黒野くんが、靴箱の上の壁を軽く叩く。

「都さんが玄関にいるなとか、靴履き終えたなとか、外出たなとか、普通に聞こえてくるんだよ」

 確かに、私も黒野くんがお店から帰ってきたのがわかることはよくある。

 隣室のドアの開閉音は普通に聞こえてくるし、室内にいる時は微かにだけど気配がするというか――別に聞き耳を立てているわけではなく、でもわかる。

 だけど私に聞こえるということは、壁一枚を隔てた黒野くんにも私の生活音が聞こえている恐れがある。

「もしかして、いつも音聞こえてる?」

 こわごわ尋ねてみたら、黒野くんは含んだように微笑んだ。

「聞こえるってほどじゃないけど、都さんもお風呂入ってるなっていうのはわかるよ」

「えっ、お風呂!?」

「入浴時間が一緒になった時だけね。気配がわかるって感じ?」

 そう言い添えられたものの、お風呂はさすがに動揺した。

 実は今まで、同じタイミングで入浴してたってこと、結構あったんだろうか。

 お隣さんってそんなに聞こえてしまうものなんだ。気をつけよう……。


 初めて拝見した黒野くんのお部屋は、モデルルームみたいにきれいで、何より統一感があった。

 家具はどれもベージュとグリーンとブラウンといった、自然なアースカラーでまとまっている。床には毛足の長いふわふわのラグが敷かれ、白木の天板のこたつが置かれている。こたつの周りには脚のない布張りローソファが、ちょうど向き合って座れるように二つ、配置されていた。

 ソファに合わせてなのか、AVボードや食器棚、マガジンラックといった家具も全て背が低いものが選ばれていた。お蔭で1DKにもかかわらず狭い印象がまるでない。

 部屋の奥にひっそりと置かれているシングルベッドもやはりロータイプだ――そちらには、あまり目を向けないようにした。


「一日で大掃除済ませたから、埃っぽいかも」

 黒野くんは苦笑していたけど、ちっともだ。

 空気はすっきり澄んでいたし、玄関と同じようにいい匂いがする。それに何もかも片づいている。

「とりあえず、座って」

 そう言われて、私は勧められるがままにローソファに腰を下ろす。

 そして目の前のこたつを改めて眺める。北欧風のナチュラルな天板に、よく見ると葉の模様が刺繍されているベージュのファブリック。

 こんなに可愛いこたつ、初めて見た。

「美容師さんのお部屋なら、絶対素敵だって思ってたよ」

 予想が当たって思わず呟くと、黒野くんが軽く吹き出す。

「それはまた、どうして?」

「だって皆、センスいいじゃない。服装一つ見てもおしゃれだし」

「そうでもないけどね。都さんの好みに合ったなら嬉しいよ」

 黒野くんはキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けたようだ。そういう音がした。

「榊もやたら泊まりに来たがるんだよな。うちに来るくらいなら、自分の部屋飾ればいいのに」

 その気持ちはわかるな。居心地いいもの。


 ラグの柔らかさもソファの肌触りも、こたつの可愛さだってすごく素敵だ。

 圧迫感のない開放的な雰囲気もいい。ベランダに通じる大きな窓も今はカーテンが引かれているけど、カーテンを開けたらもっと広々と見えることだろう。

 正直、私の部屋と間取りが一緒だとは思えない。


「そういえばこの間も泊まってったんだよね、榊くん」

 クリスマス前、すごく酔っ払っていた彼のことを思い出す。

 でも彼、ここが地元なんじゃなかったっけ。家が遠いんだろうか。

「あいつ、実家もすぐそこなんだよ」

 私の内心の疑問に答えるように、黒野くんが笑った。

「なのにやたらと俺の部屋来たがるから、帰れよっていつも言ってる。せっかく家あるんだからって、都さんも思うだろ?」

「それだけ黒野くんのお部屋が過ごしやすいってことだよ」

 素面の榊くんとはまだ会ったことがないし、どんな人かもよくわかっていないけど、黒野くんのことが好きなんだろうなと思う。それだけはわかる。

「都さんがそう思って、通ってくれるならいいんだけどな」

 そんな言葉の直後、黒野くんがキッチンからひょいと顔を覗かせた。

「ところで、何で乾杯する? 白ワインあるけどキールでも作る?」

 どうやら彼はカクテルも作ってしまう人らしい。何でもできるんだと感心してしまう。

 せっかくなので、ごちそうになってみることにした。


 カシスリキュールをやや多めに、甘口で作ってもらったキールで乾杯をした。

「今年は都さんと出会えてよかった。来年もよろしく」

「こちらこそ、今年は本当にありがとう」

 音を立ててグラスを合わせ、彼お手製のキールを味わう。カシスの優しい風味と甘い香りがとてもいい。

 お手製と言えば、食卓に並んだ料理もそうだ。真っ赤なトマトにモッツァレラチーズとアボカドを載せたカプレーゼと、焼きたてで熱々のアンチョビ入りポテトグラタン。どちらも彼が作ってくれたというのだから驚きだった。

