1-9
季節は移ろい、秋は冬の色を濃くしていった。鮮やかな緑だった木々の葉は、地に落ちてどこかに吹き飛ばされて消えていく。地に淡く弱々しい影を落とす枝だけの木は神都でも寒々しいものとして映った。
ただ神殿では薔薇がまだ咲いている。どの季節でも必ずなにかの薔薇は咲いているように庭園は誂えてあるのだ。北方の小さいが丈夫な薔薇を徐々にこちらに馴染ませた。そして神殿も重要な部屋は暖房が十分備え付けていある。小さくはぜる木の音が暖炉から止むことはない。
切られた冬の薔薇が数輪、ナユタの食卓にも飾られていた。少し早い夕食は相変わらず作法の訓練のものである。
「セツナ様」
いつもと変わらず、頑なに彼女をそう呼ぶキリエの声にはわずかに心を砕いているようであった。
「もう少し召し上がっていただいても」
「いいえ、もう結構」
ナユタは微笑んだ。
そらさず見つめず、曖昧な淑女らしい微笑。しなやかな細い指が操るカトラリーが立てるかすかな音さえも品がいい。
「下げて頂戴」
豊かな森が水を蓄えるように、ナユタは教わったことを吸収していた。セツナの姿を塔で見たあの晩から、ナユタは変わったと言ってもいい。紅蓮とサワしか知らないあの出来事で、ナユタはセツナの身代わり足るべくより一層の努力を始めたのだ。
キリエの言うことに、自身の価値観をぶつけて反発することをやめた。それはそういうものなのだという受容。そして寝る間を惜しんでの勉学。
最初は気味悪く思っているようだったキリエは、あっというまに納得したが、ここにきて別の感情を揺り動かしたようだ。
ナユタは痩せていた。
もともと痩せ気味ではあったが、今ははっきりと痩せぎすと言ってよい。ここに来た頃は初夏の日焼けを化粧で隠していたナユタだが、今は地である透けるような白い肌が戻り始めていた。しかしそこには今までのナユタのような柔らかい珊瑚色の頬はない。どこか脆弱な白。『薔薇瞳セツナ様』がナユタであることを知らない女官達の間では、病が再発したのではないかと噂になっているほどだ。
そもそも食事の絶対量が減り、睡眠時間も削っている。睡眠時間はキリエやユージの知らないことだが、食事の量はキリエも把握している。
「しかし、もう少し食べていただかなければ体に障ります」
「でも食べたくないんだから仕方ないわ」
「体調を管理することもあなたの仕事ですよ」
「別に食べなくても病気になったりしていないじゃない。それでも、と言うなら無理難題だわ。キリエは厳しいのね、困ったわ」
つかみどころのない曖昧な言葉でナユタはキリエの反論を封じた。それが自分の教えてきたことだと気がついたキリエは、確かに言葉に詰まる。
「平気。ねえ、だってわたし、ここに来て一度も風邪だってひいてないでしょう」
そこに畳み掛けるようにナユタは告げる。
「今日のデザートは林檎の砂糖煮ね。楽しみしていたの、早く食べたいわ」
そういったところで、ナユタは二口ほどしか食べないのだ。しかしキリエはそれ以上の言葉を無くし、皿を取りに行った。
「もう私がいなくとも、作法には特に問題は感じません。よろしければ、本当に食べたいものをご用意しますが?」
デザートを給仕しながらキリエは言う。
「本当に食べたいもの?」
意外な事を問われナユタは一瞬田舎娘の驚いた顔に戻った。それは暖炉の炎が一瞬揺らめく間に消えうせてしまったが。
「いいえ、ここの食事はとてもおいしいもの。そんな贅沢言ったらバチがあたるから」
ナユタの微笑は張り付いたようになっていた。木に最後までしがみついた葉の最後の一枚のように、時折感情に揺れて震える。しかしそれはいっそう風の冷たさを感じさせてくるだけだ。
「そうおっしゃらず」
「いいえ、大丈夫」
ナユタは静かに立ち上がった。最初はそんなに締め付けたら息が出来ないと喚き散らしていたコルセットも慣れたものだ。ドレスの布はここに来たときよりも厚くなっていた。寒さに対しての備えだが、その分豪奢になった刺繍は目を奪われる。淡い紫の布地に濃い黄色の糸で描かれた花が光っていた。緩くひいた裾を直してナユタはキリエに向き直った。
「ごきげんよう」
身を翻すナユタの足音にはぶれは無い。キリエがナユタのために誂えさせた靴に変わったからだ。それだけの期間がすぎたといえばそれまでだが、伸ばされたナユタの背筋には、手を差し伸べることさえためらうような脆い何かがあった。優美さと引き換えたように。
部屋を出ると、警護の守護団員が三人立っていた。深々と頭を下げるとナユタの背後について歩き始める。
けれど彼らがナユタに語りかけることは無い。
