4-1
その日は、冬の名残の雪の上に散らされたように、草木の花が芽吹き始めていた。風はまだ冷たいが、光は温かい。
数ヶ月ぶりに、薔薇瞳が人々の前に現れたのはそんな日だった。
テラスから微笑むだけでなく、神殿の前の庭園まで下りてきて集まってきた人々の中にいた小さな子供を抱き上げて話しかけていた。
その笑顔には病の残滓は見受けられない。
人々の幾人かはもしかしたら違和感を感じたかもしれない。彼女の様子が以前とは少し違うことに。
セツナとは少し違う種類の笑みだった。どこか遠慮がちで親しみやすいその表情。それは悪いものではなかったから、心に留まることなく流れてしまったかもしれないが。
そして薔薇瞳に寄り添うかのごとくいるのは右翼のリョウだ。
仲が悪いという話は結局単なる噂だったのか、そんなことをよぎらせながらも、人々は単純に彼女の回復を祝った。
「……何があったんだ」
守護団食堂で、リョウが声をかけられたのは、左翼副団長のタカネだった。
タカネはリョウより五歳年上の二十七歳だ。左翼団長は五十代の男性である。すでに実質的な先頭ではタカネは団長を抜いているが、団長の温厚な性格と経験に基づく洞察を左翼団員がタカネも含めて支持しているため、彼は団長のままであり続けている。
逆に右翼は知性以外目だって突出するものはないが、若いのに極めてバランスの取れたリョウを団長に据え年配の四十代の男性二人が副団長として彼女を補佐している。
ユージは守護団内がそれでうまく回っているならと口は挟んでこない。右翼と左翼で方針は違えど、お互いにそれは認め合っているので双方が相手を貶めることもない。
守護団は、比較的問題ない運営がずっと続いていたのだ。
ただ一つ、リョウとセツナの不仲以外は。
しばらく行方不明だったリョウと、病気だったというセツナ。
二人が同時に表舞台に戻ってきて、しかも今まで周りが気に病んでいた不仲が影も形もなくなっていたらそれは不審に思うものもいるだろう。
タカネはリョウの向かいに腰掛けた。騒がしい食堂の一角で、彼は小声だ。守護団も幹部ともなれば、別室を与えられているが、そもそもリョウがあまりそこに近寄らない。この喧騒が好きだと言っていつもここにいる。
タカネも本来はこっそり話しかけたかったのであろうがそういった機会に恵まれなかったらしい。
リョウは顔をあげた。
「やあ左翼副団長。久しぶりだな。奥方とお嬢さんは元気か?」
「あ、ああまあ……ついでに長男が先月生まれたんだが」
「そうか、それはおめでとう」
リョウは笑う。愛妻家と評判の彼もつい見とれそうなほどの鮮やかさで。
「祝いの言葉が遅れてすまない。何か贈り物を近々させてもらうよ」
「いやそんなことはいいんだが……」
タカネはリョウにあっさり話をそらされてしまったがもう一度問いかけてきた。
「あのな、お前とセツナ様のことだが……」
「別に何もないが?」
「……お前とセツナ様がしばらく神都を離れていたことは、皆薄々察している。確かに不安は立ち込めていたが、今となっては戻ってきたからまあいいんじゃないかという空気になっている。でもおかしいだろう」
「何が?」
リョウはけろりとした顔を向けた。
ナユタがセツナと入れ替わった薔薇瞳であることはあまり疑問には思われていないようだ。ただ彼女自身の魔犬がいないこととセツナの死が近いことはけして公にしてよいことではない。少しでもそれを察してしまいそうなことは遠ざけたかった。
「いや、だって……お前とセツナ様は」
仲が悪かっただろうという言葉はさすがにタカネも言いづらかったらしい。リョウもそれを見てふっと笑った、仕方無さそうに。
「とはいえ同じ女同士だからな。夕日の土手で殴り合えば分かり合うこともあるのさ。それだだ」
「なんだそれは」
「ユージが古典絵巻物から見つけた真理らしい」
リョウはしれっとタカネに告げて、それで話を終わらせる。最後まで言えない何か、しかしセツナとリョウが和解したのだなという認識が広まればそれでいい。
「……まあいいが……」
「私は忙しいんだ。かなり神都を不在にしてしまったから書類の山が大変なことになっている。神都の様子も把握しておきたいし。頭が痛い」
