3-8
「ちょっと町まで行ってくるけど」
サイセイが言い出したのはの午後だった。
ナユタが王都から戻ってきて、丸二日たとうとしているのに、ナユタは部屋から出てこようとしない。具合でも悪いんじゃないのかとラジューは訴えてみたが、リョウもサイセイもなんだかけろりとして気にかけてくれない。
「何しにいくんだ?」
リョウが居間に顔を出しているサイセイに問いかけた。
「郵便出しに行ってくる」
「あら、じゃあ私も一緒に馬車に乗ってもいいしら」
オリエが手を上げた。
「香辛料が足りなくなってきたから。すぐに戻ってくるのでしょう?」
「ええ、小包を出すだけです」
そんなのんびりとした会話をして、サイセイとオリエは出かけていった。残ったのはニキとリョウだ。結局居間からでて、ラジューはサイセイの部屋に戻った。
指定席の窓際の張り出しに座り、これもまたいつもの楽器を手にする。けれど弾く気にはなれなかった。その代わり耳を打つのは、絶え間なく続く水の音。屋根に積もった雪が久しぶりの日差しに解け、地面を叩いている。
背に当たるガラス窓から入る光は柔らかく、ラジューの肩を温めていた。
どれほど考えても納得のいく未来は思いつかなかった。
ナユタが部屋からでてこないことに苛立ちながら、ラジューはそれでも彼女を嫌いに慣れなかった。自分がなにかしでかしてしまったのだろうかと思い悩み、まさか考えていることを気がつかないうちに口にしてしまったのではないかとうろたえている。
ナユタに直接尋ねることができない事がつらかったが、皆の居る前で聞くことはためらわれた。そして彼女が出てくるのは食事時だけだ。結局面と向かって聞くことが出来ない。
そうこうしているうちに、リョウがオリエと一緒に荷物を少しずつまとめているらしいということも感づいてしまった。
迫る別れを食い止めることができないまま、日々は流れてしまうのだ。
旅を続けるべきだと叫ぶ冷静な自分もラジューのなかには存在している。このまま続ければいつか夜見の血族と人の断絶を補うことの出来る方法が見つかるかもしれない。自分とナユタが一緒に生きることは叶わなくとも、ラジューの残した何かが、別の時代の誰かを救うかもしれない。
最初に求めていたものは、そうした崇高な可能性だったはずが、宝を目にすれば容易く我が物としたくなる卑しさが我ながら情けない。
「卑しい、が」
ラジューがため息をついたときだった、控えめに入り口の扉が叩かれた。特に考えもせずにどうぞと答えたラジューは、その足音の軽さにはっとした。
「ナユタ?!」
「ラジュー、入っていい?」
彼女が声を出すより早く当てた自分が誇らしかった。
陰りばかりのラジューの視界の中を横切ってくるのは、確かに見慣れた大きさのおぼろな影だ。
「久しぶりな気がします、ナユタ」
ラジューの言葉にナユタは軽く笑った。つい口に出しそうになったすねた言葉を、飲み込んでよかったと思える素直な彼女の笑い声に、ラジューは和んだ。
「そうね」
ラジューの横にいつものように彼女は腰掛けた。触れないだけの距離は残されているが、その間の空気は温まる。
「どうしたんですか?具合でも悪かったんですか」
それを尋ねないのも不自然だろうと、ラジューは率直に口に出した。
「そういうわけじゃないんだけど」
歯切れの悪い言葉のまま、ナユタは続きを発しない。
「ナユタ」
「あのね!」
何かにはじかれような唐突な言葉だった。ナユタの影がわずかに動く。気がついたら、ラジューの首周りにはなにか柔らかい触れ心地のものが巻きつけられていた。
「これ作っていたの。時間がなかったから」
「ナユタ、これは?」
ラジューは自分の首周りに触れる。どうやら上質の羊の毛で作られた編み物のようだ。
ナユタの声は恥ずかしそうに語った。
