2-8
降り続いていた雪は、あたりを全て白く覆っていたが、深い常緑樹の葉の間からはまぶしいほどの光が注いでいた。
耳が凍りつくような空気にナユタは首を衿の中に沈ませた。それでも彼女の赤い瞳ははしゃいであちこちを見ている。久しぶりの外だった。ともすれば革のブーツは雪に深く沈み込み、身動きさえとれなくなってしまうが、それすらおかしいのかナユタは笑っていた。
毎日サイセイの持っている本を読んで、わからないことを彼に質問したりと、それなりに満足できる日々を送っていたが、やはり外の空気は違う。
「あまり一人で先に行かないで下さい」
後ろからついてくるのはリョウだ。
「ごめん」
ナユタは立ち止まった。
久しぶりに雪がやんで日が差した日、ナユタは思い切ってリョウに、散歩に出てみたいと申し出た。あまりいい顔しなかったリョウだが、オリエに諭され、ナユタを連れて出ることにしたのだった。
今日をはずせばまたダメか知れないよ、いいかげん息も詰まるでしょう、とオリエが言い、ニキが、お嬢様がいれば大丈夫じゃないかと続けた。なるほどとそれは聞きいれたが、アーヴルラジューの、じゃ僕も外に……という呟きはリョウのみならず全員に黙殺された。
「空気は冷たいのが相変わらずね」
「またすぐに天気は崩れます」
「ラジューも連れてきてあげればよかった」
「あなたどこまで無防備ですか」
リョウはため息をつく。
「あれがなんだかわかってますか」
「夜見の血族」
「名前知っていればいいというものではありませんよ」
「……うん、知っている」
ナユタは低く答え、そしてまた歩き始めた。
イルネをあんな目に合わせた存在。薔薇瞳を仇としているであろう一団。
……それを知りながら、どうしてわたしは彼を憎めないのだろう。
ナユタは自問する。
あの時、夜見の血族を完全に憎んでいたら、きっと自分は今ここにいなかった。
エィディアロメラに殺されかけたときも、憎めばよかった。
ラジューだって彼自身の人格を知る前に断罪できたはず。
きっと憎めないから薔薇瞳として一人前になれないのだ。
その理由にもナユタは心当たりがあった。先に紅蓮を知ってしまったからだ。もとは夜見の血族であった彼の思わぬ優しさを見てからでは、夜見の血族を人として完全に別であると認識することは難しい。一番最初、あの故郷の畦で襲われたとき、夜見の血族に嫌悪感を持てばよかったのに。
夜見の血族も心がある。
ぼんやりと気がついてしまったその事実が、ナユタの心に絡みつく。
「あ」
急に広がった風景にナユタは声をあげた。
林の向こうにきらりと光ったのは、凍りついた湖面だった。一枚の巨大な鏡のように光を跳ね返している。
「湖だ……」
「完全に凍ってますけどね」
木立を抜けてナユタは湖に足を伸ばしてみた。凍結した表面には、薄く雪が積もっている。ちょっと見には地面と見分けがつかなかった。ナユタの村にも池はあり、冬になれば凍ったがここまで大きく凍りついたものはない。家のこんな近くに湖があったなど、雪に封じ込められていたときは想像もしていなかった。
「すごい」
ナユタは地面と繋がっているような波打ち際の氷に足を乗せた。そのまま数歩進んでみるも軋む様子はまったくない。
「危ないですよ」
リョウの厳しい声がとんだ。
「ところどころ氷が薄いところがあります。危険なんですよ」
「そ、そっか」
「ですが、場所さえ漁師に確認しておけば、釣りができます」
「だって湖の水は見えないよ」
「氷にですね、穴を開けるんです。そこから釣り糸をたらすと、小さな柔らかい魚がたくさん連れます。おいしいですよ」
「やってみたいなあ」
「もしお望みなら、確認しておきます」
「……ん」
よそよそしいリョウだが、おそらく優しい女性なのだろう。無骨な戦士かと思ったがその言葉はいつだって穏やかで、思いやりに満ちている。
もし王都の社交界に残っていれば、どんな男も望みどおりだったであろうとナユタは不思議でならない。どうして彼女は守護団にいるのだろう。
「リョウは」
ナユタは氷の上から問いかけた。
「リョウはどうして守護団にいるの」
とうにセツナが聞いているであろう答え。それでもナユタは尋ねずにはいられなかった。氷上のナユタは湖岸に立つリョウを見つめた。波打つ水際は今はなく、ただ地面と一続きだ。
「それもお忘れですか」
リョウは苦笑した。安堵したのか落胆したのか曖昧だ。
「改めてお話しするほど価値の在る理由ではありません」
「……それでも」
ナユタが食い下がると、リョウはふと青い空に視線を向けた。彼女が頭の中で話を組み立てているのだろうとナユタは察する。セツナに語ったときと同じように話すかどうか、それを考えている。
「……結構不自由なんです」
「え?」
リョウはゆっくりとナユタに視線を戻す。
