1-3
このままではまずい。
ナユタは必死にその魔力があるとしか思えない彼の瞳から目をそらそうとした。生き物としての圧倒的な差、それは意識したくなくてもそこに紛れもなくあるが、竦んでいたら死ぬ。
ナユタは四肢に力を込める。
何かを叫んだかも知れないがよくわからない。ただ、かごを彼に向かって投げつけて、必死で立ち上がった。そのまま一目散に走り出す。
夜見の血族と人が、蛇と蛙も同然であろうとも、人は人だ。負けたくないとナユタは歯を食いしばった。
「へえ、逃げるだけの気力があるだけ、一般人とは違うのかな」
だが、あっというまに追いつかれて理解できないままナユタは畦に転ぶ。
「薔薇瞳といっても、一人じゃか弱いものだな」
彼の手は無雑作に伸びた。ナユタの首を掴み、そのまま引き上げる。骨が軋む音がして、ナユタの足は宙で暴れた。
「首と胴が離れれば、問題ないよね。じゃあね薔薇瞳、さようなら」
迷いなく彼はナユタの肩に手を伸ばした。そのまま引きちぎる気だと気がついても逃げるすべがない。
が。その瞬間。
ナユタは畦に放り出された。緑の草原につっこんでぬかるみに埋まる。思い切りぶつけた肩の痛みに息が止まりそうだったが、なんとか顔を上げた。目の前に奇妙な細長いものを見つけて目を凝らせば、それは人の腕。
悲鳴をあげたナユタは、腕は夜見の血族のものだと気がついた。
見上げた視線の先にはさきほどの夜見の血族。
「貴様!」
だが先ほどまでの余裕で取り澄ました様子とは打って変わり、醜く歪んだ顔で彼は怒鳴っていた。ナユタを掴みあげていた腕は、肩口からすっぱりと切り落とされていた。人と違うその身は、血は出ない。ただナユタの目の前に落ちた腕は、水分が抜け枯れていくように生気を失いつつあった。本来夜見の血族は非常識なまでに頑健な肉体を持つ。治癒力も高く、仮に腕一本切り落とされたとしても傷口をくっつけておけばそのままついてしまうほどだ。人が彼らを間違いなく殺すには、心臓か頭を打ち抜くか首を切断するしかない。
このように、ダメージを与えられるものは、ただ一人。
夜見の血族はその作り物めいた切り口を押さえる。彼の視線にはまぎれもない憎悪があった。憎悪が向かう先は。
「魔犬か……!」
まるで炎だ。
ナユタは紺色の空を背に、立ち尽くすその男を見つめた。
険しい表情のほうが強い印象となるが、端正な顔の青年である。腰まである豊かに波打つ髪は、燃え上がる炎のような鮮烈な赤だった。その身に纏うのは漆黒に赤のアクセントが入った長いコートでこの夏にはあまり似つかわしくなかった。洗練された都会のものだ。
そして瞳は夜見の血族によく似た琥珀色。しかし彼の瞳からはあの魔性の蛍光色の破片は失われていた。角度によって赤みを帯びているようにも見える。彼もまた人に似て人と違う。
魔犬。
その存在こそが、薔薇瞳が夜見の血族と戦うための剣だった。
夜見の血族にも唯一恐れるものがある。白枯れ病と呼ばれる彼らのみ独自の疾患だ。彼らの豪奢な金が、ある日突然色素を失っていく。と、同時に夜見の血族唯一の食餌である人の血を受け付けなくなっていくのだ。当然白枯れ病に罹患した夜見の血族は長くは生きられない。生きているのに燃え尽きたように乾燥した状態になってやがて塵に戻る。
白枯れ病になった夜見の血族が生き延びる道は一つしかない。
夜見の血族にとっては毒以外のなにものでもない薔薇瞳の血、それを啜って生き長らえる。
