1-4
神殿のある神都までは、馬車でおよそ一週間の長い旅であった。
ナユタと紅蓮、ただ二人のひっそりとした旅行となった。泊まる先々でやむを得ないときは、王都の貴族の娘のやんごとない事情による旅であると、紅蓮は宿のものにほのめかしていたようだった。
ナユタは深くつばの広い帽子をかぶり、さらにベールまでかけてその目を隠していた。紅蓮も濃い色つきの眼鏡をかけ、髪は長いフードの下にまとめている。
そしてナユタは紅蓮との距離を測りかねていた。
日中、彼はひたすら馬車を操っているだけである。夜は夜でナユタは部屋に一人だ。紅蓮はその前で番をしているらしいが、ドアをはさんで二人が語り合うことはなかった。
なぜなら。
ナユタは、自分自身に対する紅蓮の困惑をひっそりと感じ取っていた。
父の前では礼を尽くした態度であったが、夜にまぎれるようにして家を出て、二人きりになったときから、紅蓮は不機嫌な顔を隠さなくなった。
必要な事以外、彼は一言も話そうとしない。なにより目を合わせようとしない。もともと表情のわかりにくい彼だ。目を見て話したところで彼が何を考えているのかはわかりかねただろうが。
ナユタも彼の困惑の理由を知るのがためらわれ、二人の旅はほぼすべて沈黙で支配されていた。
沈黙でも我慢できたのは、旅そのものがナユタを惹きつけたからだ。
物心つかないような頃はともかく、村から出たことさえなかったナユタにとっては、馬車の窓の外の景色は見たこともない風景の連続だった。それは確かに感動と言っていい感情をナユタに与えた。
だからといって、そんなものですべてごまかされるほどナユタは子どもではない。
旅の最後の夕刻、
「では明朝。明日は、神都につく」
必要最低限の言葉を残して、紅蓮はナユタの部屋のドアを閉めようとした。そのドアをナユタは思い切って手で押さえてみた。その抵抗など物ともしないはずの力がある紅蓮だが、ナユタの表情にドアを閉める手を止めた。
「お、お話をまだ聞いていません」
ナユタは彼の研ぎ澄まされたナイフのような顔立ちを見上げた。端正ではあるが、隙のない彼の顔立ちには、見とれるどころか目をそらしたくなる気迫がある。
「話?」
「わたしがどうして身代わりなのかってことです」
話もそこそこに旅立ったものの、ナユタはどこかでもっと詳しい話が聞けるのだろうと思っていた。父にもこれ以上の詳しい事情を知ることはあなたのためにならないとして語らなかった紅蓮だが、当事者であるナユタには話してくれるかと。
結局黙っていては聞けそうもないと悟るまで随分日を費やしてしまったが。
「それは明日、神官長が話してくれるだろう」
「それでもわたしは都に行く前に知りたいんです」
「話すな、ということになっている。どこから情報が漏れるともわからない」
「嘘です」
ナユタはじっと彼を見た。
「わたしが逃げるんじゃないかって思っているんでしょう」
旅の道中、一人で沈黙していたナユタは単に景色を楽しんでいただけではない。考える時間は十分あった。
「どうせ逃げられっこないじゃないですか。それならちゃんと話してください。薔薇瞳様がわたしの姉だというならなおさらです。わたし、今まで育ててくれた両親を一番大事に思ってます。産んでくれた親に恨みとか感じているなんてことも、もう今更です。でも姉がいるのなら……それはやっぱり嬉しいことだから」
「……嬉しい?」
紅蓮は皮肉っぽく口を歪めた。
「産みの親のほうがまだマシだろう。母はお前に何もしなかったが、姉は間違いなくお前をごたごたに巻き込んだんだ」
「そのごたごたがわからなきゃ、恨みようもないじゃありませんか!」
「声が大きい!」
「話してくれなかったら大声で薔薇瞳って叫びます」
ナユタは一歩踏み出し、紅蓮の黒いマントをつかんだ。渾身の力、けれど子どもっぽい動作に一瞬紅蓮は目を落とし、ナユタの小さな手を見た。
「このガキ……」
紅蓮はため息を付いた。
「……手短に話す」
ナユタを押しのけるような乱暴な動きで、彼は部屋に入った。閉めたドアに寄りかかる。宿の部屋は町で一番いいものらしく、美しくしつらえてあった。この数日間全てそんな様子の部屋ばかりで、ナユタはむしろ落ち着かなかったが、彼はこの程度の調度は見慣れているようだった。
「座れば」
「いい。あんたは座れ」
ようやく慣れてきた重いドレスを引きずってナユタは部屋のソファに腰を下ろした。村にいるときは裸足が多かったくらいなナユタにとって、かかとの高い靴はひどく足が痛む。
「……セツナ様が病に倒れられたのは、半月前の話だ」
意識して聞き取ろうとしなければ聞こえないくらいのひそめられた声だった。
「そうなんですか……?」
「まああの村では神都の噂は聞こえまい、だが都ではその話で持ちきりだ」
「お具合悪いんですか」
ナユタの質問は、紅蓮の心にある傷に触れたらしい。彼は表情こそ変えなかったものの、声が一瞬だけ震えた。
