4-12
騎士団との合同演習が軌道に乗り始めたとある日、紅蓮は思わぬ人物に呼び止められた。
昴の宮とはまるで関係ない回廊の一角だった
「紅蓮様、少々お時間いただけますか?」
そう言ってきたのは、カイエン王子の従者として顔を覚えている青年だ。にこやかに微笑んでいるが、紅蓮はいまひとつ彼が気に入らなかった。
「なんだ?」
紅蓮が足を止めると、回廊の柱から姿を現したのは、その王子そのもの。さすがの紅蓮もぎょっとして目を見開く。
「忙しいのに悪いね」
まったく悪いと思っていない声で、カイエンは言った。ちらりと自分の従者に目をやると、彼は心得たように、王子を置いて回廊を歩きはじめた。
カイエンはハルキの足音が完全に遠くなるのをまってから告げた。
「君はもうすぐ居なくなるのだろう」
すでの初夏といっていい陽は、まぶしいほどの光を落としていた。だがその分、回廊の柱がタイル貼りの床に落とす影は濃い。その陰影こそが床の模様に見える風景の中、二人は向かい合って立つ。
「……薔薇瞳はちゃんと居る」
紅蓮の言葉はその苦味を押し殺していた。だがカイエンにも確信がある。
「しかし今の薔薇瞳は、三十七代セツナ様ではない」
「いったいどういう言いがかりだ」
そっけなくそれだけ言って、紅蓮はそこから立ち去ろうとした。すれ違い歩き出した紅蓮の背にカイエンは静かに声をかけた。
「薔薇瞳は本物だ、いずれ彼女にも魔犬が現れるだろう。しかし、それが現れるまで、今の薔薇瞳様がどれほど無防備になるか、君は想像しているのか……それとも君亡きあとの話だから君自身には関係ないか?」
紅蓮は足を止めた。そこで背を向けたまま振り返らない。
「守護団は優秀だ。リョウコ殿も彼女を一命を賭して守るだろう。しかしそれで十分か?神掛かってさえいる夜見の血族の力に対抗して、間違いなく守りきれると君はいえるのか」
カイエンの言うことを一笑に付すことなど紅蓮には簡単だ。彼は証拠を掴んでいるわけではない。しかし証拠など無くとも、数段先に未来について、彼は明瞭に予想していた。魔犬不在の神都は弱い。ロゥエレレイシアが来たことで一層神都は揺らいでいる。彼女を見殺しにしたまま、紅蓮が死んだなら、神都の者は最終的な責任者である神官長のユージを責める。ユージが失脚すれば、困るのはナユタだ。
かといってロゥエレレイシアがナユタを殺しても結果は同じ。
「魔犬不在の間、王都も全力を持って彼女を守る。神都より王都のほうがさらに長い歴史を持つ。彼女を守るためなら、騎士団も派遣しよう。だが私も無償ではできない」
「何が欲しいんだ」
「王都と神都のより深い信頼」
「耳障りがいいな。そこから得られるものは金か」
「違う、今の薔薇瞳の私への信頼だ。それを確保できるなら、王都のやかましい連中は私が責任をもって黙らせよう」
紅蓮はゆっくり振り返った。
そこで悠然と立っているカイエンと目を合わせる。
「……薔薇瞳の何が欲しいんだ」
「……正直薔薇瞳は二の次でいい、名も知らぬ彼女が欲しい」
紅蓮は困惑をカイエンに向ける。この次期王は何を言っているのだと顔がこわばる。
「……夜見の血族が一人、彼女をいたく気に入っている。これと敵対して怖くはないか」
「ならばなおさらだ。私以外の誰が全力で守れる器を持っている?」
カイエンは笑った。その動機が憎しみであれ恋であれ、どちらにしても薔薇瞳は夜見の血族に狙われるのは避けられまい。覚悟はしている顔だった。
「ともかく、だからこそ、薔薇瞳と信頼を築きたい。神官も守護団もリョウコ殿もそういった意味では非常に邪魔だ。根気良く誠意を示せばいいのかもしれないが、そんな手間隙かけてリョウコ殿に私を理解してもらおうとも思っていない。少なくとも私が望んでいることを知ったら彼女は何はともあれ邪魔をしてくる。つまり目障り」