「これね、この間王都に行った時に買ったの。オリエとニキのお土産にしようと思って、紹介された羊毛を取り扱っている店に行ったの。王室ご用達なんですって。ドレス製作者しか出入りできないんだけど特別にって。わたし、あんな光景始めて見た」
ナユタの声はその時のことを思い出したのか高揚が含まれていた。
「天井まで届くくらいの壁一面の棚に、布とか毛糸とかがたくさん詰まれていて色とりどりでまるで無数の虹みたいだった」
「そこで、二人へのお土産を買ったんですね」
「うん、二人には毛糸玉を」
ナユタは、ラジューを見つめた。
「でも見ている時に、これ、見つけたんだ。すごく綺麗な色」
呟くように行ったナユタは、慌てて言い直した。
「ごめん、ラジューは見えなかったよね。これはね、すごくいい羊の毛。なんか私達が普段見につけるものとは、羊の種類が違うんですって、山岳地方遊牧民が連れている羊の毛なんだって」
「道理で触れた感じがいい」
「そう、すごく柔らかいの。多分、真冬でもこれをまいているとあったかいと思う。これ見たときに、ラジューに似合う色だなあって思ったんだ。あのね、春の空の色みたいな、目を引くのに優しい青なんだ。水色かな。ラジューは肌も白いし髪も光みたいだから似合うと思った」
「どうでしょう」
「うん、綺麗、すごく」
ナユタはその先に触れた。
「編んだのは私なんだ。まだうまく編めないんだけど、でもどうしてもラジューにあげたかったらから」
「ナユタが編んだんですか?」
ラジューは毛糸の襟巻きの端っこをいじっているナユタに驚きの声を向けた。
「うん、だから大急ぎ、わたし、いつ帰らないといけなくなるかはわからないの。どうかなあ、あ、あのね気に入らなかったらいらないでもいいんだ」
ナユタは慌てて言い直す。
「急ぎすぎてちょっと目をとばしちゃったしたんだ。えへへ。こことかね。だからちょっとぽんぽん飾りつくって隠しちゃった、邪魔かなあ……」
ぽんぽん飾りも目のとんだ場所も、ナユタに示されるまでラジューにはわからない。
わからないことばかりだが。
ラジューは一生懸命言い訳しているナユタを見つめた。
「下手だから外套の外に巻くのが嫌だったら服の下につけてもいいと思う。羊はすごくいい羊だからちくちくしないよ?」
羊のことばかり褒め称える彼女へ愛しさが押し寄せた。
それを押しとどめる冷静さはすでにないまま、ラジューは彼女の頬に指を伸ばす。
「ラジュー?」
彼がナユタの顔に触れたがるのは、今に始まったことではない。見えぬものを探ろうとするかのように、彼はナユタに触れたし、時に頬を摺り寄せることもあった。
そこに親愛の情を見つけてしまっているらしく、ナユタはそれを拒むことはなかったが、今日の彼の鬼気迫るほどの真摯さに、彼女は恐れを感じたようだった。
ラジューは横に座ったナユタを引き寄せ、自分の胸に抱きとめた。ナユタの頬に手を置いて、じっと見つめる。
「僕は見ようとしても、あなたの顔さえ見えない」
「ラジュー?」
ラジューはナユタの額に自分の唇を下ろした。それはナユタの目に流れ、思わずぎゅっと閉じてしまったまぶたの上をすべり頬まで降りる。
空気が変わる。
「この有様ではあなたを守ろうという自分の意思も戯言だ」
「ラジュー、ねえラジュー!」
ナユタの呼びかけには焦りがある、ラジューの思いつめた何かを感じ取っているのだろう。
ラジューはナユタをさらに引き寄せ、彼女に口付けた。
とっさに押しのけようとした手を、手首をつかんで拘束した。引き寄せている手がナユタの首筋をつかんで頭を固定しているため身動きできない。
それはすでに親愛や恋慕を超えていた。押し入ってきた舌にナユタは驚いたようだ。今まで彼女は誰かと唇を合わせたことなどないのだとラジューは知った。それなのに、いきなりあまりにも官能の色濃い口付けをされては、ただ戸惑うしかできないだろう。