白枯れ病に罹患した夜見の血族は、それしか口に出来なくなるが、薔薇瞳の血を喰らっても死なない。かつ、普通の夜見の血族の数倍の力を持つことが出来る。結果として夜見の血族以上の強靭な生命力を得る……が、己が生きるためには薔薇瞳を守らねばならず、それは結局人を守ることでしかない。力の使い道は制限されていた。
薔薇瞳の従者、と正式には名があるが、誰もその名では呼ばなかった。
それが夜見の血族であったことは違えようもない過去であり、人は彼らを恐れる。
夜見の血族としての誇りを捨て無様に生きながらえようとする彼らを、夜見の血族は蔑む。
人の世にも夜見の血族の中にも馴染めない、彼らは『魔犬』と呼ばれた。
年は二十代半ばくらいに見える魔犬は、空に瞬き始めた星の光を映すように、剣を構えた。剣、だと思うが、それはナユタも見たことのない形だ。幅も厚みも普通のものの数倍。ナユタでは持ち上がられるかさえ怪しいほど、重厚な剣だ。そして金属と言うには白すぎる。それは張り詰めた空気をもって夜見の血族を圧した。
今ナユタの目の前にいる夜見の血族も、その絶対的な力の差には気がついているようだった。魔犬と一対一でやりあって勝った夜見の血族は少ない。
すでに腕一本失われた今、逃げることも難しい。
「なぜ、魔犬がここにいる!」
「さて」
その端正な顔に見合わず、粗雑な言葉遣いで魔犬は答えた。そのまま、助走とも言えぬ速度で二三歩進む。四歩目に彼は踏み切った。
跳躍。
一瞬で間合いはつまり、魔犬は夜見の血族に剣を振り下ろしていた。夜見の血族も剣を抜き、それを受け止めようとする。しかし鉄塊同然のその重みは受け止め切れず剣は鋭く澄んだ音を立て、真っ二つに折れた。薙いだ剣を軽く翻し、夜見の血族の首の手前で止める。
夜見の血族には反撃の機会すらなかった。
「この場を知らせたのは誰だ」
低く声を潜めて彼は言った。詰問というにはあまりに冷徹だった。
「言うものか」
にやっと夜見の血族に笑った。
「汚らわしい犬め。お前は忘れているかもしれないが、お前が口にするのは、薔薇瞳の血ではない。結果としての我々の血だ…………仲間の血を喰ってお前は生きているんだ。我々はそれを忘れない」
ぎらりとした光がナユタの目に焼きつく。
一瞬遅れて、ごすっという重い音がした。夕闇の中、ナユタの目には鮮明に映らなかったが、夜見の血族の首が魔犬の剣の一閃で落とされた音だった。
首のない不気味な影だけが、星と月の光に浮かび上がる。それがどさりと大地に倒れるまでナユタは目が離せなかった。
ほこりと泥と草にまみれてナユタは魔犬を見つめた。一段高い畦から彼はナユタに視線を落としていた。
「……ナユタ、だな」
「……は、はいっ」
しかし、彼も次に何を告げたらいいのかわからないようだった。夜見の血族と向き合ったときの全てを押しつぶすような気配は失せ、どこか茫洋とした青年の視線だ。
「……あなたは」
ナユタが声をかける。本来ならば関わることもないほど、大きなものを背負っている存在に。
「紅蓮」
それが彼の名と気がつくまでに一瞬の時を要した。
理解したとき運命の輪はぎしりと重い音を立てて軋み、動き出した。
ナユタが紅蓮によって助けられてからのことは、全て彼女にはどうしようもない出来事の連続となった。
もともと薔薇瞳と知りながら教団に申告しないのは罪に問われても仕方ないことである。それに目をつぶってもらう代わりに、ナユタは神殿に向かうことになった。領主である父は深くため息をついて、それを認めるしかなかった。下手すれば薔薇瞳教団の手で村一つつぶされかねない。
両親にろくに挨拶をすることもできないまま、ナユタはその夜のうちに村を去ることになった。
だが不思議なのは。
「御息女ナユタ様の今着ている服をいただけるか」
