3-7
あの明るい声で、ナユタがただいまと帰ってきた声を聞き、ラジューは安心すると共に、落胆する自分を知った。
彼女が明るさを取り戻していることはいい。しかしそれは別れの日がどんどん近づいているということに他ならない。
夕刻に帰ってきたナユタは、オリエとニキに、色鮮やかな絹糸や布、毛糸を渡していた。その色合いをラジューは見ることができなかったが、二人の喜びようからして想像は出来た。夕飯を六人で囲みながら、ナユタの話す王都の話を聞くのは確かに楽しかった。
それでもやはり別れは近づいているのだ。
「顔がこわばっている」
深夜自室に戻ってから、サイセイが声をかけてきた。
「え?」
「もっとごまかしたらどうだ。それじゃリョウが気がつく」
自分がナユタとの別離を悲しんでいることを、隠しきれていないのだと指摘され、ラジューはうつむいた。
「リョウに気がつかれるとまずいですか」
「まずいよ。リョウとナユタは仲がいい」
サイセイは淡々としている。
「リョウはナユタが私達と一緒にいくことをけして認めないだろうね」
「それはサイセイのせいじゃないですか?」
冗談めかして言ったが、おそらくそれも本心が見え隠れしてしまったと、言った瞬間ラジューは後悔した。
「ああ……まあそうだね」
サイセイは苦笑する。そこには確かにある程度諦観した響きがあった。
サイセイもリョウと離れ難く思っていたことを、ラジューは気がついていた。けれど彼は彼女と共に在る未来を、すでに選択肢からはずしている。
「リョウは連れて行かないのですか?」
「うん」
サイセイはそれを終わったこととしていた。
「あんなに未練があったように見えましたが」
「私の未練は彼女の未来とは関係ない」
サイセイのその言葉は偽りなく、彼自身がそう決着つけたとわかる。
リョウがサイセイと一緒にくれば、ナユタもついてくるだろうと一抹の望みを託していたラジューはそれがなくなったと知った。
サイセイとリョウの問題は少なくともかたがついた。ならラジューのナユタへの気持ちも結局ラジュー一人で解決しなければならない。
ナユタと共にここに残ってもいいと、サイセイは言う。しかしそれはナユタの庇護下にあるということだ。
自分は。
ラジューは自分の気持ちを量る。
自分はナユタに守られたいのではない。守りたいのだ。
エィディアロメラに再会したことはサイセイにも誰に言わなかった。彼女が自分になにをどれほど期待しようとも、それに惑わされる必要はなく、ならば会っても会わなくても一緒だからだ。
エィディアロメラの期待は重い。何年も、出奔して行方知れずだったのに、どうしてそんなに自分に期待できるのだろうか。
しかしバルナバレグドが、治世らしいことをしていないという報告は気になる。この屋敷にしのびこんだ強盗も、屍者を連れていた。もしかするとその混乱の犠牲者だったのだろうか。あんなものがうろうろする世界では、薔薇瞳と守護団をもってしても世の平和を守りきれないだろう。そんな世界にナユタを置いていくことは恐ろしかった。
守れもしないくせに、彼女が自分の目の届かないところでひどい目にあうことを恐れるなど思い上がりもはなはだしい。
「そろそろ真剣に考えた方がいい」
「ああ」
サイセイに気持ちの入っていない言葉を返す。
明日また、朝になってナユタを見れば、安心できるかもしれない。冷静になって、彼女は人の世界で生きていくのだと認められるかもしれない。
ラジューはとりあえず思いつめている自分を自覚するだけの余裕があったことに安心した。
と、扉が叩かれた。
「サイセイ、ラジュー」
この部屋には珍しい声だった。
「どうしたんだ、リョウ」
サイセイも驚いている。
「王都でなかなか手に入らない酒を見つけて購入してきた。どうだろう。ラジューもこれなら口にするだろ?」
ちりんと金属の杯が彼女の手に中で鳴った。
エィディアロメラは明るい光が漏れるその屋敷を雪の中から見ていた。
アーヴルラジュー様。
