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それは世界にとっては言祝ぎで、けれどナユタにとっては呪詛だった。
鮮やかな血色の瞳。
薔薇瞳と言う。
丸一月、神殿の奥で闘病していた薔薇瞳の女神が、神都の民の前に姿を見せたのは、暑さを強く感じさせる瑪瑙の月半ばだった。
第三十七代薔薇瞳の女神は、名をセツナと言い年は十七になる。三歳の時に、薔薇瞳の血を目覚めさせ神殿に召し上げられた。薔薇瞳としては比較的早期に見つかったうちであり、十分な教育を与えられた。元は市井の出……口さがない噂によれば、母は娼婦だったという……であるにも関わらず、今では、もとからある薔薇瞳信仰に加えて、薔薇瞳セツナ様として民から敬愛の念をもたれていた。
誰もが母の言葉を聞く子のような気持ちになる穏やかな口調で民に女神の話を説く一方、多くの民を動かす原動力である信仰を、隙あらば国家の下位として位置づけようとする王都やその軍を相手に渡り合う度胸と策を持っていた。
かつて倒れるまでは日に一度は必ず神殿のテラスに現れ、民に安寧を与えていたその姿は、美しかった。髪はいつも薔薇瞳信仰における彼女の正装である大きな帽子に隠れていたし、首から手先、足の先まで頑丈な衣類に包まれていたが、その顔は、確かに美しいと言ってよい。
最高級の紅玉を髣髴とさせる血の色の瞳は、その端正な顔に深い知性と共に輝いていた。
薔薇瞳の女神は、薔薇瞳信仰の現世の対象で有ると共に、人の敵に対して最大の攻撃力をもつ兵器とも言える。
彼女は人を守るために、在る。
そのセツナが病に倒れたと聞き、民はこぞって神殿にやってくると、彼女の快気を初代薔薇瞳女神に祈った。
もちろん薔薇瞳がいなければ、人は『敵』に対して対抗の手段を持たないも同然だ。彼らは人より遥に強く、長命で、そして残酷だった。民は不安におののき、けれど打算を超えた愛情でセツナの回復を祈っていた。この時ばかりは普段は仲の悪い現ニギハヤヒ王より花をはじめとする回復祈願の品々が届いたという。
そして、今、彼女はようやく民の前に姿を現した。
テラスに彼女が現れているという噂はあっという間に神都に走った。神殿は、神都の中枢であるとともに、都そのものである。百年前の王が、神殿を作るという構想を立ち上げ、それはあまりに壮大だったが故にすでに九十年にわたり建築が進められているにも関わらず、未だ半分しか完成していないという。
その王が自分の私財を全て投じたというのも、王都と神都がいがみ合う一因でもあるのだが。『王』の私財である以上王家の管轄である。否、王の『私財』である以上神都はどこにも属さない。二つの意見はまったく相容れることがない。
そんな俗な生々しさを抱えた都ではあるが、神殿は午前の彼方まで青く透き通る空の下、奇跡のような美しさだった。
希少な大理石を中心に作られた神殿は、かしこに薔薇瞳信仰の歴代女神や従者の彫像が神々しく置かれていた。神殿に置かれるような芸術品を作るというのが、百年の芸術家達の望みであった。
謁見のテラスは、初代薔薇瞳女神を右に、その従者である赤の剣士を左にしていた。どちらの像も稀代の変人とされたこの神殿の建築設計を行った者の手による。その者も遥か昔に儚くなっているが、彫像は今も光を受けていた。
紙一重、といわれるが、確かに凡人があえて妥協するところを一歩も譲らずに作られた神殿は、すでにそれ自体で神々しい。どこまでも繊細な彫刻が施されているかと思えば、その塔の高さは大胆を超えた高さである。この塔の建設に、すでに十人もの転落死があったというくらいだ。まだ残りは二つもあるというのにだ。
神殿の前には人がどんどん増えていくばかりである。薔薇を中心とした庭園は、ごった返していた。
テラスで手を振る薔薇瞳セツナは確かに一ヶ月前と比べて一回り小さくなったようであった。それが病いの重さを感じさせ、そしてそれに打ち勝った彼女への信頼をより強くさせるものとなった。
儀礼用の純白の衣。国の東のとある地方特産の織り物は、その複雑な工程によって薔薇の模様を淡く浮かび上がらせる。揃いの布で作られた大きな帽子は宝石で飾られていた。長く引いた裾は女官の手により波打つようなドレープを描いて床にあった。
以前より少し幼いような、柔らかな笑顔で彼女は手を振った。椅子に座ったままなのは、まだ体力が戻っていないためだろう。