「切って載せただけと、茹でてから焼いただけだよ」

 などと黒野くんは謙遜していたけど、どちらもすごく美味しかった。


 一方、私が持参してきたお弁当の中身は特に捻りもない定番メニューだ。

 お正月用のお煮しめと、ローストビーフと、晴れの日らしいちらし寿司を作ってきた。

「美味しそう! 都さん、煮しめも作れるんだね」

 黒野くんはお煮しめを見るなり目を輝かせていた。

 家庭料理に飢えてるって、前にも言っていたからかな。一人暮らしの男の人は、たとえ自分で料理するのであってもこういうものは作らないだろう。

「大晦日と言えばこれだよ」

 私が言うと、彼はちょっと怪訝そうに、

「大晦日? 正月じゃなくて?」

「うちの地元では大晦日に作って食べて、お正月はその残りを食べるんだ」

 ついでに言うと、大晦日はたくさんごちそうが出るのが決まりだ。鍋やって、お寿司も取って、他にもいろんな料理を用意して、お酒もたくさん飲む。

 さすがに一人暮らしを始めてからはそこまでしなくなったけど、こうしてお煮しめ作ってローストビーフを焼くところは変わってない。

「黒野くんの地元はどう?」

 聞き返してみると、黒野くんは記憶を掘り起こすみたいに天井を仰いだ。

「どう、だったかなあ。年越しそば食べるくらいかもしれない」

「あ、そばはうちでも食べるよ」

「でも煮しめは正月のものって思ってた。フライングで食べるのも、お得な感じでいいね」

 そんな黒野くんはお煮しめを小皿に取り、とても美味しそうに食べてくれた。タケノコやフキなどを熱心に口に運んでは目を細めている。

「都さんの手料理は何食べても美味しいな……」

「本当? お口に合ってよかった」

 私は心から胸を撫で下ろす。


 何せ黒野くんのこじゃれた手料理を目の当たりにした後だ。色鮮やかさはかけらもないお煮しめとローストビーフでは敵うまいと思っていた。

 だけど彼は私の手料理も喜んで食べてくれたし、お煮しめなんてあっという間になくなってしまった。きれいに平らげてもらえたなら、それが何よりの賞賛だ。


「お替わり、持ってこようか?」

 お煮しめが消えてしまったところで、私は黒野くんに尋ねた。

 お鍋の中にお正月用に取っておいた分があるから、部屋へ戻ればまた持ってこられる。

 そう思ってのことだったけど、黒野くんは少し考えてからかぶりを振った。

「気持ちは嬉しいけど、食べきっちゃうと困るから」

 そんなに好きなんだ、お煮しめ。何だか意外だ。

 アッシュブロンドで微笑みが甘くて、おしゃれな部屋に住んでておしゃれな料理を作れてカクテルだってお手のものだという黒野くんが、日本の伝統料理お煮しめを好んで食べるとは誰も思うまい。

 この間も簡単に作ったロールキャベツを喜んでもらえたけど、やっぱり素朴な家庭料理が好きなんだろうな。

 気に入ってもらえて、よかった。

「じゃあ明日も一緒に食べようか」

 私が誘うと、黒野くんは子供みたいに顔をほころばせた。

「いいの?」

「もちろん。そんなに気に入ってもらえたなら、もっと食べてもらいたいよ」

「ありがとう、都さん」

 それで黒野くんは箸を置き、私にも一旦置かせると、その石膏細工みたいな美しい手で私の手を取った。

 どうするのかと思ったら、彼は私の手の甲に軽く口づけてみせた。

 まるで、王子様みたいに。

「……く、黒野くん」

 手に触れた唇の柔らかさにどぎまぎしつつ、私は彼の名前を呼ぶ。

 てっきりいたずらのつもりなのかと思いきや、こちらを見た黒野くんの目は、存外に真剣だった。

「都さん」

「な……どうしたの?」

「俺、来年も都さんと一緒に過ごしたい」


 何を、言われるかと思ったら。

 来年まで、あと五時間を切ったところだ。一緒に新年を迎える、というだけなら五時間で叶ってしまう願いだ。

 だけど彼が言いたいことはそういうことではないんだろう。


「うん。来年の大晦日も、二人で過ごせたらいいね」

 私が答えると、黒野くんは真剣なままの顔でゆっくりと頷いた。

「絶対にそうしたい。都さんと、ずっと一緒がいい」

 垂れ目で普段は柔らかい表情の彼に、真っ直ぐに見つめられるとどきどきする。

 そして、彼の言葉が嬉しかった。

 ちょっと気が早いかもしれないけど、私だってそう思っている。来年もずっと、黒野くんと一緒がいい。

「約束するよ」

 だから、そう告げてみた。

 黒野くんの口元に笑みが戻る。甘くとろけるような笑い方をする。

「ありがとう、都さん。好きだよ」

 その言葉も嬉しかったけど――ちょっと、心臓に悪かったかななんて。


 食事が一通り済むと、彼がカクテルのお替わりを作ってくれた。

「アフターディナー。すっきりした味の方が、食後にはいいかと思って」

 二人で再びこたつを囲んで、少しだけ残ったお互いの手料理をおつまみに、カクテルを楽しみ、お喋りを楽しむ。

 そうして気がつけば、今年も残り二時間となっていた。

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