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ナユタはふと胸元に触れ、そこにあるはずの冷ややかな重みがない事に気がつき目を見開いた。けれど次の瞬間には安堵のため息をつく。十代薔薇瞳と女神官長の首飾りをリョウに貸したことは、ふと忘れそうになって、時折ナユタをどきりとさせた。
ナユタは開きっぱなしの窓の外を見る。
夏とはいえ、高い位置にある薔薇瞳の部屋は、窓からの涼しい空気を受け入れていた。長い日もすでに落ち、神殿の中も静けさを満たしている深夜だ。
おそらくその窓が視界から外れない場所に、紅蓮がいると知っている。あるいはアーヴルラジューも。
ロゥエレレイシアが死んだあの事件から、まだそう日はたっていないのだ。紅蓮が警戒を失うことは無いだろう。そしてアーヴルラジューがナユタを忘れることもない。
どうして、とナユタは自分に問わない。
自分が紅蓮を好きなことに動機など無用であるように、アーヴルラジューにとってもそれは抗えない衝動なのだろう。
ナユタはそして本を閉じた。寝台脇の書き物机で、また今日も夜更かしして本を読んでいたのだった。サイセイの与えた本以外を読むのは久しぶりだ。
ナユタが読んでいたのは、書物とは言え、薄いものだった。紙の質も悪く気をつけて触れないとページは裂けた。それは二十年ほど前に発行された神都や神殿、教団にまつわる噂をまとめた品のない、そしてところどころに悪意を感じる本だった。
当然、当時あっという間に発禁となり、発行者は国外逃亡となったが、それでも残るところには残っているものである。紅蓮が手に入れてきたものの中に混ざっていた。
ナユタが見つめていたのは、本の中のわずか数ページ。
……第十五代薔薇瞳は、本当に民衆の味方だったのか。
そんな書き出しで始まっていた。
第十五代薔薇瞳といえば、秋津国の南、暑く乾燥した地域に、灌漑の技術をいきわたらせたとして名を残している。もともとそちらの方の出身で、海も無くただ乾いた土地に育った彼女は故郷を何とかしたいと願ったらしい。教団の力を使って、渇いた地に水の流れを作り出したのだった。今ではそこは、小麦の産地として有名だ。
もし自分だったらどうするだろうと思う。
冬が長く寒い代わりに、ナユタの故郷は寒暖の差は比較的大きく、その分様々なものが取れた。海は無いが大河が近く水に苦労したことがない。故郷の寒い冬は思い出すとそれは裏返るように暖炉の、そしてそこに集まる家族の思い出へと変わる。
自分があの地にして上げられることはないとナユタは思う。
しいて言うなら、あの地には医師と言うものがいない、それだけもっと力を貸して上げられればいいなと願う。
誰だって、自分の大事な故郷に何かして上げたいと願うものではないだろうか。それが二度と戻れない場所であればなおさら。それさえも人の悪意にかかればここまで悪しざまに言われてしまうのかと、ナユタは少し気落ちする。
私心を一片も持たないことも薔薇瞳として求められる資質なのだろうか。
そんな思案をナユタはやめた。彼女に関して気になることはそのことではない。続けて書いてあることこそ、ナユタが今興味を持っていることだ。
十五代薔薇瞳は生涯誰とも恋仲にならなかったとされているが、はたしてそれは本当だったのか、実は彼女の恋人は夜見の血族であったのではないかと記されていた。
理由としては、あの南の地に作られた灌漑技術は当時としてはあまりにも高度で人の作り出したものとは思えない事があった。確かにあの技術は、今のこの世でも出来るかどうか怪しいとされている。前例としてあるが故にその技術は秋津国にあまねく広がっているが、もしなかったとしたら人の力だけで成しえただろうか。
まるで、人以上の何かの力を借りたようだと話は結ばれている。
第十五代薔薇瞳の灌漑整備は実は彼女の故郷に限られたことではない、彼女は国内の多くにそれを与え、秋津国を潤したのだ。成したことの偉大さは歴代の薔薇瞳の中でも筆頭にあげられてもおかしくない。
しかし第十五代薔薇瞳は非常に影の薄い扱いとなっている。
……おそらく彼女自身の御世から、恋人が夜見の血族であるという噂はあったのではないかとナユタは推測した。だからその成しえたことに比べて彼女の評価は低いのだ。闇の薔薇瞳のように、もはや隠しきれないほどにその行為が知れ渡っていれば別だが、隠せるものならその不名誉は隠したい。彼女の名を下げても、その悪名だけは広めたくない。そんな意図が見え隠れしているように思える。
今となっては何もかもが推測に過ぎない。
しかし仮に彼女の恋人が夜見の血族の血族であったとしたら、それは彼女にとってどんな決断だったのかと思い巡らせてしまう。
アーヴルラジューに詰め寄られた瞬間のことを思い出す。