「悪い……というか、かろうじて生きているだけという容態だ」
「……そんな」
ナユタを持ち出すくらいだ、相当状況は悪いのだろうと薄々察していたが、紅蓮の表情を見ると察したこと以上の悪さだったらしい。
「おそらく長くは持たないだろう。しかし、それを公にするわけにはいかない。薔薇瞳の後継者は今は誰もおらず、従う魔犬は俺以外いない。薔薇瞳の従者は一人の薔薇瞳にしか仕えられない。俺はあんたの従者にはなれないんだ。今セツナに倒れられたら夜見の血族は一気に反撃に出てくるだろう。セツナが奇跡的に回復するか、あるいは魔犬が他に現れ、あんたの従者となるまでは、薔薇瞳セツナの息災を示し続けるのが最も得策だ」
それゆえに、身代わりということはけして知られてはならいない、と紅蓮はそこをもっとも強く言った。
「……なんでわたしのことを知ったの?」
「……姉のことを覚えているか?」
紅蓮はふいに話を変えた。
「覚えているかって……」
ナユタは彼を見る。
「……姉のことはよくわからない。でも、小さいとき、いつも一緒に遊んでいた女の子はいた……かも……。セツナ様は、わたしを妹として覚えていたんだね……」
「セツナはずっと覚えていた。自分自身によく小さな妹のことを語っていたんだ。俺には」
「あなたとセツナ様は仲が良かったの……?」
「……」
紅蓮は何も言わない。けれどその無言こそが肯定だ。彼らは語ることさえ出来ないほどの深い絆を持っていたのだろう。もしかしたら、恋人同士だったのかもしれないとナユタに思い当たらせるほどの沈黙だった。
「セツナが倒れ、我々は本当に困っている。病と言ってごまかすのも限界だ。あんたに過剰な期待はしない、ただ微笑んで民衆に向かって手を振るくらいでいい」
その言葉はすこしばかりナユタを苛立たせた。
「まるでわたしにはそれくらいしか出来ないみたいな話し方ね」
「無理だろう、あんたには」
紅蓮はおそらく親切で言ったのだろう。ナユタに過剰な緊張を与えまいとして。しかし思いやりから出た言葉でも失礼は失礼だった。
「セツナは、五歳のときから高度な教育を受けている。並みの女が学ぶ量や種類じゃない。帝王学に近い。それだけでなく近隣諸国の言語、兵法、法律、剣術だって習うんだ。いくら顔が似ているからと言って、それだけで勤まるものじゃない」
それを言う紅蓮の声には悔しさが満ちていた。
「それなのに、あんなことになって……」
少なくとも、紅蓮とセツナの間には、間違いなく愛情が介在していた。ナユタには尊敬の念などまったくないが。
「……紅蓮が守りたいのは、人々じゃなくて、セツナ一人なんだね」
ふと指摘してしまったナユタにも悪意はなかった。だが、紅蓮の痛いところを指摘してしまったらしい。
「……魔犬をなんだと思っているんだ、あんたは?」
彼の不思議な色の目に、苛立ちが沸いた。
「俺は人を守るために誇りを捨てた犬だ。唾棄される存在でしかない自分がどうしてセツナへの好意だけで存在できる。それでも人を守っているという自負があるから生をつなげていられるんだ」
静かな言葉だが、ナユタはそこにある響きで自分の失言を知った。
「あ、あの」
「ともかく、あんたは宮で笑っていろ。それだけでいい。あんたも不運だが、もっと不運な奴もいる」
ナユタの謝罪を聞き入れない言葉だった。ただひたすら彼はセツナを見ている。ただ妹であるというだけで、ぽっと出てきたナユタは存在そのものが気に入らないのかもしれないとナユタは思い当たった。
「わたし……」
「安心しろ。お前が薔薇瞳を勤めるのなら、俺は限界までお前を守る。もうけしてセツナのような事故には合わせない」
「事故?」
ナユタはふと聞きとがめた。
「病気、じゃないの」
紅蓮はうっかり口にしてしまった言葉にふと口をつぐんだ。
「……事故……ですらないのかもしれない……」
「なにがあったの」
紅蓮は諦めたように言った。
「これこそ知っておいたほうがいいかもしれないな。薔薇瞳の敵は夜見の血族だけじゃなくて、いたるところにいるんだ。多分セツナもそれにやられた。あんたも気をつけろ」
紅蓮の言葉はそっけない。
「セツナは神殿の高い塔の窓から落ちたんだ」
「なんで?!」
「わからない。セツナの意識は戻らないから、何があったのかも、誰が犯人なのかもわからない。早朝のことで誰もその場を見ていないんだ。ただ俺はそれをやった奴をけして許さない。残り全ての人生を費やしても復讐する」
紅蓮が言ったことに妄執に近い響きを感じてナユタは黙り込んだ。一体彼とセツナの間にあった感情が何かはわからないが、紅蓮のその怒りは彼を狂わせるほどのものに思われた。
しかしナユタには、許せとも諦めろとも言えない。
紅蓮の激情に不安を覚えたナユタは黙るばかりだ。
それを話の終わりとみて紅蓮はドアのノブに手をかけた。
「神殿は、けして清廉なだけの場所じゃない」
それは紅蓮が自分自身に言い聞かせる言葉のようだった。