だがカイエンはそんな剣呑な言葉だというのに、育ちの良い笑顔を向けた。
「今晩私は彼女と二人で会う。人目につかない場所に行きたい。むろん私の部下は私を守るだろう。しかし、なにか会った時に不安だ。魔犬、お前」
笑顔だが瞳は威圧的だった。
「目に付かないように、私と彼女を守れ」
「……俺にそれを命令するか」
「私の命令など聞く君か?まさか、彼女のためだよ。ああ、いかがわしいことはまだしない、だから安心したまえ」
紅蓮はカイエンを見つめる。彼は紅蓮が居なくなることを知っていて、それでも魔犬をその限界まで利用しようとしている。不快と言うよりは感心した。
「……薔薇瞳は知っているのか」
「内密の方がいいだろう。私と君の約束だ」
それだけ言って、紅蓮の意志など聞かずにカイエンは歩き始めた。柱の影からハルキが出てきて、まるで王の影のようにそっとついて歩き始めた。
紅蓮は二人の影を目で追って、しばらく立ち止まっていた。
「……伊達や酔狂じゃないのか」
王都で会った時も、ナユタを案内するカイエンの背を見ていた。浮ついているわけではないが、どこか頼りない矜持にかけた背だった。
しかし今、あれは確かに覚悟がある者の背だと思う。
そう変えたのが彼のナユタに対する思いなのだろうかと気がついた紅蓮は、自身を省みて言葉を失う。
彼はナユタにために変わることができたのだ。
俺は、何もできないまま朽ちるばかりなのに。
紅蓮は自分に怯えてカイエンとは逆方向に向かって歩き始めた。
いままでセツナが彼の後悔だった。彼女が死んで、あれほど願っていた彼自身の死がようやく近づいてきてくれている。その今になって、また別の揺れる感情の波が襲ってきていた。いつまでたっても自分は悟ることもできない。
ナユタを守ることが出来ない。
それが彼の心に沸き立つ後悔となり始めていた。
深夜、戸惑いながら隠し通路を下りてきて、昨日と同じ場所で立ち尽くしてたナユタは、そう待たされること無くハルキに迎えられた。
女官達によって寝巻きに着替えさせられなければ寝室で一人になることも出来ないナユタは、一体何を着ていったものかと一日悩んでいた。まさか昨日のように薄物一枚というわけにも行かない。しかし自分の手元には衣類一枚ない。
ようやく思いついたのは、別れ際にオリエが持たせてくれたものだった。普通の町に暮らす娘がよそいきとして着るような、薔薇瞳の着る衣装としては質素なものであるが、とても愛らしい服だった。
もとは飾り一つ無い地味な灰色の生地だったが、ニキが端正こめて裾から浮かび上がるように花々の刺繍がしてあった。
娘のオリエが若かりし頃自分のよそいきとして着ていたようで、それをナユタに譲り渡したのは、ありとあらゆる花の刺繍が施されているので、実際に自分でやるとき良いお手本になるからだろうという理由からだった。
ナユタもそれを着る気はなく、自室の引き出しに丁寧に畳んで入れ、時々取り出してその見事さにうっとりとため息をついているだけだった。しかし今はそれしか着るものが無い。
少しだけ裾が短いが、普段町の少女が着ているものは足捌きが楽なようにこのぐらいの長さになっている。
「おや」
それを見てハルキは微笑んだ。
「また寝巻きかと思いましたが。着替えていただく必要はないようですね、よかった、時間がもったいないですから」
「あの?」
そして彼は頭からすっぽりマントをかぶせた。
「さ、行きましょう」
