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赤ーREDー  作者: 蒼治
一幕 ROSE RED
5/91

1-5

夜の帳は完全に落ちている。

 紅蓮が立ち去った後もナユタは眠りに落ちることができなかった。上等の綿が固くつめられたマットレスは腕の良い職人が作ったものであろうが、それをもってしてもナユタは落ち着き無く寝返りをうつばかりだ。

 結局町の全ての人が寝静まった時間にナユタはベッドから起き上がった。紅蓮が乗ってきた馬車には多くの葛篭も積まれていて、今まとっている夜着もそこから出されたものだ。さらりとした最上の絹を使った純白の衣類。村を出るとき、一瞬とはいえ、紅蓮のことを人攫いか何かではなかろうかと思ったナユタだが、どう考えてもナユタ個人にこれだけして元が取れるはずが無い。

 薔薇瞳信仰の教団が持つ莫大な資産の一端が垣間見える。

「そもそも、あんな派手な人攫い、いないよね……」

 紅蓮の美しい髪は、村を出て以来見ていない。それがとても残念だった。

 窓際の椅子にナユタは座った。閉じられたカーテンをわずかに開けると明日が良い天気であることが予想される星々が見えた。秋口とはいえ夜は冷える。ナユタは足をソファの上に持ち上げて服の裾の中にしまった。

「……」

 そして小さく呟いたのは、母を呼ぶ言葉だった。

 あの日朝には、何事も無く夕方が来て、夕飯のときに再び合うことを疑ってもいなかった。最後に何を話しただろう。

 そうだ次の春の祭りで新しく買ってもらう服の話を少ししたのだと思い出す。

 母が、その頃には良くなるから、一緒に一番近い町に布を買いに行きましょう、と。それはとても嬉しい言葉だったけど、言っている母も横で聞いていた父も、そしてナユタもそれはこのままなら難しいとわかっていたのだ。それでも、ナユタは笑ってありがとうと言って出た。

 その言葉で良かったのだろうか。

 多分もう、二度と会えない母への言葉を反芻する。それで納得することにした。今日、朝、ケンカや口答えしなくて良かったとそれだけを何かに感謝した。

 今となっては先に黄泉に向かったのはナユタということになってしまった。

 多分母は嘆くだろう……それが寿命を縮めることにならなければいいとナユタは願う。父は紅蓮のすることに文句は言わなかったけれど、ナユタと妻とそして村人を盾にされれば、反論は出来るはずがない。

 母と、そして遠からず一人になってしまう父のことだけが心配だ。

 すべてに対する不安、まだナユタもそれをうまく消化できる歳ではない。正確な年は知らなくて十五、六だと思っていたが、セツナが十七でナユタを妹だと話すなら、おそらくそれは当たりであったのだろう。

 まだ子どもと言っていいナユタに対し、紅蓮は情けと言うものがない。

 彼も大事なセツナが死の淵にあって、しかもその死は単に個人の死では終わらない。一大陸の勢力図を塗り替えるほどの重みのある死だ。なりふりかまっていられないのだろう。

「帰りたい」

 今まで呟いたらそれを認めることになって、怖くて口に出来なかった言葉がついて出た。そして声になったとたん、それはナユタの心に楔となって打ち込まれる。

 自然と涙が溢れた。

 ソファの上で膝を抱え、ナユタは声を殺してしゃくりあげた。

 今まで、作物の上手な育てかた、家畜の健康管理、そればかり考えてきたというのに、神都ではきっとそんなことには二度と接する機会がないだろう。読み書き計算くらいは出来るが、学問、といえるものには、あまり縁がなかった。

 都会だって行ったこともない。

 ナユタはのろのろと立ち上がる。ひやりとしたガラスに額を押し付けて村の方向を探したが、旅立って一週間、今自分が大陸のどこにいるのかもわからない状態では探しようも無かった。わかったところで村の光、たき火の煙一つ見えるはずもなかったがそれでもなにかを探してしまう。