彼らにとってナユタは語りかけるも恐れ多い薔薇瞳様なのだ。当番制の彼らといままで会った人数は多いが言葉を交わしたことは数えるほどで、それも極めて事務的な事だけ。
ナユタはサワのことを思い出した。
ナユタがここに慣れるに伴い、彼女はセツナのもとに入り浸りになってしまった。それはセツナの容態が思わしくないと言うことであるが、不安よりもナユタは拭い去れない寂しさを感じる。
よくよく考えればサワはナユタではなくセツナの友人だったのだ。セツナの妹だからということで優しくしてくれたが、結局彼女にとってナユタは代替わりした別の薔薇瞳にすぎない。
寂しい。
上質の発泡性の葡萄酒のように、いつまでも心の底からはその感情が湧きあがる。けれど、それは思ってもいけないものだとナユタは考えていた。
守護団に付き添われてナユタは自室についた。彼らはそこで退く。しかし入り口で待ち構えるようにしていた女官らが変わってナユタの後について部屋に入ってきた。
皆揃いの若草色の制服を着た女性たちばかり五人。サワと入れ替わるようにして彼女達の数は増えた。部屋に入ると彼女達の手によって衣類が取り払われる。髪のピン一本に至るまでナユタが手を出すことは無い。
『サワ、ちょ、ちょっと無理!死ーぬー!』
『気合です、気合!あ、ちょっとそこ押さえていてください。締め上げますから。いきまっすよー!』
『たーすーけーてー!』
などと騒ぎながらサワに服を着せてもらっていたときから季節は大して変わっていないのに、遠くに感じられてならない。そして故郷はなおのこと遠い。
つるりとした美しいタイルで覆われた隣室で湯を使う。とはいえナユタはそこに身を沈めているだけだ。
最初は一人でやるとゴネたが、今は無駄な抵抗はやめた。セツナは堂々と人をつかっていたらしいから。セツナと比べて明らかにナユタは貧相なはずだが、キリエが病と関連付けてよく言い含めているのかそれを疑問に思うものもいなかった。
そして気がつけば、ナユタはとろりとした感触の白く柔らかな夜着に包まれて、夜寝る前の良い香りのするお茶を差し出されているのだ。
故郷にいた頃、寝る直前まで母も父もなんらかの仕事をしていた。領主と言っても貧しい地方だ。夜も働かなければならなかった。こんな良い香りのするお茶があることさえ知らなかっただろうし、夜も炎が耐えず寒さを知らない秋、病と寒さを恐れずに済む冬を待つことなど想像もつかないだろう。
完全にナユタの私室である寝室に追いやられ女官達が優美な夜の挨拶と共に退いてから、ようやくナユタは大きく息を吐き出した。
「大丈夫」
知らずに呟いた。
「大丈夫、わたしはちゃんとセツナの代わりが出来るから」
ベッド脇のナイトボードの引き出しから取り出したのは、秋津国の歴史書だ。ベッドの上で膝を抱えるようにしてそれを読み始める。
セツナが持っていた数々の知識、そしてそれを基にした知恵。そして歴代薔薇瞳の中でも異質なほど巧みだった剣術。
剣術はちょっと無理だし、あまり賢くもないので、人を驚嘆させるようなことは自分には考えられない。それでも、知識を詰め込むことならなんとか、とナユタは寝る間を惜しんで本を読みふけっていた。そもそも本を読むことは嫌いではない。本を頼んだのはユージにキリエ、そして紅蓮。しかしそれぞれ別に頼んであるから彼らはナユタが夜どれほどそれに費やしているかを知ることは無いはず。
しかし、本は希少だった。王都にある国立図書館には無数の本があると聞いた。一度見てみたいとナユタは望む。
秋津国の歴史は一つの時代の終焉から始まったとされている。
大いなる文明をすべて闇に献上したと言われる千年前の戦い。多くを失ったあと、秋津国は比較的まともな復興を遂げることができた。
大陸のすみの小国とみなされていたことが有利に働いたのだろう。断続的には秋津国の敵が周囲の国家であったこともあるが、多くは夜見の血族のみが敵であった。そこに生まれたのが初代薔薇瞳の女神だ。
対夜見の血族において、秋津国は他国に比べて一歩も二歩も先んじた。それが他の国に必要とされることで有効な外交カードとなり、秋津国は領土を広げさらに安定した歴史を持つことが出来た。口の悪いものは、秋津国の安寧は夜見の血族のおかげだというほどだが、確かにそれは否定できない。
夜見の血族がいなければ、秋津国などあっというまに他国に飲み込まれていただろう。
五代目薔薇瞳は王家と深い関わりがあったという。その頃はまだ王都と神都は仲も良好だったのだ。