そして一体いつ調べたのかハルキはあの木戸から表に出た。すでに御者が乗った馬車が一台待っていて、乗せられたナユタはそのままわけのわからないうちに、目的地に連れてこられていた。
連れてこられた場所は、丘の上にあり、神都では一、二を争う高級な宿泊施設だった。女官達から「あそこ、すっごい料理がおいしいんですって!」というはしゃいだ噂話を聞いていたが、結局事態が飲み込めずとまどうばかりだ。
一番奥の部屋で、自ら扉を開けてナユタを迎えたのがカイエンだった。彼は神都の夜景が良く見える美しい部屋にいた。
神都の清楚さは失っていないが、一流宿に相応しく、王都から取り寄せた調度品で飾られている部屋は、カイエンに良く似合う。
「それでは私は表におります」
「ありがとうハルキ」
カイエンは笑顔は揺らめく灯りに照らされていた。
「ハルキ様!」
首飾り返してください、というまえに、ナユタの目の前で扉は閉まった。
「セツナ様」
「カイエン様!」
ナユタは穏やかに微笑むカイエンに、困惑したままの言葉を向けた。
「あの、恐れ多い言葉ですが、カイエン様、なぜいつもこんな強引なことをなさるのですか?」
戸惑いがちなナユタの糾弾に、カイエンはむしろ嬉しそうだ。
「すみません、どうしてもあなたに会いたくて」
「毎日お会いしていますよね?」
しれっとしてカイエンはナユタの手をとり、窓際のテーブルまで連れて行く。
「だってそこでは私は王子だし、あなたは薔薇瞳です。それも悪くありませんが、たまにはカイエンとして、名の無いあなたと語りたいんです。さ、どうぞ」
滑らかな曲線が見事な木の椅子に座らせる。
そこにはすでに酒も食べ物も用意してあった。量はそう多くは無いが、非常に手の込んだ鮮やかな前菜がいくつも盛られていた。
窓を向いた長椅子のナユタの横に座りカイエンは上機嫌だ。
ちらりとナユタの服を見て彼は言った。
「見事な刺繍ですね。すばらしい」
カイエンもいくらかいつもより質素な服だ。ちょうどつりあいが取れるくらいの身なりに少しだけナユタは安心する。ニキの刺繍を褒められて我がことのように嬉しくもある。
「あの、頂き物なんです。わたしにとても良くしてくれた方からの」
「ドレス職人ですか?」
「いいえ……えっと、あの、……秘密です」
「秘密ですか」
カイエンはいたずらっぽい笑顔を見せ、ナユタに半ば覆いかぶさるようにして囁いた。
「一流のドレス職人は服の裏地に必ず自身のサインを刺繍しているんですよ……脱いでいただければ誰のものかわかりますね。確認してもよろしいですか?」
「脱いだりなんてしないから無理ですよう」
能天気にナユタは笑う。ある程度駆け引きを知った女性なら、艶っぽい返事も返そうが、ナユタにはそれだけの器量は無い。素でとぼけた返事にカイエンは声をあげて楽しそうに笑った。
「カイエン様?」
「いいえ、なんでもありません。さ、どうぞ召し上がってください」
おそらくカイエンも夕食はすでに取った後なのだろう。二人は飾り切りがほどこされた果実をつまむ。
そのままカイエンはのんびりと絵画の話を始めた。ナユタも好きな話のためについ引き込まれてしまう。こんなふうに強引に連れてこられても、実際話をするカイエンは柔らかく優しい印象しかない。
結局会話は弾んでいたが、ナユタはやがて小さくあくびをしてしまった。夜も更けていることを知っているカイエンは責めない。
「……お疲れでしょうし明日もありますから、そんなに遅くはなりません。薔薇瞳様は日々多忙でいらっしゃることはここに来てよくわかりました」
「申し訳ありません」
「……どうして薔薇瞳一人が、この世の重荷を全て背負わなければならないんでしょうね」
やがてカイエンは呟いた。