ナユタの家のひっそりとした部屋で領主に向かって紅蓮はそんな奇妙なことを言い出した。今着ているものといえば夜見の血族に裂かれ、土とほこりにまみれた無残なものである。その代わりにと、紅蓮は持ってきたらしい葛篭から、都会より持ち込んだ最先端の衣類をナユタに渡した。王都の貴族階級の普段着に匹敵する贅沢なものである。夏の薄い布は、幾重にも重ねられて本で見た妖精の羽のように淡く美しい。普段ならナユタもときめきばかりのはずだが、今はそれどころではなかった。
家を離れなければならないということを理解して、今にも涙が溢れそうだ。
自室で鮮やかなドレスに着替えてはきたものの、それは確かに今のナユタには似合っていなかった。日に焼けた健康的な肌も、櫛を通しただけで洗練とは程遠い髪形もドレスに比べて明らかに見劣りする。なぜか一層惨めな気持ちになって、ナユタは紅蓮に自分の服を差し出した。
それを紅蓮は無雑作に手をかけた。父とナユタと紅蓮、その三人しかいない部屋に布が裂ける音がぞっとする不吉さで響いた。それを無雑作にソファの上に投げ出して、紅蓮は葛篭から今度は小さな箱を出した。その箱は美しく彩られているにも関わらず、凶兆であった。
「ご息女ナユタ様は不幸にも、本日夜見の血族によって、その命を奪われた。賢明なる領主は彼女の遺体を見つけ、すぐに焼き払われた。葬儀には彼女の骨しかありませんが、夜見の血族の奴隷に落ちることを考えたら、村人も皆その判断に納得していただけるでしょう」
父、というより祖父といっていいくらい老いた父は紅蓮の言葉にさすがに顔をあげた。
「……どういう……?」
「その箱には都で夜見の血族によって死んだ女の骨が入っています。身寄りのない娘だったのでその骨の出所については心配無用です」
「わ、わたし、死んじゃうということですか」
「表向きは」
紅蓮は淡々と語った。その目から意図を汲み取ろうにも、赤と琥珀にゆらめく瞳は感情をもぶれさせてわかりにくくした。
「どういうことだ」
父は紅蓮をにらみつけた。めったに怒らぬ父が怒りをあらわにしている。
「田舎の小娘かもしれないが、それでも薔薇瞳というのなら相応の扱いと言うものがあるだろう。普通なら、行列を率いて華やかに迎えにきてもいいものだ。なぜこのようにこっそりと……まるでナユタが薔薇瞳であることを隠して連れ去るようなやり方をする。家内も薔薇瞳として神殿に連れ去られるならある程度覚悟もしていたが、ナユタが死んだということであれば悲嘆にくれよう」
「ごもっとも」
紅蓮はうなずく。
「薔薇瞳セツナ様に加えてもう一人薔薇瞳が見つかったということであれば、国をあげて祝ってもいいくらいだ。夜見の血族に向けていい牽制にもなる。しかし、残念ながらそれはできないんだ、今は」
淡々としていた紅蓮の表情が一瞬だけ歪んだ。怒りと後悔と悲しみがその瞳にかすかによぎる。
「どうか、この話は誰にも言わないで頂きたい。奥様にも、だ。それが出来ず噂が広まる気配があれば、俺はこの村を一つ焼き払わなければならない」
「……それはどれほどの秘密なのか」
魔犬ならそれくらい容易いことだと知る父は低くうめくように言った。
「なぜそんな大きな秘密にナユタが巻き込まれなければならない」
紅蓮はナユタをまず見た。その顔を一つ一つのパーツを確認するように凝視した後、なにか納得したように告げる。
「御息女ナユタ様は、第三十七代薔薇瞳セツナ様の、妹様で在られます。そしてナユタ様に我々が望むことは、ナユタ様にはセツナ様の身代わりとして薔薇瞳を勤めていただきたいということです」