彼女の横には神官長であるユージがいた。年のころ四十代初め、彼もまた縦に長い美しい深紫の帽子とそれと色調を合わせた正装に身を包んでいた。最近庶民にも普及し始めた眼鏡をかけている。ちょっと見はただの壮年男性だが、その眼鏡の奥の瞳は恐ろしく鋭い。
その彼が、すこし身を屈め横の薔薇瞳に耳打ちした。何か言いたげに薔薇瞳セツナは彼を見返したが、それでも特に言葉を発することはなかった。
そして、彼女はゆっくりと立ち上がる。そのよろよろとした足取りに、一瞬群集は静まり返った。とても病の前の彼女と同じには思えないほど弱々しく見えたのだった。
しかし薔薇瞳はテラスに手袋に包まれた手をそっと預けはしたものの、以前と同じ笑顔を再び民衆に向けた。そこには確かに変わらぬ威厳があった。
彼女の血の色にも似た最も濃い赤の瞳。
薔薇瞳は変わらず彼女のものとして輝いていた。
長いドレスの下の彼女の足が、震えていたのを知るものはいない。
話はその十日前に遡る。
夏の初め、畑は穀類を実らせる草で濃い緑に染まり始めていた。この地方の夏は少し遅いため、吹く風は頬に心地よかった。
ナユタは畦にそって、裸足のまま歩いていた。風は涼しく、土の冷たさが足には快適だ。
秋津国は大陸の東の中規模の国家だ。神都とも王都とも離れたここは秋津国、東の端である。小さな村だが、この地方は秋津国の穀類の多くを生産していた。開けた平地は一面に深い緑だ。夕日を受けてそれは金色にも見え、秋の実りの予兆のような光景であった。
ナユタはその村の領主の娘である。領主とはいえ、小さな村だ。けして裕福とは言えず、領主もその妻も自ら田畑に出ることで、食べるになんとか事足りる収穫を得ていた。数年前、ナユタが成長期であったころ、数年の凶作が続いたが、ここしばらくは落ち着いている。
光に照られた部分がわずかに柔らかさをおびた茶に見えるくらいの濃い黒の髪はぼさぼさだった。着ているもののは田舎っぽく素朴だ。中途半端な長さでもたっとしたスカート、あきらかにお下がりで大きさがあっていないシャツ、しかも先ほどうっかり草むらに転げ落ちて、全身草と小枝にまみれている。
良く日に焼けた顔はまだ幼い。美しいとはとても言えないのは、垢抜けなさが目だってならないからだ。顔自体はあどけなさを若干残していて、やせぎすで目だけが大きく見えた。
どこからどうみても、ただの田舎の農家の小娘だ。
しかし、その目は。
本来ならば幸福な夕べ、しかしナユタの顔は沈んでいた。
「まだ、どこかにないかな」
ナユタの持つ蔓で編まれたかごには、同じ種類の草が詰まっていた。この地方で取れる薬草である。ほぼ民間療法に等しく、効果のほどは疑問だが、ナユタに出来ることはこれくらいしかない。
ナユタの母は今、病んでいた。
母とはいえ、血はつながっていない。領主夫婦は非常に仲睦まじいが、長らく子どもができなかった。長きに渡って彼らは苦悩したが、結局孤児院にいたナユタを養女として迎え入れたのだった。本当は男児を希望したが、領主の妻が、ナユタを気に入ってしまったのだという。ナユタが五歳のころの話である、正確な年齢は誰も知らない。おそらく今は十五歳くらいだろうといわれている。血がつながっていないにも関わらず、二人は我が子のようにナユタを可愛がり、ナユタも己の出自を知っていたが、二人を慕った。
いずれはナユタに誰か婿でもとって。
そんな話がわきあがったころに、領主の妻は病に倒れた。
都ならば治せる手段もあるかもしれないが、国の果てでは適わない。都に連れて行くことが出来るほど、この村も領主も裕福ではない。
領主は誰を責めることもなく静かに嘆いていた。
ナユタに出来ることは、せめて痛みを止める効果もあるこの薬草を積むぐらいだ。しかし貴重なそれは朝早くから探しても期待したほどには取れない。日が落ちるというのに、ナユタはまだ歩みを止めなかった。
そして森が近くにあった。
黒い森には夜近づくな、とあれほどいわれていたにも関わらず。
はっとナユタが気がついたとき、すでに『それ』はそこにいた。
「こんばんは」
薄い唇が歪んで笑みに似たものを作っていたが、反射的な恐怖を引き起こすほどの異質な存在だった。
ぞっと背中が総毛立つ。
見目は麗しい。彼らは皆、決まったように同じ身体的特徴を持つ。すべての光がそれを輝かせるためにあるのではないかと思われるほど豪奢な金髪。濃く、どこか琥珀を思わせる透明感ある金色の目。
