1-14
季節は厳しさを増していた。
ナユタが王都に出かけ意気消沈して戻ってきてから半月、その間に季節は冬になっていた。
「セツナ様!」
イルネが閉ざされた扉を叩き叫んでいた。イルネはサワに代わってナユタの専属になった女官だった。ある程度ナユタが神都に慣れ、今いるのはセツナではなくナユタであるという事情を知らないものでもなんとかなるだろうという判断だった。ナユタと年が近いのはユージの配慮だろう。サワはセツナに付きっ切りだ。
イルネはおっとりとしていい子だ。サワのようにキリエの物まねをして悪びれないような逞しさはないが、ナユタのことを純粋に好いていた。
だが。
ナユタは小さな小部屋にこもって昼に食べたものを吐ききってしまった。こんなところは誰にも見られたくない。大して食べてもいないが、それさえ消化できない。
ナユタは青ざめた顔で立ち上がった。
王都から帰ってきてから殆ど食べられない。最初は王都に行って受けた嫌がらせのせいだろうと思っていたがどちらかと言うと、日に日にひどくなってきている。
イルネだけは知っているが。
「セツナ様」
ゆらりと亡霊のように、ナユタはそこから出てきた。イルネの横を通り過ぎる。ナユタをセツナだと思っているイルネは薔薇瞳の変容を知らないまま青ざめる。
「イルネ、ごめん。後始末しておいて。ごめん、迷惑掛けて。いつもごめん」
「謝らないで下さい、セツナ様……」
そんなことはどうでもいんですよ!私の仕事ですから!とイルネは叫ぶ。
「それよりセツナ様のお体のほうが心配です。殆ど毎食じゃないですか!」
「なんでだろう、ごめん」
ナユタは自室の長椅子に倒れこむようにして座った。嘔吐するのも体力がいる。
「やっぱりご病気なんじゃないんですか?」
イルネのほうが泣きそうだ。
「ユージ様かキリエ様に相談しましょうよ、このままじゃ倒れちゃいますよ、セツナ様」
「だめよ」
ナユタは起き上がった。少女らしくふっくらしたイルネの手を掴む、骨ばった自分の指が滑稽なほどだった。
「誰にも言っちゃだめ」
「だって。それなら紅蓮様なら」
「誰にも言わないで!」
ナユタはぎっとイルネを睨む。
「これくらいちゃんとできないのはわたしのせいだから。くだらないことで相談しちゃいけない」
これ以上自分が無能だと思いたくなかった。
王都から戻ってからもひたすら本を読んで勉強している。しかし賢くなった自信はまったくない。どうあがいてもセツナに追いつける見込みがなかった。
王都から戻った翌日、なぜかカイエンから手紙が届いた。恐ろしい早さだ。その日のうちに書いて使者をよこしたのだろう。
部下が無礼を働き申し訳なかったと書かれていた。何が無礼だというのだろうか、彼はナユタに真実を言っただけだ。ナユタはさっと読んだだけでそれをしまいこんだ。
いずれこちらから伺うという言葉はどうでも良かった。こちらに来れば対応はユージに任せられる。とりあえず、先日のお心遣い感謝しますという通り一遍の返事をして、ナユタは王都のことはしばらく忘れることにした。
忘れればきっと元に戻る。
後片付けをしているイルネに申し訳なく思いながら、ナユタはじっとしていた。早く仕事を始めなければと思う。
冬は巡礼者は少ないのがありがたい。その分式典だのわずらわしいことが減るからだ。あの正装も今のナユタには負担になっている重さだ。
頑張らなければと思うが、うまく体が動かない。
最近故郷のことばかり夢に見るようになった。あの質素な家で、両親が笑っている。母が何か料理を作っていて、その香りまで夢の中で再現されていた。母も父も何か語りかけてくるのだがナユタにはうまく聞き取れない。とても楽しそうなのに自分だけ入れないのだ。母が食事を皿に盛って笑いかけるところでよく目が覚めた。
目が覚めると楽しい夢だったのになぜか胸が痛んだ。