「貴族の姫なんて、不自由なものなんです。幼い頃は父親の言うことを聞いてうちで行儀よくしていなきゃいけない。そのうち自分が選んだ相手でない誰かとの縁談が持ち上がって、どこかに嫁いで、その地で暮らす。死んだら誰かが適切な墓に葬ってくれるでしょうが、それさえ選択権はない」
珍しく、リョウは言葉を選びながらだった。
「それなら私は一体いつ、自分の好きな場所に行けるのだろうと思ってました。でもね、これが贅沢なわがままだということはわかっています。貴族じゃないからといって別に自由にどこかにいけるわけでもない。私がよき姫であるべき運命に困惑していたように、たとえば旅を続けなければならない商人にもその運命を罵りたいときもあるでしょう」
別に適当な誰かに嫁ぐことは、つまらないけれどそれはそれでよかった、とリョウは続けた。
「だからあの事件がなければ、今頃私はカイエン王子正妃候補でしたよ」
「事件って?」
「叔母の婚約の際、隣国のリクウェから宝石を取り寄せたんです。翡翠に真珠、珊瑚に金剛石。リクウェの宝石は有名なんです。けれど、それは届かなかった。商人がただ一人、命からがら王都にたどりついただけ。あとは夜見の血族に襲われてしまったそうです。運がない」
「リョウは商人になりたかったの?」
「いいえ。私は金勘定にはいまひとつ疎い。自由に生きると願っても、自分にそれだけの才覚があるようには思えないんです。ただ、その生き残りの商人とは話をしました。いろいろな土地の不思議な話。私が見ることないであろう光景。だから思ったんです。私が彼らのようにどこかに自由に赴くことはないだろうと。でも、彼らが自由にどこかに向かうことを妨げる存在を私は憎む」
今のリョウのコートは守護団指定のものではない。ミズハのものであろう、優美な毛皮だった。けれどそれを着てなお、彼女の自立は揺らがない。
「どうせ自由でないのなら、その不自由さは己の望むことに使いたい」
幸いにも、私は何かと戦うことは結構なんとかなるんです。
そう彼女は笑った。
感情的な行動原理なようで、リョウはとても深く考えているとナユタはとっさに返すべき言葉がなかった。
女が一人、生きるべき地を決めず、個として生きていくことは計り知れない苦労だ。商人か芸人くらいしかそんなすべはない。その能力に欠けていると自覚するリョウは、ならば移動の民がその自由を失わずにいられるようにと己の人生を定めた。私の生き方なんて楽なものですよ、とばかりに静かな顔だが、守護団で女性としてやっているだけでも、その苦労は並大抵のものではないだろうに。
「私が道と町の安寧を保てばいい。そう思っている人はきっと他の国にもいる。それがどこまでも続いていけば、人は自由にどこにだって行けるでしょう。私じゃなくても私が守った道で、私の代わりに誰かが遠くに行ければ、私は自分を満足させられる」
そしてリョウは自分を凝視しているナユタの視線に気がついたようだった。その白磁の頬に朱が走る。
「なんだか、語りすぎました。お恥ずかしい」
ううん、とナユタは首を横に振った。
「リョウはすごい」
「え?」
「わたしなんて」
聞こえないように呟いて、ナユタはリョウに背を向けた。足元を確かめながらゆっくり氷の上を歩く。
なんの意思もなく神都にいる自分は恥ずかしい。期待に応えなければと思っていたが誰も期待していなかった。ならば自分はなんのためにあそこにいるのか。
同じ籠の鳥だとしても、それを知りつつ己に誇りをもつリョウのような人もいるというのに。
ようやくナユタは思い当たった。
ずっと神都で苦しかったのは、努力の何一つ、自分の内なるものから出なかったからだ。誰かに認められたいと願いながら、何を認められたいのかすら自分になかった。
わたしはあそこでどうしたいの。
セツナの身代わりなんていう理由で神都に留まることは、周りがそれだけを求めているのだとしても自分が耐えられないと思った。神都の人々はすべて誇り高い。自負と努力を持っている人間が大勢いる。
それに負けないなにかとはなんだろう。
ナユタはようやく考え始めていた。
「セツナ様!」
突然リョウの鋭い声が聞こえた。振り返ろうとしたナユタは、足元からの音に気を取られる。みしっという一瞬で人を不安に陥れる音、そしてぐらりと傾く体。
氷が大きく割れていた。ちょうど右足の真下にひびが走っていて、凍りつく水がそこから溢れ出してくる。重心が傾き、水に足を滑らせたナユタはあっという間に零度の水の中に転げ落ちかけていた。
そのとき飛び出してきたのはリョウだ。
迷いなく一瞬で判断し、割れた氷の上でナユタを腕に捕らえる。抱えるようにして不安定な足場で飛ぶと、リョウは割れていない氷の上に足を着く。ただそこも、いきなり一点に加えられた二人分の体重で軋んだ。
「動かないでください、セツナ様」
動くどころか声も出せないナユタは、息を潜めて氷に走りつつあるひびを見ていた。次の瞬間今の足場も割れても不思議はない。一箇所が割れることで、連鎖的に氷は脆くなっている。
「腕を離します」
リョウは落ち着いた声だ。
