1-20
「夜見の血族」
ナユタの声は引き連れる。エィディアロメラは足場の危うさなど感じさせられない歩みであっと言う間にナユタの前までやってきた。
雪はますます降り方を激しくしている。陰りない白の外套は、金色の彼女によく似合っていた。ナユタよりずっと小柄で年若い彼女だが、近くで見ても非の打ち所のない美貌だった。その手が伸ばされた。手袋をしていないそのほっそりとした指先の桜貝の爪。それに目を奪われたナユタはいきなり右頬に衝撃を感じた。
痛みを感じるより早く、ふっとぼされ、道の脇の雪が積もった中に転がった。あまりの素早さと強靭さにナユタはなすすべもない。雪にまみれたその頭をなんとか上げる。痛みを飛び越して言葉にならない苦痛に近い衝撃にめまいを覚えながらナユタが雪に手をついたときだ。今度は蹴飛ばされていた。
丁寧になめされた革で出来た彼女のブーツは、ナユタの胸を蹴り上げていた。息が出来ず、ナユタは雪の上で喘ぐ。間髪いれずにエィディアロメラはナユタの胸倉を掴み、引き起こした。
「他愛ないこと」
淡々とした口調には薔薇瞳に対する憎しみが見え隠れしていた。
「この半年、貴様が一人で出てくるところをずっと待っていた。以前はそういうことも頻繁にあったときいたが、機会に恵まれず待ちかねたわ……いつでもあの犬がいて、まったくもって忌々しい」
「う……」
首が絞まってナユタはうめいた。
「すぐに殺したいのは山々だが」
エィディアロメラはナユタの顔を覗き込んできた。ナユタも苦痛に閉じていた目を開ける。彼女の目にある本物の悪意に背筋が冷えた。
彼女は自分をセツナと思っている。確かにそれは殺したくもなるだろう。歴代の薔薇瞳で夜見の血族に殺したくないと思われたものなどいないのだ。夜見の血族にとって人は単なる食事だが、薔薇瞳は確実に仇だ。
ああこんなふうに殺されるのかとナユタはぼんやりと思った。
そしてそれを受け入れてている自分を不思議に思う。
紅蓮と初めて会った時、夜見の血族に殺されそうになった。あの時は絶対死にたくないと思ったのだ。けれど今はどうでもいい。
それはここ半年に渡ってすり減らされたナユタの精神の弱体化によるものなのだが、ナユタはそれさえ追及することができなくなっていた。
「問う」
吹雪の中、エィディアロメラは寒さなど感じていないようだった。ただ風の音がうるさいのか、ナユタに耳に口を近づける。甘くあどけないがぞっとするほど冷淡な声だ。
「妾の弟、フルークレシスをどこにやった?」
朦朧とする意識だが、ナユタはエィディアロメラをみつめかえす。
「ふ、フルー?」
初めて聞く名だった。
「とぼけるか?」
エィディアロメラはナユタの胸倉を掴んだまま、地面に横面を叩き付けた。
「あうっ」
ナユタは痛みに呻く。服から手は離れたが、今度は後頭部の髪を鷲づかみにされた。ひきつれた鋭い痛みだ。
「フルークレシスは貴様を殺すために神都に送り込まれた。危険な役目ではあったが、こちらにはそれを断る選択肢はなかった」
「知らない……」
ナユタにはまったく心当たりがないということは、狙ったのはナユタでなくセツナだったころの話だろう。紅蓮かユージなら何か知っているが、以前のことは漠然としか聞いていないナユタにはまったく知らぬ名だ。
「なるほど、名を聞くこともなく葬ったということか」
エィディアロメラの声は風の音にまざって聞こえた。
「もとより……もとより生きながらえて、戻ってくるとは思わなかったが、生死さえわからぬままとは……」
淡々とした彼女の言葉の中に、ナユタは聞きなれた響きを見つけた。それはわずかなものであったが、共感を呼びさます。ナユタとしても夜見の血族が持ちえているとは思いも寄らぬ感情だった。
人も夜見の血族も関係ないのだろうか。エィディアロメラの言葉に終始流れているものは、弟フルークレシスへの心配だった。行方のわからぬ彼を案じている彼女の思いは、人よりはその感情が表に出にくいようだが、人の姉弟とまったく変わらぬ濃さだった。
「弟さん……行方不明、なんですか」
「何を言う」
エィディアロメラはナユタの髪を思い切り引いた。
「お前が殺したのだろう!せめて墓の位置を教えよ」
しかしナユタには心当たりがない。教えられるものなら教えてあげたいが不可能だ。
「しらない……」
「とぼけるな!……まさか墓さえなく、打ち捨てたのではあるまいな!」
ナユタはかすれる息を吐き出す。
「本当に知らないの」