実家には良く手紙を書いた。頑張っているので平気です、という言葉でいつも締めくくる。ユージに投函を頼むといつも快く預かってくれる。けれど、返事が来たことはない。とても田舎だからもしかしたら届かないこともあるかもしれないね、とユージが申し訳無さそうにいつも謝ってくれる。ユージのせいじゃないのにと胸が痛くなって、尋ねるのをやめた。
午後、仕事に努めたが、徐々に苦しくなってきた。結局休み休みで、日が落ちそうになってもあまり作業は進まなかった。
イルネがうるさいので、結局諦めて夕刻長椅子に横になっていた。どうせ夕飯を食べても同じことになるような気がした。
目を開けるとやっと回っていない風景が見えた。
けれどなぜかそこに怒っている紅蓮の顔があった。
「……紅蓮?」
紅蓮がナユタのそばにいないことは殆どない。守護団の演習や夜見の血族の討伐に借り出されることがあるが、その時には大勢の守護団がナユタの周りをすぐ固めるから良くわかる。だがそばにいてもその気配を察することはあまりなかった。
特に話をするのは、夜の一時だけだ。こんなふうにまだ夕刻からナユタのそばに現れて話しかけるなどめったにないことだ。
「どうしたの、珍しいね」
「あんた具合が悪いのか」
紅蓮は直球で聞いてきた。そのまま遠慮なくナユタの服を掴む。寒さが厳しくなってきて厚着になってきたために、ナユタの痩せ方はわかりにくい。しかし顔を良く見ればわかることだし、触れられてしまえば一目瞭然だ。
「別に」
「別にもへったくれもあるか。骨みたいだぞ」
そろりとイルネが顔を出した。紅蓮の剣幕にぎょっとして顔をひっこめる。
「大丈夫。ちゃんと皆と食事しているじゃない」
「少しだ」
「貴婦人は少ししか食べないものよ」
失礼ね、とナユタは微笑む。ナユタの反応に紅蓮はめずらしく困ったような顔をした。ためらってから手を放し長椅子のナユタの横に腰掛けた。
「だが毎日見ているが明らかに痩せてきているぞ」
「年頃なんじゃない?」
ナユタは紅蓮から逃れるように立ち上がった。紅蓮は痩せたと責める。しかしそれこそナユタにもどうしようもないことだった。
「薔薇瞳」
紅蓮がその背になおも声をかけてきた。
「大丈夫」
顔も見ずに答えると、紅蓮の気配が強くなった。
「あんたなんか今日仕事あるのか」
「あったりまえでしょう。あははうふふと過ごしているように見えるわけ?」
ナユタは頭が痛くなるほど詰まれた手付かずの書類を指差した。
「つまりいつもどおりと言うことだな」
紅蓮はイルネを見た。
「おい女官、少々薔薇瞳を借りるぞ」
「え、紅蓮様?」
イルネが頓狂な返事を返したときにはナユタは紅蓮の腕に横抱きにされていた。彼の馬鹿力はわかったが、この荷物同然の扱いはあんまりではないか。紅蓮はナユタの外套を掴むとナユタの頭に乗せる。
「落ちないように押さえていろ」
「は?」
紅蓮はナユタの執務室の窓を開けた。そのままひょいと一歩踏み出すような気軽さで、地上五階から飛び降りる。
「紅蓮様、セツナ様!」
イルネの声はナユタの悲鳴にかき消された。
以前似たような扱いにあったことはあるが、だからと言って慣れるものでもないし、慣れたら慣れたで別の意味で困る。
「紅蓮!」
ナユタは雪の庭園に降り立った紅蓮に文句を言おうと口を開いた。しかしそれより先に地に下ろされる。ずれた外套を肩に掛けられた。
「着ろ」
「だって仕事」
「休みにすると女官に言った」
「イルネに言ったって……」
何を考えているかわからない紅蓮に呆れながらとりあえずナユタは外套の袖を通す。
「来い」
有無を言わさぬ強さで紅蓮はナユタの手を引いた。空は鈍い色の雲、今にも雪が降り出しそうだ。
「ちゃんと被れ」
外套のフードを深く被らされた。紅蓮も目深に被り、自分の赤い髪を隠している。暗い影のような二人は、神殿の壁沿いに歩いた。長い裾もあって、お忍びの巡礼者と見えないこともない。紅蓮が神殿の隅にあった木の扉を蹴飛ばす。身を屈めなければ通れないそこは、今はあまり使われていないが昔の通用門のようだった。
「行くぞ」
