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赤ーREDー  作者: 蒼治
五幕 BLOOD SWORD
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89/91

5-18

「やだやだ!」

 ナユタは半狂乱だ。紅蓮を揺さぶり叫ぶ。

「なんで死んじゃうの!そんなこといいって言ってない!」

 手で涙を擦ったせいで紅蓮の血で自分の顔を汚しているが、それさえ気にすることができない。傍らに置いた短剣を彼女は掴んだ。

 息をつめてからその剣を、自分の左の掌に走らせる。掌を思ったよりも深く走った朱の線から血が溢れた。痛みに顔を歪めながらも彼女はさらに刃を握り締め、滴った己の赤の雫を紅蓮の口元に落とす。痛みを感じているが、焦りの中それは遠くなっていった。

「ねえ、紅蓮、飲んで。薔薇瞳の血だから!」

 彼の唇を湿らせるもそれはそのまま流れていくばかりだ。

「……やっぱりダメなの?ねえだめじゃないよね!」

 ナユタはとても薔薇瞳とは見えぬか弱さで呟いた。

「やっぱりわたしの血じゃダメなの……なんで?なんでだめなの!?わたしとセツナで何が違うの!」

 がくりとうなだれたナユタは、目の端で動くものを捕らえた。はっとして振り返ると、呻きながら起き上がろうとしてるアーヴルラジューと目があった。

「……ナユタ」

「ラジュー」

 今はだめだ。あまりにも弱くなっている自分を知ったナユタは、彼と話をすることを恐れる。今言われたら、自分は彼にすがってしまいかねない。夜見の血族のあのおおらかな優しさに。

 ナユタは立ち上がった。短剣を握り締めていることにも気がつかないまま、テラスを建物に向かって戻る。自分の手から血を落としながら彼女は走った。それは足跡のように床に点々と残る。

「ナユタ!」

 彼女を呼んだアーヴルラジューは一瞬だけ、近い場所に横たわる紅蓮に視線を落とした。黒いその影には死が付きまとっている。一瞬である上、ただの成行きだが、共に戦った相手を見つめ……アーヴルラジューは近寄ることもなく視線をナユタも戻した。

 逃げるナユタもその視線を感じていた。

 アーヴルラジューが何を思ったのかはわからないが、ナユタを追ってきたことで彼女はそれを想像することをやめた。

 神殿の中はレッドが落とした炎と雷であちこちが破損し、火を上げていた。分断された建物の中、行ける場所は少ない。

 廊下を走って昴の宮に抜けようとしたが、先に進めない。一番近い階段は礼拝堂に降りる階段だった。そこから外に抜けようと、ナユタは階段を駆けおりる。何人か人の姿を見かけたが、髪もぐしゃぐしゃで顔も汚れ、ドレスも形を成していないナユタを遠目で一瞬で薔薇瞳だと見抜けるものはいなかった。

 礼拝堂に下りたナユタは、誰もいないことを知った。

 いつも巡礼者や神官であふれている礼拝堂は、光が差し込み埃の中で淡くくけぶっていた。静けさの向こうに、レッドがしでかしたことで起きている外の喧騒が聞こえるが、あまりにも遠い。

 そのまま逃げようとしたナユタは祭壇の上にある、石の像を見上げた。

 大きく両手を広げて立つ初代薔薇瞳と傍らに跪くその魔犬。

 人間の二倍ほどある巨大な像は、ナユタを見下ろす。

 死した彼らの壮麗さにくらべ、今の自分のあまりにみすぼらしいことか。初代薔薇瞳は、なぜかセツナと印象が重なった。

「ナユタ」

 祭壇の前で立ち止まったまま、ナユタは追ってきたアーヴルラジューを見つめた。彼が近づいてきても、逃げない。

「……君の魔犬は死んだのですか」

 祭壇の前で、数歩しか離れていない距離まできてからアーヴルラジューは問いかけた。

「……やはり魔犬の強さは尋常ではないですね。あれを倒すなんて」

「倒したのは紅蓮じゃない。ロゥエレレイシアの血だった」

「何?」

「ロゥエレレイシアがここに来なければ、レッドは倒せなかった」

 ロゥエレレイシアがここに来た理由も、そして刺されて命を落としたいきさつもけして正しいことだとは言えない。それでもその縁が、結果として今神都を、あるいは人々を救った。