初代薔薇瞳についてはあまりに神格化が進み、歴史上の人物として見なすことは大変難しい。逸話が合っても、湖を歩いて渡っただの、死者を生き返らせただの、眉唾物の話ばかりだ。二代目から四代目までは混乱の歴史もあって、あまり情報が無い。やっと名前が伝わっているくらいだ。歴史に薔薇瞳が関わってくるのは五代目からである。彼女は優秀な政治家であったらしい。薔薇瞳を信仰として体系化し、政治的に利用して国をまとめていったのだ。
「うう覚えるのが難しい。五代目薔薇瞳の時代に、ニニギ王朝で」
ナユタがぶつぶつ呟いていると窓がカタンと鳴った。かすかだったが、建物の上方ではあまり聞きなれない音だ。窓を見ると、闇の中に人影があった。
「……こんな寒いのに」
半ば呆れてから、ナユタはベッドを降りた。夜着の裾がひらりと揺れる。
「危ないよ、紅蓮」
「俺をなんだと思っているんだ」
窓を開けると紅蓮が入り込んできた。相変わらず室内の扉からは入ってこない。
「なんで紅蓮はちゃんと建物の中を通らないの?」
「魔犬でも、ここに来るためには署名だの身体確認だのがある。わずらわしくて仕方ない」
「寒いよ」
「ならとっとと入れろ」
ナユタが退くと、紅蓮は長い漆黒のマントをするりと腕にまとめて入り込んできた。外に吸い出された温かさが、窓を閉めることでようやく戻ってくる。
「ほら、希望のものだ」
「ありがとう」
紅蓮が差し出したのは分厚い書物だ。千年前の戦争以前の文明について研究されたものらしい。
「でもこれって結構手に入れるのが大変なんだよね。どこで手にいれたの。いくらした?」
「お前を連れてきたときに、近くの村で雑用を依頼されたことがあっただろう。薔薇瞳守護団に口を利いて向かわせた。それで少しばかり感謝されたんだ。あの村の世話役のじいさんが希少な書物を持ち合わせていて、その中にあった」
「お金は……」
「今のあんたが自由に動かせる金じゃない。気にするな」
「……紅蓮が払ってくれたってこと?」
ナユタは目を見開いて目の前の大柄な男を見上げた。
「ええっ、悪いよ」
珍しく紅蓮の目がそらされる。
「別にかまわない」
「だって」
「……俺はもうあまり金の心配はしなくていいんだ」
「魔犬だから?」
「……そういうことだ」
紅蓮は曖昧に答えた。収入がある、それだけではない含み。けれどナユタは気がつかない。それに紅蓮も語る気はなさそうだ。ずしりとした本を嬉しそうに受け取るナユタに少しだけ柔らかい視線を投げかけるだけだ。
「だが」
紅蓮はその視線を険しいものに変えた。
「あんた、夜更かししすぎじゃないのか?」
「そんなことないよ」
「朝見かけるたびに、青白い顔だと思っていた。ちゃんと食べているのか」
「食べてるよ。はいはい、紅蓮帰った帰った。わたしはこれちょっと読んで寝るんだから」
「ほほう、用が済んだら容赦なく追い返すあたり、王都の浮気性の御婦人並に凄腕だな」
「なに、紅蓮、わたしとなにかお話したいの?」
「……いや、とくには……」
嬉しそうに本を抱えてナユタはぽすんとベッドに転がる。ひょいと膝を曲げると夜着がめくれ、細い……まるで鶏がらのようだと紅蓮が思うほどの細い足がむき出しになる。あまりの細さは女と言うよりはただの子どもの足だ。したがって紅蓮の劣情など外の空気のごとく覚めたものだが。
紅蓮はため息を付いて窓に寄りかかった。
「足を見せるな」
「へ?」
丁寧に表紙をめくっていたナユタは読書の邪魔をされ、ちょっとうっとおしそうな顔を向けた。
「女が足を見せるなと言っている!」
「なに怒ってんの。でもそうだね、風邪ひくとキリエがまた怒るよね」
ナユタは軽く笑って裾を直した。微妙に紅蓮の怒りとは別の場所にある反省だが、まあいいと紅蓮は諦めた。
「そんなに嬉しいか」
「わたしね、自分が本を好きだったなんて初めて知った。村にはあまり無かったから。でも今は一杯読めて嬉しい。こんなにいろんなことが書いてあるんだね。千年前の戦争の前はもっとたくさん本があったんでしょう?書いてあることももっと難しくて詳しくて。それなのに、どうしてそれを失わせてしまうような大きな戦いをしたんだろうね。残念だね」
「知ることは楽しいか」
「楽しい」
「……そうか」
紅蓮の声があまりにも静かな事に気がついて、ナユタはふと彼に顔を向けた。
「紅蓮どうしたの」
「……知識を得るのに、人の生涯はあまりに短いと思って」
紅蓮はその不思議な色の眼差しをナユタに向けていた。
「夜見の血族の寿命は百年をかるく超える。しかし、千年前の戦争の前は、普通の人ですらそれだけ生きることもあったという。今、人は六十年を生きるにやっとだ。百年生きても殺しあう愚かさを拭えなかった人が、たった六十年で何がつかめるのだろうか」
「紅蓮?」
ナユタは寝台から起き上がった。その濃い色の瞳は彼を見つめる。
「あんたは何がしたいんだ、人間の娘」
何が?