 ナユタは窓の留め金を外した。がたりと音をさせて窓を開けると首を出す。外をきょろきょろと見回したナユタに背後から声がかかった。

「動くな」

 急に声をかけられてナユタはぎょっとする。身を捩って振り返ればそこに居たのは着替えてもいない紅蓮だった。ドアの閉まる音が今ようやくかすかに耳に入る。

「紅蓮?」

 いつの間にと驚いたナユタだが、不自然にねじった姿勢で、窓枠から手をすべらせた。光が入るよう大きくとられた窓、小柄なナユタなどつるりと夜の空気の中に滑り落ちそうになった。

 悲鳴さえ上げられなかった彼女の腰が乱暴につかまれた。

「何をしている」

 入り口に居たはずなのに、素早い動きで紅蓮はナユタを捕らえていた。そのまま雑に引き戻し、床に放りつけられてナユタはしりもちをついた。

「いっ……」

「逃げないと言っただろうが」

「に、逃げたわけじゃない!ただ外を見ていただけだもん!」

 紅蓮はふっと笑った。嘲笑と言っていい、ナユタにとっては大変、不愉快な笑顔。

「信じてない!?」

「どうでもいい。逃げても捕まえる。どうせそのうち逃げるだろうと思っていたからここにいた」

 この旅の間、ずっと紅蓮がナユタのそばを離れなかったのは、あの最初に出会った夜見の血族のように、ナユタを襲う何かを警戒していたのだと思った。しかし今の一言でそれが覆される。

 ナユタはカッと頭に血を上らせた。あまりに戸惑う環境変化で、さすがにおどおどしていたが、そもそもナユタも村では。

「人の言うことぐらい信じなさいよ!」

 ナユタは怒鳴った。そのまま一歩踏み出して大きく手を振りかぶった。

 深夜にも関わらず、乾いた音が紅蓮の頬に響く。

 避けようと思えば避けられたはずだ。紅蓮が平手打ちをくらったのはひとえにナユタに対する油断からだ。

「な」

 信じられないとばかりに一度手を頬にあて、そして紅蓮はナユタをまじまじと見た。

「なんだ……あんたは」

 孤児院育ちから村育ち。いくら領主がいい人でも悪ガキはどこにだっていてろくでもない言葉を吐いてくる。それを黙らせるのは、こちらの沈黙ではない。ナユタは彼らと対決して受け入れたり受け入れてもらったのだ。

「……男を殴る女があるか!」

「場合によりけりだし!」

 ナユタはあっさり崩壊した敬語にかまうことなく紅蓮をにらみつけた。

「こんな右も左もわからないような場所で逃げられるわけないじゃない」

 ぷいと顔を横にそらし、未だ残る涙をふり払う。ナユタを必要としているのにナユタを信じようともしない相手に、泣いているところなど見られたくなかった。

「信じなさいよバカ」

「バカ……薔薇瞳にあるまじき言葉……」

 紅蓮はきっとナユタをにらみつけた。

「セツナはそんなではなかった。夜見の血族や無茶を言ってくる王都の連中にこそ一歩もひかなかったとはいえ、普段は物腰柔らかくいつだって微笑んでいた。あんたのように声を荒げることなど一度もなかった」

