2-12
サイセイもリョウもいない屋敷の静けさが怖かった。
夕方ニキがオリエのそばにいる間。ナユタは自室にこもるのも怖くて、サイセイの書斎に来ていた。
その本の山に囲まれて紙の香りをかいでいると少しだけ落ち着くことができる。
昨日とは違って雪が舞い、窓から入ってくる光は翳っている。薄暗い部屋の椅子に座って、ナユタは脇にあった本を何気なくとってみた。
それは秋津の言葉で書かれた本だった。難しい言い回しや単語が多く、たどたどしくしか理解できない。しかしそれは、現在のニギハヤヒ王朝の一つ前、ウガヤフ王朝までの教団の歴史について触れた本のようだった。
サイセイが帰って来たら確認したいことを、一つ二つと確認しながらナユタはその文字を追った。
やがてそれにも疲れると、ナユタは自分のポケットからもうしわになってしまった紙を取り出した。どうしても自分の身から離すことが怖くてできないそれは、発端となった父からの手紙だ。
何度も読み返しすぎて、紙の四隅はよれよれだった。
あの時は、薔薇瞳として神都になど居たくないと思っていた。今もあの場所のことを思うと足がすくむ。しかし気が付けば薔薇瞳として、知識を必死に詰め込もうとしている自分がいることが不思議だ。
あの役目を己が果たせるとも思えないのに、捨てきれないのはなぜだろう。
目を閉じれば結局浮かんでくるのは紅蓮とセツナだ。自分はセツナに張り合おうとしているのか。
「なんのために?」
ナユタはため息をついた。
ハルキ・イワナガの家は、王都でも華やかな家々が立ち並ぶ一角にある。
「リョウコ?」
「一晩厄介になっていいか」
王都もすでに吹雪の真っ只中だった。突然自宅に押しかけてきたリョウに彼はぎょっとした顔を向けた。すでに時刻は深夜。彼も寝巻きにガウンだ。
すでに彼の屋敷の召使に馬を預けたリョウは、雪を払いながら立派な玄関に身を置いていた。コートを脱ぎ優美に笑って言う。
「よろしく頼む」
「お断りだ」
迷惑だという顔を隠しもしないでハルキ・イワナガは無常に扉の外に押し出そうとしてリョウに蹴飛ばされた。
「邪魔する。あと夕食がまだなので、何か出してくれ。酒も。外は凍える、温かいものがいいな」
「ここは貴様のうちではない!」
ハルキ・イワナガは王子カイエンの友人にして、王宮で官僚務めをしている青年だ。ハルキとリョウの双家ならば、イワナガ家のほうは若干身分は低い、しかし親同士の仲が良く、幼少のころからリョウコ姫とは面識があった。というか下僕扱いされていた。リョウコ姫といえば美貌で有名だったが、その図太さを六つのときからハルキは嫌と言うほどよく知っている。
ハルキの父親が急逝し、彼が家督を継いだのは、リョウが守護団に入るのとほぼ時を同じくしていた。実家に帰りづらくなったリョウは、王都に用事があり、神都にその日のうちに帰れないときは、ハルキの屋敷に押しかけているのだった。
ハルキの母は、リョウコ姫がうちの息子の嫁……というのはさすがにありえないと思っているが、貰ってくれるならハルキをミズハの家に婿として差し出すことについては、わりと躊躇なく夢見ている。しかしそんな色っぽい話ではないのだ。
二十年たっても子供時代と同じく、リョウに下僕扱いされていることはさすがに母親には言えない。母の寝静まった時間でよかったと胸をなでおろしたハルキはすでに、リョウを泊めることは認めてしまっているわけだ。
いや、弱気ではいかん、とハルキは気合を入れた。
「夕食ぐらい出してやるが、宿はどこかに取れ!」
「今更面倒くさい。それに宿よりこのうちのほうが気心知れているし、綺麗で快適だ」
雪山で二十日間演習、とか言っても動じないリョウだが、贅沢に対する気後れもない。
「リョウコ様、お食事はどちらで」
「ダイニングを用意させるのも申し訳ない。ハルキの書斎でいいよ」
「かしこまりました」
自分に忠実、なはずの召使がリョウに頭を下げて出て行くのをみて、ハルキは愕然とする。そもそも、書斎でいいよ、とはなんたる上から目線。
「自分の実家に帰れ!」
「固いことをいうな」
「だいたいなんでこんな時間に」
「……本当は今夜中には戻りたかったんだが」
リョウはかすかに苦悩を滲ませた。めったに見ない顔にハルキも言葉を失う。
「……なにかあったのか」
「いや、別に」
リョウは美しい格子模様にされた石の床を我が家のごとき勢いで歩き始めた。しかたなくハルキもついていって自分の書斎に入れる。
「私も困るんだよ」
とりあえず酒を出しながらハルキはそれでも最後に泣き落としてみた。
「見た目と裏腹に、ずうずうしくてがさつで横暴なお前でも、いちおう貴族の姫なんだから。泊めたとかそう言う話で妙な噂が立つと困るんだ」
「私には醜聞でも貴様には名誉じゃないか」
どさりと乱暴に長椅子に座ってリョウはにやりと笑った。その顔を見ていると自分のお人よし加減に腹が立ってくる。
「あのなあ」
ハルキはテーブルに杯を置くとリョウの座る背もたれに手をかけた。半ば圧し掛かるようにして彼女の視界を塞いで言う。
「後で後悔しても知らないぞ」
「なにをだ」