「それならば、我が屋敷に来てもらおうか。言いたくなるまで生かしてつき合わせてやろう。多分早く死にたいと思うだろうが」
エィディアロメラはそんな残酷な事を言う時も淡々としていた。ナユタの髪を掴みなおす。そのまま彼女を無雑作に荷物のようにひっぱって歩き始めた。が。
「その薄汚い手をはなせ、下郎」
雪を切り裂くように威圧的に叫んだものが居た。エィディアロメラが立ち止まる。
闇とものともしないその強い声は若い女のものだった。
エィディアロメラの視線の先にあるものは、三台の馬車。そして停車させた先頭の馬車から出てきて剣を向けているのは、その声の主だった。意志の強さを十分感じさせる強い黒の眼差し。瞳と揃いの様な色をした髪は短く切られている。今はこわばった顔をしているが、彼女が微笑んだら、貴族の子弟がこぞって求婚するだろうと思えるような端正な顔立ちだ。
馬車の先端にある紋章に、ナユタは見覚えがあった。それは薔薇瞳守護団の紋章だ。彼女が着ているものも、紺色の守護団の制服。袖口のラインには赤の線。その数とついている勲章から、彼女が相当上位の守護団の要だと想像された。しかし守護団に女性がいるという話は聞いていないし、ナユタには見覚えのない顔だ。
「右翼か」
エィディアロメラはつまらなそうに言った。
「そこをどけ。妾はお前達のような虫けらには用はない」
「虫けらと言うか」
エィディアロメラの隠しもしない侮蔑。
しかし言われ慣れているかのように、彼女の表情にはぶれがない。それどころかかすかに笑ったようにも見えた。
「援護を」
背後にいる部下らしき青年達に簡単に告げる。
彼女はほっそりとしていて、女性らしいふくよかさとは隔たりがあった。その分身軽に飛び出す。彼女の持つ剣は細身で純白の刃だった。エィディアロメラはナユタを放り出す。殺意とは無関係な美しさで、白の外套がふわりと雪の中を舞った。そのまま守護団の女に襲い掛かり爪を立て、牙を打ち込もうとしたエィディアロメラだが、雪の中を身を反転して転がった彼女には逃げられた。
「素早いな」
薄笑いのまま彼女に向かったエィディアロメラだがその表情が変わった。はっとしたように一歩下がる。
「団長か!」
「然り」
いきなりエィディアロメラに向けて女の剣の一閃が舞う。残念ながら空を切ったが、動きは確かに普通ではない。転がったところまではただの回避だが、その中にエィディアロメラの油断を誘う隙をわずかに混ぜていたのだ。おそらく女である以上、彼女に純粋な意味での力はあまり期待できない。しかし、疲れを知らない身軽な動作で次々とその細身の剣を振り回し、エィディアロメラの髪を一筋巻き込んだ。ぱっと空に夜見の血族の誇りある金色の髪が舞う。
「右翼団長、リョウ」
黒髪の女はぶっきらぼうに言う。エィディアロメラは斬られた自分の髪を信じられない屈辱を受けたように見た。そこに間髪居れずに馬車の陰から無数の矢が飛んできた。リョウが注意をひきつけている間に、何人もが一斉に矢を放ったのだった。かろうじてそれらを避けたエィディアロメラは舌打ちしてリョウをにらみつけた。
「北方に飛ばされていたと聞く」
「帰還命令が出た。残務整理のせいで遅くなったが、飛ばしに飛ばして戻ってきたところだ」
彼女が、とナユタは見上げた。
セツナの不興を買って飛ばされた右翼団長。
守護団の人々はもちろん人間だ。それゆえ夜見の血族と戦うには個としての絶対の戦力差は免れない。しかしそれを補うのが、訓練に継ぐ訓練と、連携、そして日々開発されている武器。とくに弓の発展はめざましい。致命傷にはならなくても、夜見の血族を足留めさせるくらいの力は持つのだ。
かつ、ある一定の能力を認められたものだけが持つ、通称『茨』と呼ばれる鉱石できた剣。
それは千年前の戦争以前の文明で出来ている。まず『茨』の埋蔵量自体が極小だ。また武器として加工するにもそのあまりの固さに熟練の技がいる。
だが、この剣で斬られた夜見の血族は、その部分の再生が極めて遅くなる。紅蓮はその身体的能力に合わせて、夜見の血族を破壊に近い形で滅することが多い。あの巨大な荊の剣で夜見の血族を叩き潰し、再生すら適わない肉塊に変える。 そこまで圧倒的にはいかないまでも茨を持つ守護団員は、対人間に近い戦いに夜見の血族を引き下ろすことが出来た。この武器で戦えば夜見の血族も、腕を切り落としても笑って一瞬で繋ぎ合わせるような怪物ではなくなるのだ。痛みにのたうちまわす時さえある。