「なるべく穏やかに歩いてください。ゆっくりでかまいません。岸はそちら。五歩も行けば氷は安定します」
「怖い」
「大丈夫」
「リョウが先に」
「あなたからです」
最初の方が氷は丈夫だ。なによりナユタのほうが体重は軽い。
ナユタはおそるおそる足を踏み出した。ゆっくりとなるべく体重をかけないように、歩く。その背後では氷の割れる音が激しくなり始めていた。振り返ろうとしたナユタに止まらないで、とリョウが声をかける。ナユタ言われたとおり五歩、それから駆け出して湖岸の木にしがみついて振り返った。
「リョウ!」
リョウは迫ってきているひびを怖いとも思っていないようだった。ナユタが湖岸に着いたことを確認すると安心させるように笑う。
そして脆い足場を蹴るようにして駆け出した。一気に崩壊が始まる。次々に水に沈んでいく氷を振り返ることもなく、追いつかれまいとリョウは素早く駆けた。落ち着いたその動作には不安はない。だから動作も安定していた。
踵くらいは水に濡れたが、リョウはあっという間に湖岸についていた。
「……なんだか私の体重が随分な重みみたいですね」
氷が割れた湖面を振り返ってそんな冗談が言えるほどに。
「ご、ごめんなさい!」
ナユタはリョウのコートを捉えた。
「ごめんなさい、危ないって言われていたのに!」
「セツナ様に何事もなければ結構ですよ」
リョウはナユタの肩を抱いた。安心させるように二度軽く叩く。
「なんだか、セツナ様にそんな顔をされるほうが困ります。いいのです。我々守護団はあなたもお守りするためにあるのですから」
「わたしは!」
ナユタは耐えられない。
「わたしはセツナじゃないんです」
ついに叫んでいた。
嘘をつくことが耐えられない。彼女のような人間が自分の礎になっていることに後ろめたさを感じていた。誠意をもって仕えてくれている人間に嘘をつくことに慣れるほど、ナユタはまだ支配者のありようになれていないのだ。
「……え?」
腕の中のナユタを見て、リョウはまぬけな声をあげた。
「許してください、嘘なんです、記憶がないなんてそれは嘘。わたしはセツナじゃない。本当にナユタといいます」
「ご冗談を」
「冗談でこんなこと言えますか!」
ナユタはリョウを見上げた。
「セツナは怪我をして表には出られないんです。その身代わりなんです、わたし。この間、神殿に連れてこられたばかりなんです」
さすがにリョウはすぐに反応できなかった。その艶やかな黒曜石の瞳は、ナユタにじっと下ろされている。
「だが……その薔薇瞳は」
「わたしはセツナの妹です。薔薇瞳は本物です。わたしのものである魔犬はまだいないけど」
「……二人の薔薇瞳」
リョウはかすれる声で呟いた。
「記憶喪失は嘘か……そうだな、だろうと思っていた」
彼女はナユタからそっと身を放す。困惑した色しかない視線は向けているが、そこにナユタが映っているかは微妙だ。
「騙されていたのか」
「すみません。そんなつもりじゃ」
「いや。あなたにそんな芸当はできないな、ユージだろう。相変わらずだなあの狸」
リョウの興味から、自分がすっかり失われていることに、ナユタは気がついた。自分の運命に誇りをもつリョウからしてみれば当然の反応だ。
「……それではセツナ様は」
その言葉は搾り出されるようだった。
「……神殿の古い塔に」
「起きられぬのか」
その問いにナユタはとっさに答えられない。だが答えられないというその事実でもって、リョウは現状を把握してしまった。ざっと彼女の顔から血の気が引く。
「それほどに」
リョウはナユタに背を向けた。そのまま足早に林の中をひきかえし始める。
「リョウ!?」
リョウは追って来たナユタを振りかえらない。
「私は自分が恥ずかしい」
リョウの声には自己への怒りが確かにあった。
「セツナ様は、けして私を認めなかった。けれど私を認めようが認めまいが、私はセツナ様に忠誠を誓ったはずなのだ。その相手すらわからないとは、なんという愚かな」
「ごめんなさ……」
「あなたのせいではない。ただ私が愚かなだけだ」
リョウは慌しい動きで、ナユタはついていくのがやっとだ。
「正直、あなたが先ほど『リョウはすごい』と言ってくださった言葉は嬉しかった。それはセツナ様がけして私に与えてくれなかった言葉だからだ。あなたも薔薇瞳なら、私があなたに仕えることも間違っていないはず。だが、私はどうしてもセツナ様にその言葉を頂くまでは諦めきれない」
「リョウ」
リョウとセツナにあったなんらかのわだかまり。それはまだ何一つ解決していない。
リョウは一応薔薇瞳である以上、ナユタを責めない。しかしナユタにはその態度こそが重圧だ。ただ、リョウを傷つけてしまったことへの申し訳なさばかりが募る。
「リョウ、ごめんなさい」
だが彼女は慌しく屋敷戻るだけだ。
「オリエ!」
彼女は屋敷の扉を乱暴に開けた。
「私はしばし、神都に戻る!」
それは扉を開ける前からナユタにも予想できた言葉だった。