寒さなどどこか遠い国の出来事であるかのように、エィディアロメラは立ち尽くす。氷でできた人形のようだ。
アーヴルラジューが夜見の血族に戻ったとして、はたして本当に名君となるのか、それはエィディアロメラにもわからない。一ついえることはバルナバレグドよりはマシだろうという程度だ。
夜見の血族にいたころ、アーヴルラジューには優しくしてもらった思い出しかない自分の目が確かなものか、彼女に自信はなかった。
けれどアーヴルラジューは他者の話を聞く度量はあった。あまりにもその度量がありすぎて結局夜見の血族としての常識が歪められてしまったが。それでも彼を待ち望む者は自分以外にもいるだろう。
彼を人の世に縛り付けている未練とはなんだろうと、エィディアロメラは考える。
旅を一緒に続けていたという男の存在は確認した。しかし、今ここに留まっている意味。帰宅が遅かったためと顔のベールのせいで、一体何者かはわからなかったが、昨日二人若い娘が入っていくのを見た。
あれが原因かもしれない。
彼女らを始末すれば、アーヴルラジューは戻ってくるだろうか……否、大事にしている人間を傷つけられるのは面白くないだろう。
では彼らを守るためには夜見の血族に戻らなければならないという選択肢を作るか。
エィディアロメラは自分の考えに肯いた。
アーヴルラジューは自分を数十年前と変わらぬと思っている。ただアーヴルラジューを慕って、その善意でここにいると。
そんなおちびちゃんではない。
バルナバレグドこそが、エィディアロメラの弟の死の原因である。
バルナバレグドに悪意はない。ただその一瞬が楽しければいいという享楽が全面にあるだけだと彼女は思っている。その性格をエィディアロメラは嫌悪した。だからバルナバレグドもエィディアロメラを嫌っている。
戻ればバルナバレグドはまた面白半分にエィディアロメラを苦しめるだろう。
もう限界だ。アーヴルラジューを巻き込んでも、バルナバレグドを失墜させる。手段は問わない。
エィディアロメラはそのための道具を探しに行く。
彼女の足音は、野うさぎのもののようにささやかだった。
リョウの買ってきた酒は非常にアルコール度数の高いものだった。それだけでは喉が焼け付くので、リョウは庭から皿に山ほど雪を積んできていた。
「なんか贅沢だな」
「なんで?」
「真冬だというのに炎を入れた暖かい部屋で、こんな冷たい酒を飲んでいるということが」
「夏は雪がないから、今だけの贅沢だよ、サイセイ」
リョウは雪を押し込んだ杯にその琥珀色の酒を注いだ。よく見えぬラジューにしっかりと手渡す。
一瞬、祝すべきなにかのための言葉を考えようとしたリョウだが、それは途中で自ら遮った。小声で乾杯とだけ告げる。
「あ、これはすごくいい酒ですね」
「だろう」
本だらけの部屋の一角に椅子を寄せ、三人は集っていた。自分の趣味を褒められてリョウは得意顔だ。
「しかし」
ラジューは見えぬ目をリョウに向けた。
「一度聞きたいと思っていたのですが」
「なんだ」
「リョウは、何者なのですか?その言葉遣いと態度ではとてもどこかに嫁げるようにも嫁いでいるようにも思えない。かといって、どこか女中や家庭教師で日銭を稼ぐにはガラが悪すぎる。その一方で立ち振る舞いは恐ろしく優雅だ」
「優雅なんてよくわかるな、見えないのに」
「見えなくても足音でわかります」
「そりゃどうも」
横でなんと答えるのかという不安そうな顔をしているサイセイを無視して、彼女はあっさり答えた。
「用心棒だよ」
彼女はためらいなく言葉を続ける。
「じつはああ見えてナユタはちょっとばかり高貴な人なんだ」
さらりと答えたが、それは肝心なことは何も言っていない。そしてそれ以上を聞くなと言う響きを持っていた。
「守る相手が女なら、下手な男より私のほうが身近にいられる分役に立つ」
「なるほど」
ラジューはナユタのことよりもリョウの正体が用心棒だということにいたく納得したようだ。
そのままいくつか杯を重ねて話を進めているうちに、サイセイが言い出した。