「そうだな、合同演習もあるし」
「右翼と左翼でか?それは大規模なものになるな」
リョウは本気で眉をひそめる。大規模な演習ともなればその準備にも手間がかかる。
「……あれ、そうか、お前は知らないのか」
タカネはリョウの前の椅子に座った。
「王都騎士団が来るんだ」
「……何?」
リョウはぎょっとした顔を向けた。
「一月ばかり前に決まったんだ。右翼団長が特殊な業務について不在のため、勘弁してくれとユージが守護団長と一緒になって断ったんだが向こうが折れなくて。まあ何年かに一度行っていることで、ここしばらくなかったから仕方ない。ああ、準備はなんとか進んでいる」
お前が居ないせいで、右翼をまとめるのが若干面倒だったがな……とタカネは悪夢を思い出すような顔をした。
「しかも今回は長期間なんだ。その資金の話とか結構王都側が融通してきたらしく、断るに断れなかったんだが……。なんと三ヶ月間」
「……死人を出す気か?」
もともと神都と王都は仲が良いとは言えず、さらに守護団騎士団ともに自尊心が強い。ちょっとタガが外れれば、喧嘩などいつ始まってもおかしくない。けれど双方を別々にして置いては合同演習の意味がない。
「ああ嫌だ」
タカネが呻く。リョウもさすがに憂鬱だ。
「成功したら、そりゃあ効果的だろうけど、成功に持っていくまでの苦労を考えると、夜逃げしたくなる」
「長男のために頑張れ。しかし……何考えているんだ王都は」
「しかも王子が来るんだよー。カイエン王子!滞在中なにかあったら誰が責任取るんだ?」
「ちょっと待て!」
リョウは信じられない名前を聞いて話を止めた。
「来るのか?」
「自由に動けるうちに見聞を広げたいんだって。正直、迷惑な話だ……」
「あの……」
リョウは奥歯を噛み締める。
「あの色ボケ……」
「そうなんですか、合同演習……」
ナユタもユージからその話を受けていた。
「大変そうですね」
「まあこっちとしては破格の条件だけど」
春の昼下がり、二人はお茶を飲んでいた。ナユタが日々こなさなければならない仕事は少なくない。ここを立ち去る直前と同じ程度には、ユージも負担を減らさなかった。当然しばらく遠ざかっていたのだから、間違いや失敗も目立つ。
それでも、日ごとに彼女はそれを減らしていた。いくつか間違えても次に頑張ればいいのだと彼女は前のように自分を追い詰めていない。そしてそのゆとりは確かに彼女もとってよい方向に働いている。前は焦るばかりだったが今は違うようだ。
深夜まで本を読んでいて紅蓮に叱られたりしているが、無理はしていない。
「しかしカイエン王子が来るのは予想外だった。あの高額の補助金は、彼の警護代も含まれていたんだな。くそーもっとふんだくればよかった」
「でもすぐ帰るんでしょう?」
「いや、出来る限り長く逗留するんだって。だから昴の宮を彼とその側近の宿泊施設にしようと思っているんだ」
「ああ、昴の宮はとても綺麗ですものね」
王宮とはまったく違うが、昴の宮は白を貴重として神殿内でももっとも彫刻が多く、美しい宮とされている。王宮のような豪華さはないが、清楚な若い女性のようなつつましく美しい趣があった。
「それに、薔薇瞳の居住区画から結構離れているし」
ユージはむろんカイエンの恋心など知らない。しかしもはや超常とさえ言えるのではないかといえる予感から警戒していた。
「そうですか。わたしカイエン様は以前お会いしてとても良い方だという印象があります。皆さんは苦労するでしょうし、わたしもいろいろ仕事が増えそうですけどカイエン様に会うのは楽しみです。あの方芸術にご興味がおありのようですから、昴の彫刻は喜んでくださると思います」
「ちょっと薔薇瞳」
ユージがぎょっとした。
「まさか王子のこと好きとかじゃないよね。一回しかあったことがなくても惚れるときには人は惚れちゃうからね?」
「ええ?」
実際会ったことは三度あるのだが、それは今言っても間違いなくユージの心労が増えるだけである。ナユタはそれはしらばっくれる。そもそも何度会おうが答えは同じだ。
「そういう相手じゃありません」
「ほんと、頼むよ?駆け落ちとかしないでね?」