もちろんそこまでもっていくには卓越した戦闘センスが必要で、それゆえ守護団の団長は王都の貴族から化け物と罵られるほどには強いのだが。
リョウは、そのほっそりとした剣を握りなおす。
「くっ」
エィディアロメラは歯噛みした。いかに彼女でも、全部で二十人近い守護団右翼精鋭、茨を持つ団長を前に、戸惑う。先ほどナユタを捨ててしまったのは失敗だった。彼女の元にはすでに何人が団員が近寄ってきている。
「次こそ……」
エィディアロメラは身を翻した。雪に殆ど沈まぬ軽やかな走りで雪原を走っていった。
「追いますか!?」
団員がリョウに問いかける。
「いや、視界が悪い。それにアレも力は出し切っていないだろう。追うのは危険だ。娘を助けられただけでよしとしよう」
リョウはまだあたりへの警戒を解かぬまま、ナユタに近寄った。
「すでに咬まれているか?それならば」
「いえ……大丈夫そうです。おい、娘」
ナユタは冷たい雪の上から抱き起こされた。掴んだ団員の手が暖かい。
「どこの子だ。とりあえず神殿に運べばいいか?」
リョウはナユタの顎を取った。首筋を眺めて咬み傷がないか、自分でも確認しているようだった。そのまま顔をまじまじと見て、リョウは息を飲んだ。
「セツナ様!?」
少し幼くみえ、そして痩せ細っていても、さすがによく似た面影を彼女は見出したようだった。
「せ、セツナ様って」
「どういうことだ、これほどにお痩せになって!」
団員に狼狽が走る。ナユタは目を開けた。助けてくれてありがとう、と言うべきか悩む。きっとこのままでは。
ナユタはリョウに抱きつくようにしてもたれかかった。
「神殿は、いや……」
ナユタの発した声に気がついたのはリョウだけだった。彼女はそのまま両手をナユタの背に回し抱きとめる。
「……一体どういうことだ……」
リョウは呟いた。一瞬思考が停止したがナユタのか細い息に我にかえる。
「と、とにかく馬車に乗せよう」
リョウはナユタを抱き上げる。リョウがほっそりとして見えるのは、長身のせいもある。どこか美貌の青年めいているが、彼女の人並み以上の訓練を受けてここまできた人間だ。痩せ細って小柄のナユタを抱き上げることなどそう難しくもない。
「セツナ様、しっかりしてくださいませ、何があったか存じませんが、もう大丈夫です。神殿に戻りましょう」
「いや……お願い、帰りたくない」
ナユタは消えそうな声で呟き続けていた。リョウには、かつて堂々と君臨していたセツナの記憶しかない。ユージは彼女にはセツナが事故に会ったことも死にかけていることも、当然身代わりのナユタのことも何も伝えていない。
ただの少女のようになってしまった薔薇瞳に、リョウは戻ってくるなり戸惑わされている。
リョウは摺り寄せてきた頬に冷たさを感じてナユタの顔を見た。泣いているのかと思ったが、それはナユタの頬に落ち、溶けた雪だった。
どういうことだ!とリョウはユージにくってかかった。
「お前もだ、紅蓮!」
神殿にリョウが戻ってきたころ、ナユタの不在が明らかになって一部の上層部が真っ青になっていた。寒さと疲労で気絶するように眠ってしまったナユタをキリエに預けたあと、リョウがまっしぐらにやってきたのはユージの部屋だった。
昨日からの騒ぎでどうもユージは寝ていないらしい。目の下にクマをつくったユージに同情も何もなく、リョウはその執務室で怒鳴りつけていた。
「なぜセツナ様はあのようにお痩せになった」
「病気なの。噂くらいきいてるでしょ」
ユージは朝から大声のリョウにうんざりしたように目を合わせない。
「しかし、回復したと聞く」
「いろいろあんだって」
「いつも貴様はのらりくらりと……!」
リョウは怒りに任せて突き進んできたため、外套さえ脱いでいない。溶けた雪で髪は艶を増していたが、あまりの怒りに女らしさなどまったく感じさせない。
「一体貴様らは、セツナ様に何をさせているのだ」
「……薔薇瞳は、今、病から来る心労で、正直限界だ」
リョウの怒りに何ひとつ反論しなかった紅蓮がぽつりと言った。
「できればここ以外で静養させてあげたい。なんとかならないか、リョウ」
紅蓮の言葉に、リョウは一瞬怒りを忘れた。
もともと紅蓮はリョウと仲がいいわけではない。どちらかと言うとお互い相手を見ないようにしているという冷戦状態だ。そんな彼がまるでリョウに助けを請うように行った言葉にぎょっとさせられたのだ。
「紅蓮」