「皮肉っていうのは、きっとこんな時につかう言葉なのね」

 ナユタの発言にさらに質問を返そうとしたらしいアーヴルラジューだが、もはや終わったことだと判断したのか、話を変える。

 いや、彼にしてみればただ戻しただけか。

「……いまならこの混乱で一緒に行けます」

「そうだね」

 神官長が指揮を取るどころではないので、多少現場には混乱があるのだろう。ナユタの行方をリョウが捜しているはずだが、彼女にはもうアーヴルラジューに会わせたくなかった。

「行きましょう」

 ナユタは答えず、ただぶれない視線でアーヴルラジューを見つめていた。

「ナユタ」

 アーヴルラジューはその両手を差し出し、ナユタを抱擁しようとする。ナユタは抵抗しようとしなかった。それどころか彼女自身両手をアーヴルラジューの背に回そうとする。

「やっと手に入れました」

 腕の中の小さな温かさを確かめるように、アーヴルラジューが腕に力をこめようとしたときだった。

「アーヴルラジュー様!」

 少女の甲高い声は、エィディアロメラのものだった。階段から大きく跳躍した彼女は二人の間に割り込んでナユタを突き飛ばす。加減できず激しく床にぶつかったナユタに、アーヴルラジューは目を見開いた。

「何をするんですかエィディアロメラ!」

「良く御覧なさい!」

 エィディアロメラは怒りを帯びていた。アーヴルラジューの許しが無いから、とりあえずナユタを生かしているが、ただの『人』だったら、すぐにでも切り裂いていただろう。

「なにを……」

 エィディアロメラに対して憤りを隠せなかったアーヴルラジューの声の調子が変わる。ナユタの傍らに落ちたものを見たときだ。

「それは」

 先ほど紅蓮に血を与えようとして、己の血をべったりとつけた短剣をナユタはずっと持っていた。背に回した手は、それを。

「アーヴルラジュー様の背に突き立てようと!」

 魔犬の強さを維持することが薔薇瞳の使命のようでさえあるが、そもそも薔薇瞳の血には夜見の血族を退ける能力がある。

 その血は夜見の血族にとって猛毒でしかない。だからこそ、セツナの血を口にしたフルークレシスは死んだし、今、ナユタの血のついた剣で刺されれば、アーヴルラジューもただではすまない。

「ナユタ!」

 アーヴルラジューは信じがたいものを見たような声をあげた。

「君は僕を」

 ナユタは立ちあがった。

 いくつもの死を思い出す。

 イルネもサイセイもロゥエレレイシアもサワも、別にナユタのために死んだわけではない。それでもナユタはそこから結論を出していた。

「ナユタじゃない」

 わたしが世界を変えることは不可能だ。これからも無残な出来事は続くのだ。それでも。ここから逃げてどうなるのか。与えられた役目だとしても……こんなのわたしの願ったことじゃないとは叫ぶ気になれない。

 それでも、ここまで危険を冒してきてくれアーヴルラジューをもはや言葉を濁して曖昧な態度であしらうことはできなかった。彼の真摯さに向き合うために、ナユタは自分を貫く。