ただその金色の目は、不思議な色を放つ。虹彩にそって細く瞳孔を囲むのは、蛍光色の揺らめきだ。緑や桃色、朱のきらめきが角度によって様々に変わった。その揺らめきは見つめていると何もかもがどうでもよくなるような魔性を持っていた。
悪意ある神の意図とさえ思われる完璧な配置を持つ顔立ちは、その金を除けば後はひどく白い。唇の赤身ですら、かすかだ。
彼の着ている服は、この地方では普通お目にかかることさえ難しいような豪華なものだった。長いマントを優美に翻して、彼は貴族的に頭を下げた。
言葉さえ一言も発することが出来ず、ナユタはへたりと畦に腰をついた。そんな彼女を楽しそうにそれは覗き込む。
「そんな反応はちょっと寂しいなあ。せめて挨拶くらいは返してもらいたいよね」
そういわれてもナユタは声を出すことさえできない。
にいっと笑ったその口の中に、鋭い牙を垣間見たような気がした。
かれらこそが、人の、薔薇瞳の、敵である。
「夜見の血族……」
ナユタはかすれる声でそれだけ呟いた。
千年以上前に、世界中、全てを巻き込むような大きな戦争があった。
それまでの世界は今の世からは考えられぬほど、文明が発達していたという。人は風の早さで世界中を移動し、空の果てにさえ到達したというし、全てを視界に収めることができないほど高い塔、逆に生き物さえ居ないような地の深みに道をつくっていたとされる。
それが伝説と化してしまうほどに、すべて戦争で失われた。
その後、出現したのは彼らだった。戦争直後の混乱に乗じて、人を支配した。彼らは人の血を糧として生きる種族だったのだ。彼らがどこから来たのかは誰も知らない。
のちに、初代薔薇瞳の女神が現れ、人が反撃の手段を得るまで、およそ四百年に渡って大戦以上の暗黒時代が続いたという。人が家畜とされていた時代だ。
しかし薔薇瞳の力をもってしても、完全に彼らに勝つことは出来なかった。大陸の北はほぼ全て彼らの支配がまだ及び、都であっても『夜見の血族』が度胸試しでもしているのか面白半分に人を襲って死なせる事件は防ぎきれるものではなかった。
「我々も、情報通がいるんだ」
にこりと夜見の血族は笑った。
「この辺りで薔薇瞳が生まれたという噂を聞いてさ。それで挨拶に来たんだ」
薔薇瞳は人の子の中から突然生まれる存在だ。数日の熱病ののちに、瞳があの色に染まる。そして起こるのは血の変質だ。
薔薇瞳の血は『夜見の血族』にとっては毒となる。彼らが一口でも含めば夜見の血族を炎上させ、死に至らせる力だった。しかし数は恐ろしく希少。まるで一人の薔薇瞳の死期を見越したようなタイミングでしか見つからない。それさえかなわず、薔薇瞳不在の期間もあるくらいだ。そういった時の人は、やはり夜見の血族に反撃できず、種族としておそろしく弱体化する。
「わ、わたし」
ナユタは逃げることさえできずに彼を見上げていた。夜見の血族一人は、人の十数人の力に匹敵するからだ。種族としての絶対的な力の差。それに怯えた。
仮に薔薇瞳といえどそれは変わらない。
ナユタの瞳は暗闇に沈みつつあるとはいえはっきりとわかる薔薇瞳の色だった。半年前の高熱を思い出す。
両親はナユタが神都につれていかれることを恐れ、それを伏せておくことにした。所詮小さな村だ、そして領主は村人に慕われている。ナユタのことはひっそりと地方のカーテンの向こうで隠される予定だった。
けれど、夜見の血族は想像以上に薔薇瞳を恐れ、憎んでいるのだろうか。人よりも早くナユタの存在をかぎつけた。
「こっちは、あなたを喰うことは出来ないんだよね。せっかく可愛らしい顔で、よいお年頃なのに残念。惨殺されるより、喰われたほうがあなたにとっても良いだろうに。死に伴うものは苦痛だけだけど、こちらの贄となればそこに悦楽も混ざるんだよ、知ってる?」
夜見の血族、のことは小さな子どもだって知っている。彼らがどれほど異質で不快で、だからこそ人を魅了するのかということは、実際にあってみるまでわからないが。しかしあった瞬間には遅いのだ。
夜見の血族に咬まれ、血を吸われても、まれに死なないものがいる。しかしそれはやがで自我を失い、結局人には戻れないが、彼らは夜見の血族を求めるそうだ。奇跡的に人の意識を長く持つ続けたものの手記によると、彼らに血を求められている間、性の悦楽を上回る快楽があるという。
夜見の血族は一歩を踏み出した。