「ちょっと私はもう眠くてたまらない」
そういって程なくして暖炉の前の長椅子に移動し、そこで眠り始めてしまった。
「なんていう寝つきのよさだ」
リョウは彼の姿をみて感嘆している。そしてラジューを振り返った時に、彼女は核心をついてきた。
「ラジュー。ナユタを諦めろ」
ずばりと何一つ包むことのない言葉だった。傷つくより先に、ラジューは彼女の真摯さに胸打たれた。
「何を」
しかしラジューは表情を隠した。もともと読み取りにくい顔だちのラジューは自分の気持ちを隠すことも本当は得意だ。
「ナユタと一緒にこの先を過ごすことはおそらくとても難しい」
「……僕がそう望んでいるとあなたは判断するのですね」
「そう判断せざるを得ない」
お互いに声は低く、荒げることはない。しかし部屋の温度がさがるような言葉と表情だった。
「私は今は、ラジューを気に入っている、信頼すると言い切れないのは、残念ながらラジューが夜見の血族だからだ。すまない。だから、本当は一緒に来るかと尋ねたいが、ナユタにも今のお前を守りきることは難しい。精々匿うくらいだ。でもそんな自由のない人生を、お前は望むのか」
「……望みません」
リョウは迷わない。
けれどラジューは言葉の一つ一つに迷っていた。
本当に自分は望んでいないのか。
「だから、お前とナユタは一緒にいられないだろう。それをわかっているかどうかを確認したかったんだ」
「もし諦めきれないとしたら」
「でもラジューも人生を変えたりしないだろう?」
リョウは狡猾だと思う。
彼女の言葉は基本が問いだ。
そしてラジューの言葉を引き出そうとする。求めているものは彼自身の納得だ。ラジューが自ら「ナユタを諦める」と言うの待ち構えている。
自分で決めて発した言葉の強さを彼女は知っている。
「私とナユタは間もなく、自分達の居るべき場所に帰るつもりだ」
沈黙してしまったラジューを待っていたリョウだが、やがて諦めたように言った。
「その時にはできれば笑ってナユタを見送ってほしい」
一瞬、ラジューは今まで感じたことのない感情に襲われた。ああ、これが嫉妬なのかと気がついて、名がついたそれに納得した。
ナユタと一緒にいることが当然の事実であるリョウが憎かった。彼女は女であることは関係ない。自分はナユタの元を去る。けれどリョウは彼女に寄り添うのだ。
彼女の血を食らえば、その立場はいくらでも変わるというのに。
思い立った自分の考えはとても正面から見ることができなかった。
サイセイは暖炉に向かい、二人に背を向けて眠っているようだった。しかし、その目は薄く開かれている。二人の会話を聞き、彼は確かに何かを予感していた。
それでも翌朝には、ラジューは昨日の自分の思い付きに恐れをなしていた。リョウはナユタの友人であり、今となってはラジュー自身の友人といってもいいのだ。その相手に対してそんなふうに思うとは。
ナユタに会いたいと、ラジューは朝が早かった。
彼女が横で笑っている限り、ラジューのなかにあるなにかどろりとした濁ったものも、ナユタの温かみで、不思議と春の沼のように優しく光るように思えた。
しかしその日、ナユタはなかなか居間に下りてこなかった。昨日、深酒したリョウでさえ、日が高くなったころにのこのこ出てきてオリエに叱られているというのに。
「ちょっと様子を見てきます」
ラジューがそう言うと、ニキはおかしそうに笑って言った。
「あまり起こしてあげないほうがいい。昨日、遅かったみたいだから」
謎めいた彼女の言葉に苛立ちつつナユタの部屋の扉を叩くと、しばらくおいてナユタが出てきた。
「ラジュー」
声からしてまだまだ眠りたそうだった。
彼女が帰ってきてから一度もまだ二人で話していない。
「釣りとか散歩とか行きませんか?」
「ごめんねラジュー。まだちょっと眠いんだ。あと今日はやることあって忙しいの」
寝ぼけたような声で、丁寧に断ると、ナユタは扉を閉めてしまった。
彼女に悪意はないとラジューは知っている。
だからこそ、その拒絶が堪えた。