「第三十七代薔薇瞳セツナです」

 それでいい。

 ようやく、自分が諦めではなく、己がものとして、ナユタはそれをどこか清々しく受け入れた。

 愛しいものを守りたい。自分がセツナのふりをするのも、それはもうかまわない。それは己が望むことの手段でしかないからだ。

『あんたの視界に直接入らない人のこともあんたは守らなきゃいけないんだ。そのためには、親しい誰かを見捨てなきゃいけないこともある』

 ニキの言葉のなんという真理。親しい誰かには、ナユタ自身も含まれていた。

「そのために、僕を殺そうとしたんですか」

 アーヴルラジューの目には憎しみと呼べるものは無かった。ただ、深い悲しさだけがある。

「……エィディアロメラ」

「なんでしょう」

「僕にはできません」

「どうぞ。お申し付け下さい。ご友人の死の原因となった瞬間から憎まれ役を全うする準備は出来てます」

「……薔薇瞳を。殺すには今が好機」

 エィディアロメラはその言葉に手のナイフを掲げた。

 しかし、その時、轟音とともに、礼拝堂の天井の一部が落ちてきた。

 三人は動きをとめて一斉にその方向を見る。音と土煙で一瞬視界を見失った。その中から飛び出してきて、エィディアロメラに切りかかった影は漆黒。

「紅蓮!」

 緋色の髪が埃のなか唯一の色彩として浮かび上がる。

 いまだ、左腕の怪我は血を流し、動きにもいつもどおりの本調子は見られないが、さきほど息絶えたはずの彼が、天井から飛び降りてきたのだった。

 もともと先ほどレッドの「女神の矢」の炎で破壊されかけていた床石部分、そこを紅蓮は打ち抜いて降りて来た。

 エィディアロメラを突き飛ばし、ナユタをその腕に治めると、紅蓮は夜見の血族二人を見た。

「なぜ生きて……」

 アーヴルラジューは愕然として呟く。

「薔薇瞳の血があれば、魔犬はいつでも生き返る」

「だが彼女は!」

 お前の薔薇瞳ではなかったはずだといいかけて、アーヴルラジューはそれをやめた。理解できなくても、いまここにいる彼は現実だ。

「紅蓮!」

 ナユタは彼に抱きついていた。まだじくじくと湿っている彼の服の血が、ナユタの服に移る。

 先ほど無理やり口元に落とした血、それは最低限の命脈をつなげたものの、傷の完治には至っていない。紅蓮は立っているのもやっとのはずだ。それにアーヴルラジュー達が気がつけば、また逆転が起きる。

 ふいに礼拝堂の扉が急に開かれた。

 光が、巨大な扉を超えて差し込んでくる。

「薔薇瞳様!」

 叫んで入ってきたのは、タカネだった。アーヴルラジューとエィディアロメラの姿を認め、足を止める。しかし事態が膠着したのは一瞬だ。続けざまに守護団員達が、礼拝堂の入り口を遮るように、なだれをうって入り込んできた。

 一気に魔犬と守護団に囲まれ、アーヴルラジューとエィディアロメラは顔をこわばらせた。

 普段なら逃げ出すくらいは造作もない。しかし、アーヴルラジューは先のレッドとの戦いで満身創痍、エィディアロメラも猟犬との戦いに参加しており、無傷ではない。

「夜見の血族!」

 守護団の誰かが叫ぶ。その向こうにリョウがいることに、アーヴルラジューは気がついた。守護団員達に阻まれ、先頭に出ることができない。

 最も怒りを抱えているはずのリョウ、アーヴルラジューは彼女の表情を探ったが、彼女はむしろこの好機に困惑しているようだった。

 ラジュー、とリョウの唇は小さく動く。アーヴルラジューではなく、あの頃のように呼んだ彼女に、アーヴルラジューは痛みを覚える。その痛みは、人と呼ばれるもの全てへの同情なのかもしれない。

 憎しみとの間で揺れ動く、それこそが苦痛であるはずなのに、人はそれでも迷うのだ。

「エィディアロメラ、逃げろ」

「王を捨てる夜見の血族がどこにいますか」

 小声の会話で、エィディアロメラはアーヴルラジューの言葉にも相変わらずの憎まれ口だ。

「倒せ!」

 リョウではない守護団の誰かが叫ぶ。それもそうだろうと、アーヴルラジューはどこか納得してみていた。この光景はどう見ても夜見の血族が薔薇瞳を襲っているところだ。

 あの、サワという娘のことを少し思い出した。刹那の邂逅でしかなかったが、友情というものについて考える。

 遠い怨嗟に縛られて、仕える相手に複雑な感情を抱いていた彼女は、薔薇瞳セツナを裏切ったことをずっとどう思っていたのだろう。彼女自身がセツナに何をしたわけではなくとも、自分の心は教団になかったサワは。

 それでも友情と言うものは成り立っていたのだとアーヴルラジューはなぜか信じたかった。それが、自分とサイセイの関係にも連なるからだ。

 最終的に殺してしまったが、それでも、かつてはあった友情が失われたわけではないと思いたい。

 自分も相当サイセイを待たせたな、とアーヴルラジューは内心で嗤った。剣を抜く守護団を見てももう動く気がない。

「やめましょう」

 金属の擦れ合う音の中、そう言ったのは、ナユタだった。紅蓮の腕から逃れ前に出る。

「セツナ様」

 彼女の言動に、守護団員は動きをとめた。薔薇瞳の制止は意外なことであったが、有無を言わせない強さだ。

 ひどい身なりのナユタだったが、そこにあるものは、かつてのセツナにけして負けない威厳であり、その場のすべてに見せ付けることにも気後れはない。ナユタはそらすことなくアーヴルラジューを見つめることができていた。