「わたしはセツナじゃない!」

「『様』をつけろ!」

 知るもんかとナユタも彼を睨み返した。

「態度のことを言うなら、紅蓮こそ年頃の娘の部屋に入ってきてその恥じらいのない態度ときたら」

「あんたが年頃の乙女かどうかの論証から始めなければならないのか?」

「と、年頃……だ……よ?」

「……なるほど」

 そして紅蓮はマジマジとナユタを見つめた後、別の意味でさきほどよりよほど腹に据えかねることを告げた。

「その貧相な胸でもそう言うか」

 貧相……。

 本人も気にしていることを言われ、ナユタは一瞬言葉を失う。

「それにセツナはお前より拳一つは背が高いぞ」

「あ、姉なら仕方ないんじゃない。年の差が」

「腰なんて片手でつかめそうに細い。もう何年も前からそうだった気がする」

 反撃の糸口をうっかり失ったナユタはあらゆる意味でわなわなと震えている。紅蓮は肩をすくめて身を翻した。彼のブーツの硬い音が床を叩く。

「どこいくの」

 ドアのノブを掴んだ紅蓮は振り返った。

「年頃の乙女の部屋に長居するのも礼儀に反するだろう」

「……感じ悪い!」

「少し、セツナを思い出す」

 紅蓮は真顔で言う。声は弱さをはらんでいた。

「セツナも、強情だった」

 意図を聞き返そうとしたナユタだが、目の前でドアは小さな音を立てて開き、紅蓮はそのまま出て行った。

 ナユタはぷつりと何かが切れたようにベッドに座り込んだ。ぱたりと倒れこむ。

 真摯な怒りとやり場のない腹立ち、そして一抹の切なさ。

 紅蓮がとりあえず壮絶に態度が悪い相手だということはわかった。二度と言うことを聞くものかと思うが、彼のセツナへの思いは真摯だ。それを思うとなぜか罵倒を返すことができなくなる。

 十数年あっていない姉が今こんな形で因果のように関わってくることは不思議だった。

 だが今の騒ぎで窓を開ける前のあのやるせなさ、それは少し和らいでいた。気がつくとナユタはうとうとと眠りに落ちていった。




 翌朝は昨夜の星の数が示していたように快晴だった。

 馬車に乗り込んで空の明るさを見ていたナユタは、紅蓮が年配の男二人と一緒に歩いてくるのを見た。

「とにかく、決められた手順で燃やしたんですけど、心配で。あなたこの先に向かわれるのならぜひ神殿にお伝えしておいて頂きたいんです」

「……こんなに神都の近い場所で夜見の血族がうろうろしているのも怖い話ですよ」

 紅蓮が話しかけられているのは一人は宿の主人、もう一人はこの町の世話役のようだった。聞くとも成しにナユタはその話を聞いていた。

 どうやら最近この辺りで夜見の血族が死んでいるのが見つかったらしい。誰かが被害にあうことはなかったらしいが、神都に近いこの辺りで夜見の血族が跋扈しているとしたら確かにそれは教団にとっても不名誉な話である。

「わかった、王都に戻るついでに神都にも寄って伝えることにしよう」

 紅蓮は旅行中の貴族の姫……ナユタを伺うように馬車の中をちらりと見た。そのまま自分も運転台に乗り、馬に鞭をくれた。

「よろしくお願いしますよ」

 そんな二人の声が聞こえた。ナユタは小窓を開けて紅蓮に話しかけた。

「夜見の血族がいたの?」

「ああ、しかしもう死んでいたらしい。守護団の誰かに致命傷を負わされてここまで逃げてきたものの絶命したか」

「強いのね、守護団って」

「セツナが鍛えた。しかし、神都に肉薄するとは不愉快だ。守りをもう少し固めなければならないな。しかし、最近、夜見の血族の動きがやけに目に付く……」

 もしかすると……と、紅蓮は続けた。

「やはりセツナがまる一月もみなの前に出ないことが、彼らを調子付かせているのかもしれない。薔薇瞳が我らの手元にいるかいないかで、守護団の士気も違う」

 紅蓮はまっすぐ前を向いているので、ナユタの目には彼のフードしかうつらない。

 いけ好かない男だが、彼の赤い髪は文句なしに美しいと思ったナユタは、彼の髪が見えないことが少し残念だった。

「見えるか」

 しばらくの沈黙の後、紅蓮は珍しく自分から話しかけてきた。はっと顔を上げたナユタの目に目を射抜くような光が走った。

「何?」

「あれが神都、神殿のもっとも高い塔だ」

 果てなく続くように見えた草原と林に挟まれた道の向こうに何かが輝いている。まだほんの一部分だけのかすれたような仄かな光。

 白く清浄な光。

 淡いにも関わらずまるで手につかめそうな確かなものに見えた。

「あれが」

「もうしばらく行けば神都が見えてくる。王都に匹敵する華やかな都だ」

「そこに」

 ナユタの言葉は馬車を操る紅蓮には聞こえなかったらしい、ナユタはもう一度叫ぶようにしていった。

「そこにセツナがいるのね!」

 ひやりとした風が走っているが、ベールで顔を覆い隠したナユタにはそれは感じられない。都はまだ欠片しか見えていないのに、大きくナユタを飲み込みそうに見えた。

 美しさより不安が先に立つ。

 ナユタはただ、自分の血縁がいるということだけがよりどころだった。

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