あの時、彼の感情に一瞬引きずられそうになった。それはもしかしたあの魔眼のせいだったのかもしれないが、自分にもアーヴルラジューを求める気持ちはまったくないわけではないのだろう。
アーヴルラジューからはいつも、自由という言葉を強く感じる。それにひきつけられているのだとナユタは考えていた。
彼とはただ、なにか機会がずれていただけた。神都に馴染めず一人からに閉じこもっていたあのときにアーヴルラジューと出会っていたら、逆に紅蓮を敵として、ナユタはアーヴルラジューと一緒にいたのかもしれない。
『君の生涯およそ残り五十年を僕に与えてくれたなら、僕らはこの先百年秋津国の人を殺さないと誓う』
あの言葉にも揺らがなかったわけが無い。セツナにもできなかった百年の和平を成しとげられるなら、自分はその一つでもセツナに追いつけるような気がする。もちろん直感で、それは薔薇瞳として正しくとも人として間違っていると知っているからその誘いには乗らなかったが、誘惑であったことは確か。
自分の気持ちさえ不確定だ。
ただ、ナユタが少しだけ安心するのは、今、紅蓮を求める気持ちだけは自身の中で揺らがないだろうと知っていること。
ナユタは立ち上がった。窓際に近寄って、夜の神都を見下ろす。
アーヴルラジューはそう遠くない場所にいるような気がしていた。
「なんというか、面倒くさい男ですね」
「君に言われるのは心外です」
心底不愉快だとばかりに、アーヴルラジューはエィディアロメラを振り返らないまま、吐き捨てた。エィディアロメラは肩をすくめる。
二人はいまだ、神都近くの森に留まっていた。神殿の最上部の明かりはまだみえるほどの距離である。
バルナバレグドは一足先に帰った。一人でもうしばら神都近くに留まりたいと告げたアーヴルラジューに付き合ったのは、エィディアロメラの勝手である。
「なぜここに留まるのですか」
「なぜって……まだナユタを取り戻していない」
「正直申し上げてよろしいですか」
「だめです」
二人はたき火を興すこともなく、夜の森の中、倒木に座っていた。
「言われて嫌なことにお気づきなんですね」
アーヴルラジューは子供のようにふてくされた顔で、エィディアロメラと目を合わせなかった。
「あの薔薇瞳は、貴方のものにはなりませんよ」
「それでも欲しいから、神都に戦いを挑んだのですよ」
それはアーヴルラジューの話題の摩り替えだ。
ナユタはアーヴルラジューに恋をしないだろう、そうエィディアロメラは告知している。そして理解できないアーヴルラジューではない。
彼の敵は神都ではないということも、彼は。
「……第十五代薔薇瞳の噂をご存知ですか」
「恋人が、我々夜見の血族だったというあれですか?」
エィディアロメラの言葉にほっとしてアーヴルラジューは返事をする。自分以外の話ならなんでもよかった。
「そうです」
エィディアロメラは静かな語り口だ。いつもの辛辣さは影をひそめた。
「あの時代は、サウダレイデュカスの治世と重なります」
「……彼は」
あまり名の知られぬ夜見の血族の王。その中でもサウダレイデュカスは名と死に様しか残っていない王だった。
「明け方、寝室で遺体となって見つかった王ですね」
「仮にも夜見の血族の王、人にはそう簡単に殺されません。おそらく彼を葬ったのは身内でしょう。愛玩として人を愛するのならば、我々は互いを微笑ましく見守りますが、それが仲間を売るに等しい行為につながるならば、夜見の血族は容赦しません。追放ですまなかったのは彼はそれに抗ったからでしょうね」
人の歴史では失われたことが夜見の血族の中ではもう少し明確に残っていた。
「貴方があの薔薇瞳に向ける情熱も、度が過ぎれば反感を買いましょう」
「心配してくれているんですか?」
「たとえ救いようの無いバカでも、目の前で死なれては後ろめたさが残ります。しかもまあ運の悪いことにそれが己が王と決めた相手なら」
エィディアロメラの言いように、アーヴルラジューはしばらく思案するも、やがて怪訝そうに聞き返した。
「あのですね、なんでそんな僕についてくるんでしょうか」
「面白そうだからです」
「えーと」
「夜見の血族は美しく、整然としている。その秩序と平穏を資する裏腹で、どこかで妾も娯楽を求めているのでしょう」
「でも殺されちゃったら困るでしょう」
「その時は遠慮なく皆にあなたを売るのでご心配なく」
「……それは結構」
エィディアロメラは不思議な同属だとアーヴルラジューは感じていた。それを言うのならバルナバレグドもだ。
今まで夜見の血族とは異なった場所に人生の重きを置く。
まるで、人のようだと思う。そしてそれは自分も同じだ。
人の中に夜見の血族を理解しようと望むものがいるように、夜見の血族にもまた変質していくものもいるのかもしれない。いつか二つの距離は埋まるのだろうか。それともそれでも捕食者と被捕食者という関係は変わらないのだろうか。