 アーヴルラジューはその眼差しにナユタではなく、薔薇瞳を見た。

「神都の深くに眠っていた魔物は、皆も見たことでしょう。あれは事故によって解放されてしまった」

 ナユタは守護団に語りかける。

「あれが外に出たら、もう収拾はつかず、想像もできないような酷い事になっていたはずです。この夜見の血族がそれを防ぐ助力となってくれたことは、皆が見たこと」

 自分の脇に立つ紅蓮の袖をナユタは軽く引いた。ナユタの意図を理解した紅蓮がわずかに眉をひそめる。しかし彼女の無言の命令に仕方無さそうに肯いた。

「地下の封印されていた魔物はなんとか無事に倒すことができました。だからこそ。今はただ我々は彼らを見送ります」

 ナユタはそのむき出しの両膝を床についた。そして細い首筋を差し出すように、アーヴルラジューに向かって頭を垂れる。

「ありがとうございます。夜見の血族の王」

 薔薇瞳の感謝に息を飲んだのはもちろん守護団の者達だが、目の前のナユタに一番驚かされたのは、アーヴルラジューだった。

 一瞬遅れて紅蓮も跪く。その顔は一度だけアーヴルラジューに向けられた。ナユタの決断には紅蓮も戸惑っているのだろう。

「どうぞ、お帰り下さい」

 ナユタはただ、アーヴルラジューをこの場から無事に帰したいと願っているのだ。先ほどまで自分を殺そうとしていた彼女の今の判断は理解に苦しむ。先ほど薔薇瞳として彼女はアーヴルラジューに刃を向け、今同じ立場で彼を逃がす。

 再び目を落としたナユタの細い肩を見て、アーヴルラジューはそれを納得した。あの時ナユタはアーヴルラジューを振り切るためにセツナであることを選択したのだ。そして今彼女が薔薇瞳として対峙する自分は、彼女が言うとおり、アーヴルラジューではなく『夜見の血族の王』なのだ。

 アーヴルラジューを助けようとする彼女には、もうアーヴルラジュー個人を見ることができない。

 優しいが、頑なな別離だった。

「配慮、痛み入ります」

 アーヴルラジューは顔をあげ、入り口を固める守護団を見据えた。

「薔薇瞳殿が私に礼を尽くされているのに、その下僕のお前達が、私に剣を向けるのか!」

 その声は礼拝堂に響き渡った。先ほど紅蓮が破壊した天井の破片が一つ、瓦礫の積もる床に落ちる。その音をきっかけとしたかのように、守護団員は剣を下げ、慌てて入り口を開けた。差し込んでくる光は、すでに夜明けから遠ざかり、日中の光だった。

「行きましょう、エィディアロメラ」

「……承知いたしました」

 これほど近くにあるナユタを引き寄せることも、薔薇瞳の首を落とすこともなく、ただ、距離を置くことしかできない。

「さようなら、薔薇瞳。次に会うときは、どちらかの血が流れましょう」

「理解しています。けれど、今は御帰還の道中の無事を祈ります」

 アーヴルラジューは何も臆することなくエィディアロメラを連れて礼拝堂を進む。背後のナユタをもう振り返らなかった。遠ざかる己の一歩ごとに、彼女から去るわけではない。もはや戻れぬ深い川が存在しているのだ。いつからともなく、けれど不可避に。

 入り口の守護団員の前を堂々と通りすぎる。中の様子は外にも伝わっていたのだろう、外に出ても、守護団員は距離を置き、誰一人襲い掛かってくるものはなかった。

 神殿に入り口まで彼はゆっくりと進んだ。もはや表情は揺らがない。だが、神殿の出口、巨大な門の前で馬を三頭引いて立つ者の姿を見たときだけ、彼の目にかすかな波紋のように動揺は走った。バルナバレグドと、そしてリョウがいた。

「徒歩は大変だろう。連れていけ」

 リョウがアーヴルラジューに注ぐ視線に明確な憎悪は見られなかった。ただ、彼女も戸惑っているのだということはわかる。

 彼女は何か言いたいはずなのだ、そのためにいたはずだろうに、リョウが口にしたのはそれだけだった。

 一度人の心にたった憎悪がすべて消えることはないのだろう。次々と互いにぶつかり合う雨の日の池の波紋のように、それは消えない。彼女はなにがしかその消えぬ波に決着をつけたようだが、それでも消えない以上、語りかける言葉を持たない。

 リョウが何も言わなければアーヴルラジューにも言える言葉はない。

「感謝します」

 受け取った馬へのものか、あるいは。

 自分でもわからぬまま、アーヴルラジューに言えたことはそれだけだった。リョウはそのままゆっくりとすれ違い、アーヴルラジューから遠くなっていく。

「……帰りましょう」

 彼女の気配が消えてから、アーヴルラジューは連れの二人にそう告げた。


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