リョウは相変わらずの微笑だ。まったく女に見えないが、もういっそと思ったハルキはちくりとした感覚を覚えた。その、なんだ、股間に。
視線を下にむけると、先ほどまで何も持っていなかったはずのリョウの手に、すらりとした白刃があった。宝石が飾られて芸術品のようだが、それでも、なにがしに刺さるくらいの力は持っている。
ハルキは身をどかして無言で彼女に酒の杯を渡した。多分リョウコだったら脅しじゃなくて間違いなく実行する。。
「あと寒くて死にそうだが、湯はあるか?」
「わかった、用意させるよ」
「友情とはありがたい」
その長い指で杯を掲げるリョウに、ハルキはため息をついた。自分も酒を持って書斎の机に寄りかかる。
見つめたリョウの顔に拭いきれない疲労を見つけた。心配、もあったが、ここしばらく王都でも話題のことは聞かずにはいられない。
「……薔薇瞳が神都に不在というのは本当なんだな」
その指摘すら、リョウは待ち構えていたように薄く笑った。
「それはどこで聞いたんだ?」
動じることもなく、リョウはハルキを見据えた。その硬い炭のような色をした瞳。ただ黒く美しいだけではない。圧力と高温の中で最強硬度の石へと変容した輝きを持っていた。
「人の口に戸は立てられない。それだけのことだ。セツナ様はやはりご病気のあと、体調が優れていないんだろう。静養しているというのは神都のみならず王都でも噂だ」
「なるほど」
リョウは肯定も否定もなく、ただ酒を口に含んだ。
ユージの取捨選択は確かに的確だ。彼は全てを隠し切ることは出来ないと判断したのだろう。薔薇瞳の入れ替わりを隠し切るために、病気と言う事実を暗にほのめかしたのか。
「お前、セツナ様の警護なんだろう」
リョウは曖昧に微笑む。ユージの尻馬に乗るべく。あの男は気に入らないがやることは的外れではない。隠し切ることはできない今、その辺りが落としどころだろう。リョウも神都の立場を好んで不安定にしたいわけでもない。
リョウの反応で、ハルキはそれ以上追求しなかった。
いささか押しも弱く、カイエンしか見えていないところのある男だが、ハルキの観察眼もバカに出来ない。追求しなかったが、まだ何かを疑っているかもしれない。
微笑みながらもリョウはそれ以上の追求がないように女神に祈った。
「お待たせいたしました」
タイミングよく夜食が届いたことでその話題は一時打ち切りになった。
大急ぎで用意したわりには十分な量と質の食事がよく磨かれた銀の盆にのせられていた。
熱いスープに魚の揚げ物、鴨の燻製。簡単ではあるが、リョウの好みを実によく覚えている。テーブルに準備され、執事達が立ち去った後、リョウは何事もないような顔でそれに手を伸ばしつつ考えていた。
雪に邪魔されて王都までしかたどりつけなかった。明日も天候によっては別荘までたどりつけないかもしれないことを恐れていた。行きの道中、宿泊した村で聞いた噂話が頭に残っていて落ち着かない。
最近夜見の血族の統制が取れず、いくつかの村が壊滅状態になっているらしい。それだけならまだしも、問題はそこで発生した屍者だ。
それを巡り、人の罪として絶望しかしようのない事件が起きているらしい。
「ハルキ」
鮮やかなソースのかかった鴨をつまみながらリョウはハルキに問いかけた。
「なんだ」
「屍者使いの噂を知ってるか」
「……汚らわしい話だな」
ハルキの苦々しい言葉は、彼もそれを聞き及んでいることを示していた。
「人の恥だ」
「だが事実。王は対策を考えているのか」
「カイエン様が考えているよ。今は情報を集めているところだ」
屍者となったものの命を奪うことは、やむを得ないことである。そうせざるを得ないからだ、人の良心として。だがそれを飼いならし己が欲を満たすために利用する人間達がいる。もちろん最終的に理性を失う屍者だから、大概のものは飼いならすまでもなく対面した時点で殺される。
だから稀な話ではあるのだが。
「そうか」
リョウは抑揚なく返事をする。ハルキは何かを気にしたように視線を向けたが気にしなかった。
ハルキのカイエンへの忠義は、みていて自分と重なるところがあるとリョウは思った。もっと腹を割って話ができれば自分のこの今の混沌とした状況も少しは良くなるような気がしたが、まさか王都の連中に神都の秘密を語るわけにも行かない。リョウは古い友人にも打ち明けられない秘密に少し重みを感じた。
もっとナユタと語りあえばよかったのだろうか。
ふとそんな気持ちが湧き上がった。
セツナのことしか思っていなかったから、あのナユタという薔薇瞳の人格さえリョウは知らない。もしかしたら、セツナには遠く及ばずとも、拒絶しなければならないような人間ではなかったのではなかろうか。
嘘をついていたことを必死で謝罪する彼女のことが今更ながら思い出された。
彼女をあんな場所に置き去りにしてしまってよかったのだろうか。不安がよぎる。もっと優しく接しても良かった。
あの時告白された瞬間からナユタのことなど頭になく、ただセツナのことばかりで頭が一杯になってしまったが。
セツナと比べて弱く無力で頼りなげだったが、誠実そうではあった。
……彼女と話をしなければ。
リョウの中にナユタという存在が初めて映った。