結果的にリョウに頭を下げた紅蓮を責めるようにユージは彼を見た。しかし紅蓮も譲れない。自分では、ユージに逆らうことは出来ない。ユージと一緒になって犯してきた罪が重すぎる。だが、リョウならば。
リョウはまだ若いだけあって、情熱的だ、セツナにどれほど嫌われようとも、けして彼女を恨まない純粋さもある。事情を知らないということも今はかえって有利。
「……私が実家を勘当されたとき、手切れ金代わりに貰った別荘がある。王都の近くだ」
「そこに薔薇瞳を連れて行ってもらうことは出来るか」
「出来ることは出来るが……だがそもそも避暑用。冬は雪がすごい」
「それならそのほうがいい。薔薇瞳がどこにいるかは知られないほうがいいからな」
「紅蓮」
ユージが低い声で彼を呼んだ。
「言っただろう、薔薇瞳を神都からだすことは許されないと」
「許されないもなにもない。いいか、彼女はここから逃げ出したんだ!もう限界だったんだ。自分やあんたが追い詰めた!このまま彼女を壊したら自分は一生後悔する!それくらいならこの生意気なクソ女にだっていくらでも頭くらいさげる」
「薔薇瞳が不在の理由はどうする!」
「もう彼女の体調悪化は知られていることだ!誰か女官でも替え玉にして寝かせておけ!」
なんだかクソ女呼ばわりされたことは腹が立つが、それよりも紅蓮がこれほどに必死になるのを見たリョウは驚くばかりだ。自分が居ない間に一体何があったのか問い詰めたいが、それが出来る雰囲気でもない。
しかしリョウ自身も弱った薔薇瞳は見ていた。
あれはまるで……亡霊のようだと思った。暖かな神殿に戻ってきても彼女の頬に赤身は戻らない。食事さえ取れていないのだろうと判断できた。
リョウはセツナに神都から追放された。もともとセツナはリョウを嫌っていたのだ、団長だってしたくなかったはず。それはそれでセツナの譲れぬ人生観なのだろうと思うが、自分も譲れず、そして追放された。おそらく機を見て団長の地位は剥奪され、神都にも戻れないだろうと覚悟を決めたときの呼び戻しだ。
なにもかもがおかしい。
リョウは二人の怒鳴りあいを見ていた。
「薔薇瞳が不在なら、貴様は神都から出さないぞ」
「じゃあ一体誰が彼女を守る」
「……確かに薔薇瞳不在ならば、神都に犬くらいいたほうがいいだろう」
リョウは二人の会話に割って入った。
「私の別荘だ。私が行こう。隠密ならばなおのこと紅蓮はここにいたほうがいい。貴様は目立つ」
「……薔薇瞳を神都から連れ出すのは、私が許さない」
ユージは断固として譲らない。
神官長であるユージと、守護団右翼団長のリョウなら、リョウのほうが地位は低い。しかし、リョウは紅蓮の言い分に味方することにした。なんにせよ、今の薔薇瞳は異常だ。
「だが決めた」
リョウは薄く微笑んだ。
「いいな、紅蓮」
「頼む」
「許さない。ならば、リョウ、お前の団長職を解くぞ。いや守護団自体を追放する」
大体。
リョウは内心で吐き捨てた。
そもそもこのおっさんが嫌いなんじゃ、私は。
私が忠誠を誓うのは、薔薇瞳のみだ。何様だお前。彼女が神殿を嫌がっているのなら、自分は喜んでその意志に従おう。てめえのいうことなど知るか。
品のいい微笑を浮かべ、内心で口汚く罵った。
「私や紅蓮以上にセツナ様を守れるものがいるなら紹介してもらおうか?」
リョウはユージの卓上にあったペーパーナイフを取った。紅蓮ですらかろうじて目で追えたほどの素早い動きでそれをユージに投げつける。
狙い通り、ユージの頬をかすめ、それは背後の壁に刺さる。道化た表情でリョウは微笑んだ。
「いいか、あの方を休ませてやれ。今日戻った私でもわかる。あの痩せ方は異常だ」
ユージはリョウを睨みつける。
「本当に任を解くぞ?」
「なるほど、神官長殿の裁量でうちの守護団長を動かすか、そうだな、あのじじいはもう実際の人事権はないも同然だ。それは困った」
ユージが裏の手を使うなら、こちらにも考えがある。
「……勘当されたとはいえ、私は祖父の秘蔵っ子」
リョウは微笑む。貴族の乙女らしい優美な顔で。
「リョウコ・ミズハはこれでも王家に連なるミズハの一人。王都と無用なトラブルを起こしたいのならそれも結構。よいだろう、祖父に貴様の暴虐を告げよう。あるいは我が友カイエンは神都に対して理解があるからセツナ様に同情なさるかもしれん」
ユージは不愉快極まりないという顔をした。
汚い手段と言う点では同レベル。
「聞こえたか、神官長殿」
にらみ合いに勝ったのはリョウだった。
「薔薇瞳様に休暇を与えよ」