自分がその変化を見届けることはないだろう。おそらくナユタも。それが形となって現れるのはきっとずっと先のことだ。そう想像するものの、結局アーヴルラジューの思案は未来の二族ではなく、明日のナユタにたどりつく。
彼女は自分を選んでついてきたりはしない。
それはアーヴルラジューにも理解できる。では今日のナユタではなく明日のナユタはどうだろう。この執念はアーヴルラジューを悩ませる。諦めてしまえば楽なのにそれができないのはサイセイへの後ろめたさか。
これがもしや。
アーヴルラジューは考えまいとした。
それが罰なのではないか、と言うことを。
もう寝よう、とナユタは思い至った。
開けていた窓を閉ざそうとしてふと視線に気がついた。今までアーヴルラジューのことを考え込んでいたせいもあって、彼の視線かと戸惑う。
けれど、視線は下からのものだった。見下ろして視線のもとに気がついたナユタはその人物が誰かを見定めようとした。
ナユタのいる窓の下、それは地上から随分離れていたがナユタはそこに立って自分自身を見上げている彼に気がついた。
カイエン様?とナユタは口のなかで呟く。
深夜の暗がりだが、神殿内が完全な闇におちることはない。花灯りに照らされるようなぼんやりとした光の中にカイエン王子は立っていた。
それが一人だということに気がついて、ナユタは焦る。そうえばここ数日彼の従者であるはずのハルキの姿をみていない。だからといってカイエンが一人夜の散歩に出るなど常識ではありえない。
彼は今も直、ここではナユタに次ぐ重要な人物であるはずなのだ。だが大声でカイエンであるかどうかを見定めることは出来なかった。それが新たな危険を呼び寄せてしまいそうな不安に陥ったのだ。
カイエン様、と困惑ばかりに彼の名を呟いたナユタは、また信じられないものを見た。窓の下のカイエンは。
微笑んだ。
それがナユタにむけてのものかは実際わからない。しかし他の窓はまだ開いておらず、通りがかる人もない。
もしかしたらカイエンはナユタに何か告げたいことでもあるのだろうか。そんな疑念が湧いてくる。しかし普通にこの部屋を出て行ったのなら、ナユタはけして彼に追いつけない。逆に見失うのが落ちだ。
ナユタが逡巡しているうちに、カイエンはゆっくりと庭園を歩いて行ってしまう。追いかけるのなら今しかない。ナユタは窓を乱暴に閉めると、慌てて寝台の近くの壁に向かった。しゃがみこんでこの間見つけた仕掛けをいじると、壁は低い音を立てて開いた。漆黒の闇の身をすべらせるようにして入り込むと、ナユタは最近慣れつつあるその暗い階段を駆け下りた。
カイエンは何も求めていたのだろう。
前と変わらずに蜘蛛の巣に一度顔をつっこんだが、気にしないでナユタは庭園に顔をだすことにな った。
眠る直前の薄着でナユタは庭を見回す。しかしそこに彼の姿はない。
人気もなく、少しばかりの蒸し暑さが漂う庭で、ナユタは困惑したまま立ち尽くした。たった今見たばかりのあれはまるで夢だったかと思うほど、庭園は静かだ。
ナユタは淡く光っているように見える濃い緑の草木の中にカイエンを探す。
一歩踏み出そうかと思ったとき、脇の草むらでかさりと木々が動いた。そこにカイエンがいるのかと振り返れば。
「何をしているんだ、あんたは」
闇が一瞬で人の姿になったかと思うような素早さで、紅蓮がナユタの服の肩を掴んでいた。
「あ、紅蓮」
「あ、じゃない!自分がどういう立場かわかっているのか。さっきまで窓際に立っていたかと思えば、一瞬目を離した隙に、こんなところにいるし!いったいどうやってここまで来たんだ」
相変わらず立て板に水で怒られて、ナユタは憤りを感じるより先にぽかんとしてしまった。
「ぐ、紅蓮」
「なんだ」
「誰かに会わなかった?」
「この間の騒ぎで、警護に借り出されているいつもよりニ割り増しな守護団の連中なら見たが?」
「そ、そうだね。皆、忙しいんだよね」
「そう思ったら、早く部屋に戻って寝ろ」
紅蓮は逃げないように、とばかりにナユタの肩を抱きこむようにして、回廊の入り口へとナユタをつれていく。
「まったくもう。何をしているんだか」
「ごめんって言ってるじゃない」
自分の見たものに疑問を覚えつつも、ナユタはそのまま素直に神殿建物内に連れもどされたのだった。
その光景を見ているものがいた。
二人の会話に微笑ましさと、若干の嫉妬を覚えつつ、木々の間をゆっくり歩いていくのは、カイエンだった。
おそらくあるはずの秘密の通路。
その有無を確認するべく、カイエンはナユタの前にあえて意味ありげに姿を見せたのだった。
「不思議なものだなあ、神殿は」
ナユタが出てきたあたりを見定めながら彼は呟く。
「しかしまあ、見せ付けられてしまったなあ」
苦笑いとともに。