こわばったナユタの舌にラジューは自分の舌を絡ませた。うまく息もできないナユタはくぐもった声をあげる。その抗議を無視したラジューはなおさら何かを煽られ探るようにナユタの口内を舌でまさぐる。
まだ幼さが残るナユタから情欲を引きずり出そうとするような強引な口付けだ。ナユタはそれでもなんとか顔をずらした。
「やめてラジュー!」
「やめません」
逃れようと暴れるナユタを腕の中で押さえつけ、彼はナユタの額に頬に唇を落とす。ナユタの輪郭を確認するように。
耳朶を食むとナユタの背がこわばった。その反応が楽しくラジューは繰り返す。
「ラジューどうしたの!」
不規則に声を弾ませながらナユタは彼を押し返そうとする。全身の力を込めているが、弱体化した夜見の血族であるラジューとはいえ、一人前の男くらいの腕力は持ち合わせているのだ。
ナユタの頬は、春の日向のような温かさを帯びていた。血肉の通ったそれにラジューのどこかで飢餓感が頭をもたげたが、それは上回る恋の激情にかき消された。
もがいたナユタが、窓際から転げ落ちたのはそのときだ、逃すまいとしたラジューも重なるようにして床に落ちる。とっさに差し出した手はナユタの首の後ろに回され、床の上でも彼女を拘束した。かすかな音と、脇の本の山が一つ崩れた気配がした。けれどラジューはそれには無頓着だ。
ほとんど盲目の彼が把握できる限られた世界。
いまそれは腕の中のナユタが唯一だった。彼女の姿は見えないが、腕の中に収める。
「ラジュッ……」
別荘の中は静かなままだ。オリエとサイセイは不在。今の時間ニキは暖炉の前で編み物をしながら少しうつらうつらしている。リョウはそんな彼女に話しかけながら本でも読んでいるのだろう。
「僕はあなたが好きです」
今この別荘中の静寂からはかけ離れた情熱的な言葉を、下のナユタに注いでいる。まるで夢のようだとさえ思うのは、あまりにも夢に見すぎたからか。
飢餓と執着。なにはともあれナユタに対する独占欲にまみれた数々の夢。その夢は、見るたびにナユタの顔は違っていた。結局顔などどうでもいい。今、彼女はどんな表情なのかだけが気になる。
「わたしもラジューのことは」
「好きで居てくださってますよね、わかります。でもおそらくナユタと僕の気持ちには少しばかり……埋めようのない隔たりがあるんです。ナユタはまだよくわからないかもしれない……わかっていてその態度なら大したものですけど」
見えなくてもわかるのはナユタがおそらくぽかんとしているであろうということだ。それが苛立ちを誘う。
ナユタの手は、ラジューの腕を掴んでいた。服を握る力が強くなった。
「ラジュー、ごめんなさい。なにか怒っているの?」
「怒っていません。あなたがあまりにも無頓着なことに腹を立てているのは僕の勝手です」
結局はっきり言うしかない。言ったらはっきり断られるであろうことは怖かったが。
「僕はあなたとこれから先、一緒に居たい。別れたくない。ナユタ、一緒に行こう」
それがどれほどナユタにとって予測していなかった言葉であったかは、抵抗さえやんだことでわかった。せめて少しぐらい考えていてくれれば自分も救われたのに。
「一緒に……って」
「嫌ならそれでもいい。連れて行くだけです」
「どこに」
旅を続けるのか、夜見の血族に戻るのか、サイセイとさえ別れて彼女を略奪するのか、まだ考えはまとまっていなかった。
「わからない」
「だめよラジューそれは無……」
困惑だけが押し込まれたナユタの言葉を封じるべく、ラジューは自分の体で彼女を押さえつけ口付けた。
「拒絶は聞きたくありません」
頬に触れた手を下ろす。顎の線を撫ぜるようにしておりた先には、ボタンで詰まった襟元があった。指で確認しながらそれを一つはずした瞬間にナユタが身を固くした。