問われたナユタは答えられない。
自分がどこまでセツナに追いつけるのか、考えられるのはそれだけだ。自分が何をしたいのかなど思いもしない。
窓の外の暗がりを背景として、紅蓮は窓に寄りかかっていた。赤い髪が灯火に映え、ガラスに映って外の暗がりを隠す。光を受けて、揺らめくのは眼の色だ。水面が揺らいでいるようだとナユタは思う。朱の夕日を映す琥珀の海。けして届かない光。
彼は今、人間の娘とナユタを呼んだ。まるでそれが自分とは違う何かのように。
……彼自身こそ、何を望んでいるのだろう。揺れる光をナユタは見つめ返す。
人でなく、夜見の血族でなく、ただ魔犬というのなら、彼は今、世界に一人の存在だ。それはただ孤独。ナユタの抱える孤独など、遠く及ばぬ永劫の。
「わたしは」
「……いや、失言だ。無理やりここに連れてきた俺が問うべきことではなかった」
紅蓮は質問を自分で終わらせた。
ナユタが紅蓮に対して思ったことも全て断ち切られる。
「読書もいいが、早く眠れ」
紅蓮はそう言って窓に手をかけた。
「紅蓮!」
ナユタはたまらずに彼を呼ぶ。しかし、本当に問いかけたいことを口にはできない。
「あ、あのっ、本、ありがとう。すごく嬉しい」
「あんたはここから出られないからな。このくらいなら簡単だ」
「でもまた頼むかも、ごめんね。あ、あのね、お金ならなんとかするから」
「かまわない」
紅蓮は振り返る。そっけない物言いだが、ふとからかうように微笑を浮かべた。
「お金はかまわないが、感謝はしてもらいたいな」
「感謝してるよ!すごく!」
「それなら態度で示してもらいたいものだ。そうだなあ、やはり褒美と言えば乙女の口付けか」
にやっと笑ったその顔は、ちょっとした悪ふざけだ。ナユタがまた真に受けて顔を赤くしたり軽く怒ったりするのを見るのが多分紅蓮は好きなのだ。
しかし、ナユタの反応は違っていた。
「いいよ、そんなことでいいの?」
そう言って彼女はひょいと寝台から降りる。履物が面倒だったのか、ひたひたと素足で近寄り紅蓮の服の袖を掴む。そのまま背伸びで顔を近づけた。
「ナユタ?」
唖然とする紅蓮にナユタは口付けた。
彼の、頬に。
羽のように軽く、家族のように優しく、風のように一瞬。
「ありがとね」
すぐに離れて彼を見つめ、にこにこして言うナユタ。仕掛けた悪ふざけに紅蓮自身が唖然とさせられる。
「……ありがとうじゃなくてだな」
「うん?」
能天気な顔に紅蓮は言葉を飲み込んだ。
「……そうか、口付けの解釈が頬とは斬新だ……な」
それだけ言って紅蓮は窓枠に手をかけた。
「ありがとう、紅蓮」
「いや、どういたしまして」
窓を開けた紅蓮は入り込んできたときと同じように優雅であるが力強い動作で外に出た。寒い風にふと顔をしかめたナユタを気遣うようにすぐに窓を閉める。ガラスの向こうの彼は寒さなど無いように変わらず微笑んでいた。
いつもと変わらないはずの紅蓮。かるくガラスに触れてから、彼は闇を駆け下りた。あっというまに暗がりにまぎれてしまった彼を見失ってもナユタはそこに立っていた。
彼が一瞬だけ触れたガラスは、淡く曇っていた。指の先のかすかな後。ナユタはそこに内側から触れてみる。
温かみは無くただ冬の冷たさが触れるだけだ。
曇りはあっと言う間に小さくなって消えてしまう。しかしナユタはそれが何かの啓示であるかのようにしばらく指を離さなかった。