「ユージはロマンス小説の読み過ぎじゃありませんか?」
ナユタとユージの会話に、近くにいた女官と神官が笑いを堪えている。
皆、真実の全てを知るわけではないが、あの精彩のなかった薔薇瞳がここまで笑うようになって安堵しているのだ。
「失礼します」
突然ユージの執務室の扉が開いた。入ってきたのは相変わらず険しい顔のキリエだ。
「やはりここでしたか。昼食の時に、本日は午後の休憩は返上してドレスの採寸だと申し上げたはずですが」
「あっ」
ナユタは短く声をあげた。
「……やはりお忘れですか。どうして人の話をいつも聞き流してしまうのですか」
「ごめん」
慌てて茶碗を置いてナユタは立ち上がる。
「今行く」
この数ヶ月間にナユタは身長から始まって大きく体型が変わってしまったので、今までのドレスでは少々不似合いになってしまったのだ。その代わりセツナのドレスがぴったりになってきたので、今のところそれを着ているが、それでも季節の変わり目に併せていくつか新調の必要性がある。
キリエの嫌味に慌てているナユタだが、前のように深刻な表情はない。にっとユージにこっそり笑いかけて、そして彼女は部屋を出て行った。
だが。
部屋で一人になったとき。ナユタがうつむき加減で握りしめているのは。
ラジューの眼帯だった。リョウが切り落としたそれをナユタは別荘からもって帰ってきたのだった。
『誰のために殺したと思っているのですか』
ラジューがナユタに告げた言葉。もしこれが真意ならば、ナユタはサイセイだけでなくラジューに対しても罪悪感を覚えてしまう。
出会ったときのラジューの優しさは確かに本物だった。
それを変えてしまったのが自分なら、どうしてそもそも出会ってしまったのか。
ナユタは立ち上がった。考え込んでいるとどうしても自分の嫌な所ばかり気がついてしまう。ため息をついたナユタの目に映ったのは、大きな包みだった。
サイセイが血縁を通してリョウに渡すように頼んだあの書籍だった。リョウはスセリの家から譲りうけここに持ってきたのだが、神都に来れば多忙な毎日、夜もナユタは疲労困憊でこの包みを解くひまもなかった。
ようやく今日になって、早い時間に自室に戻れたのである。
ナユタはその包みを解き始めた。サイセイの読む本は、ナユタの今の力量を超えて難しい。しかもアポカリョプシスの言語で書かれている。それでも彼がナユタに読んで欲しいと願ったのなら、頑張って読もうと決めた。
どれも両手で抱えなければ落としてしまいそうな厚みの本ばかりだった。ぱらぱらとめくってみたがなかなか意味まではつかめない。
一冊ずつ下ろして別の山にしていった時だった。
ふと、その中に、一冊だけ片手でもてそうなものが入っていることに気がついた。何気なく開いてみると、殆どが何も書かれていない。本というよりノートのようなものであることに気がついた。
白紙のページをめくっていくと、中数十枚に渡り、文字が書かれている。それはアポカリョプシスの言葉かと思ったが、まったく違う数字の羅列だった。
「……なんだろう、これ」
サイセイは自分の死を予感したときに、これを郵送したのだという。だとすれば、この数字にもきっと意味が合ってしかるべきだ。
数字の間には接続詞が書かれている。なにか単語がここに入るのだと予想される。しかしこの数字はなんだろうか。
その時はサイセイのもので比較的最近書かれたようだ。なんらかのメッセージとしか思えない。
ナユタがサイセイからもらったもの……。
「……あれしかない」
ナユタは立ちあがった。部屋の本棚に入れてあるのは、紅蓮から貰った本だ。その間に差し込まれているのは、サイセイがくれたアポカリョプシスの言語の自習ノートだった。字はあまり綺麗ではないが、整然と言語とその秋津国語の対比が並んでいて使いやすかった。
「数字はページ……かな、じゃあ下のほうの数字は、そのページ内での語句の場所」
ナユタは二冊のノートを持って寝台に向かった。
まず数字をアポカリョプシスの言語に置き換え、さらにそれを秋津国の言葉に翻訳しなければならない。
時間がかかりそうなことだったが、サイセイが遺した言葉ならば何日かかっても突き止めなければならないだろうと感じていた。