「過去の……千年前の戦争では、今の我々には想像もつかない武器があったそうですよ」
カイエンは楽器でも弾くかのように品良く酒の入った杯ををとった。
「非常に古い……触れたら紙が砕けてしまうような古い本で見たことがあります。王宮宝物庫にあって、司書の老人が管理しているのですが。私も昔はものの価値がわからなかったですから、そこに忍び込んで、面白半分に勝手に触ってひどく怒られたものです」
「まあ、相手が王子様でも遠慮しないんですね、その方」
「細くて白髪でまるで仙人のようです。でも古い本が好きなんですね。いや、本そのもの、かな。あの書庫からだして日の光にあたったら彼自身が古い紙みたいに砕けて塵になってしまいますよ、きっと」
カイエンの道化た言い方にナユタは笑った。
「でもカイエン様はその御老人のことを好きなんでしょう。わたしもそういう方が好きです。きっと」
ナユタは言いかけたことを途中で閉ざした。
きっと、サイセイも年取ったらそんな感じです。
サイセイだったら、そういう仕事を好みそうな気がした。しかし今では彼は、何かを望むことも年を取ることも無い。
こうして寂しさに気がつきながら、いつか思い出になるのだろうか。
ナユタは微笑んだまま、言いかけた言葉があったことさえなかったようにふるまう。カイエンはそれを知って知らずか淡々と話を進めた。
「『骸騎士』『ディアナの狩猟』『ルー・ガルー』『深淵』……昔の武器の名前です、姿かたちは不明のままですが。それでもその破壊力はすばらしかったそうですよ」
その声にどこか憧憬がひそむことに気がついて、ナユタは眉をひそめる。
「あまりに強い力は怖いです」
「もう我々には名前の記録しか残されていませんから安心してください。でも私は思うのですが、だとすればもしかすると、初代の薔薇瞳も果たして人だったのだろうかと」
ナユタは手を止めて、カイエンをまじまじと見つめた。薔薇瞳を前にして不敬極まりない発言だが、カイエンが言うとなんだかそれをなじる気にもなれなかった。そもそもナユタは女神としての自覚はいささか欠け気味だ。
「カイエン様はすごいこと考えるのですね」
だが、夜見の血族に対して一方的な敗北ばかりを繰り返していた人側が、六百年前どうやって攻勢を取り戻せたのかについては具体的な話は確かに伝わっていない。
一人の薔薇瞳に一人の魔犬。
はたしてそれでここまで逆転できただろうか。薔薇瞳は限りなく人ではない別のものだったのだろうか。
「これは失礼しました。少しだけ口が滑りました」
「なんだか怖い話です」
「もう昔の話です。初代薔薇瞳よりさらに四百年も前の話です」
怖がらせてしまったことを申し訳なく思ったらしく、カイエンは雑談であったことを強調するようにことさら明るく言った。
「しかし、そういったものが一つでもあれば、あなた一人に全てを負わせず、我々ももう少し夜見の血族に対して対抗できるのになあと思ったのです」
「教団だけでは不足でしょうか」
「いいえ、教団がどうという話ではなく、国民に対し責がある王族としての悩みです」
カイエンはそこまで言ってから、話を変えるようにテーブルの上に置かれた酒の瓶に手を伸ばした。
「少しだけどうですか?」
「いえ……」
「いい酒なんですよ」
ナユタの返事を待たず、カイエンは一杯注いだ。
「ちょっとだけ味見でいかがでしょう。リョウコはこういうものが好きだから、もしあなたがこれをおいしいと思うなら、リョウに今度あげたらいい。喜びますよ」
……リョウが喜ぶこととナユタがそれを味見することに因果関係は実際ないのだが。なんとなくナユタはそれなら、と杯を手にした。