「ちょ、ラジュー!」
ナユタは全身を捩る。ラジューは自分を押しのけようとするか細い手首を掴んで床に押し付けた。ナユタが息を飲むひきつったような声がした。
さすがにナユタもラジューの意図がわかってきたらしい。実際何をするのかは知らなくても、そういった行為が存在することぐらいは知っているのだろう。
「嫌、ラジュー。放して」
それでもナユタは声を荒げない。戸惑うようなかすかな声で拒んではいるものの大声をだしたりしていない。
ふとそれに気がついたとき、ラジューは殴られたような衝撃を感じた。
この期に及んで、ナユタはラジューを気遣っているのだ。
居間から離れているとはいえ、大声で叫べば、間違いなくリョウは異変に気がついて飛んでくるだろう。けれど、そのときラジューに向かうリョウの怒りをナユタは恐れている。もともとリョウは夜見の血族のであるラジューとは一線を引いている。なにか有ったらすぐさま彼を放り出す。いやそれだけならまだしも、ラジューを問答無用で斬り捨ててもおかしくない。
自分が不用意に叫ぶことでおきる先のことをナユタは予測していた。
「……僕を気遣っているのですか。リョウが来ると思って」
ナユタの沈黙はおそらく肯定だ。
「余裕ですね」
ラジューは床に押し付けたナユタに笑いかけた。陰りをはらんだ苦悩をもう隠しもしない。愛しい人に、恋されもせずただ哀れまれているという事実は、ラジューの誇りに近いものを打ち砕く。
ラジューの貪欲な恋心、それ自体には罪はなく、ナユタの無知な優しさにも悪意は含まれて居ない。けれど、今、この瞬間でラジューの人に似た優しさは、その一角を確実に損なったのだ。
「抱きますよ」
少し開いた襟元から探ったナユタの細い首筋をラジューはきつく吸い上げた。痛みを感じてナユタは呻く。
「僕とあなたがこの部屋で話し込んだり本を読んだりすること事態は別に珍しいことじゃない。このままじゃリョウはきっとわざわざここまできたりしませんよ。いいんですか」
どこかでナユタが叫んでくれればいいのにとラジューは思っている。
そうすれば、あとの決着はリョウがつけてくれるだろう。自分の運命を人に委ねるのも悪くない。あるいは破局間際となれば自分も別の道が開けるかもしれない。ニキを贄とし、リョウを殺してナユタをさらうのも。
それはそれで悪くない。
「ラジュー」
ナユタの声はかすれていた。
「ごめん」
はっと気がついたときには、ラジューはこめかみに恐ろしい衝撃を受けていた。ぐらりと不安定になったところで、ナユタがラジューの腹を蹴り飛ばす。
「ナユ……」
その隙をついてナユタは彼の下から這い出していた。
力なく押し返す手がいつの間にかなくなっていることに気がつかなかった。彼女は脇の崩れた本の山から、持てる限りの重い一冊を掴んでラジューの頭に叩きつけたのだろう。
床にうずくまったままのラジューの耳に、ナユタの荒い呼吸が聞こえてきた。
「ごめんなさい、ラジュー。あなたが好きよ、こんなふうにされても嫌いじゃない。でもわたしはけして、なにがあろうともあなたと一緒には行けない」
ナユタはともすれば叫びそうになる自分を抑えるように、奇妙に抑揚のついた声で言う。まるで泣きそうだとラジューは思う。
「ごめん」
ナユタは彼を責めることなく、部屋を飛び出した。そのまま居間には向かわず、自身の部屋に走っていく足音が聞こえた。
「ナユタ」
立ち上がったラジューは結局膝の力が抜けたように床に座った、顔を撫で下ろした手の先で、柔らかいものが触れる。
もらったばかりの襟巻きは、こんなことがあったというのに相変わらずの温かさだ、その間を読まない温かみがナユタを想像させて、ラジューは、ついに頭をかかえた。