先に通り抜けた紅蓮は外からナユタに手を差し出した。一体なんだかわからないが、ついていくよりない、そんな困惑ばかりでナユタは扉を潜り抜けた。そして気がつく。
「紅蓮、ここって」
そこは神殿の外だった。その道は、あまり人通りもないが、すぐ見ている曲がり角の向こうからは活気に満ちた声が聞こえてきた。
神都に来て数ヶ月たつが、ナユタは神殿の外に出たことは殆どなかった。神都は静謐な場所でもあるが、巡礼者をはじめとして、極めて多くの人々が訪れる観光都市でもあるのだ。初代薔薇瞳の横顔を掘り込んだメダイの彫刻を発端として、金銀の細工でも有名だ。知らないだけで多くの人間が生活を営んでいる。普通の、生きている町が
「ここって……」
「あんたはまだ、神都を歩いたこともないのだろう」
紅蓮はぽつりと言った。
「行くぞ」
「行くってどこへ?」
「神都だ。なんだ知らないのか。あれはセツナが夜遊びするときに良く使っていた通路だ」
「は?」
セツナと夜遊びとはあまりにかけ離れているような気がした。歩き出した紅蓮を追ってナユタも歩き始める。
「夜、うつむき加減でいれば、なかなか人は薔薇瞳がその辺をうろうろしているとは思わないものなんだ」
「そ、そうなの?」
「怖ければこれをかけていろ」
紅蓮が外套から出したのは、濃い色のついた眼鏡だった。そういえば王都にいった時、目の悪い老貴族がこれを欠けていた。これをかければ目の色は分かりにくくなる。
「目の悪い貴族が神都に巡礼に来ること自体はそう珍しくない」
それをかけると、ただでさえ日が暮れてきて薄暗い風景がさらにおぼろになった。薔薇瞳は隠されたが今度は足元がおぼつかない。と、紅蓮がナユタの肩を抱いた。見上げれば紅蓮の端正な顔が間近だ。
「紅蓮」
「小一時間ほどだ。黙ってついてこい」
まったく有無を言わせないとはこのことだ。ナユタは少し足取りを緩くしてもらい、彼と一緒に歩き始めた。
「セツナはなんで外に出たの?」
「『やってられるかクソ王家』とか『丸投げすんのもいい加減にしろ死ねユージ』とか呟いていることが多かったな。外に出ると」
「いろいろ鬱憤がたまっていたんだ……」
ふとセツナが身近に感じた。まるで初代に等しいくらい神々しい薔薇瞳だと思っていたが、彼女の人間くささが少しだけ感じられる。誰も話してくれないから、そんな面があるなんてことも今初めて気がついた。
「セツナは強かったと言っただろう?剣術じゃなくて、東北の地方に独特の体術がある。セツナはそれも齧っていた」
「すごいね」
「カラテというが、以前その伝道者がここに来たことがあってその時に、技術を見せてもらったらしい。こう何枚も重ねた板切れをだな、一気に全て真っ二つにするんだ、手で」
「……それって人間業なの?」
「セツナに出来るのだからそうなのだろう。一撃で割れると爽快だと言っていた。それでも我慢ならないときはこうして外に出ていた」
「紅蓮も一緒に?」
「……俺がいると、うっとしいと思うらしくてね。彼女は一人を好んだ。だが魔犬としてはそれをそうですかともできないから、遠くから見ていた。もちろん彼女はそうと知っていただろうが、それでも一人になりたかったのだろう」
セツナは周囲に人の気配が途絶えることがない事に嫌気がさして、こっそり出かけていたのか。今、自分は周りに人がいてもいつだって一人だという気持ちが消えないというのに。
ナユタは外套越しに紅蓮の体温を感じていた。
彼女とは違う理由で、今外にいることが嬉しかった。それは紅蓮がそばにいるからだと気がつく。
今は多分一人ではない。
路地は赤々とした光が幾つも灯っていた。宿場の食事所が道沿いにずっと続いていた。屋台も多い。窓からは灯りと一緒に人の騒がしい声や音楽があちこちからもれ聞こえていた。急に増えた人に押されながら、ナユタは紅蓮に庇われるようにして歩く。
「ここだ」
店の一角の窓が開き、そこから湯気が立ち込めていた。初めての、けれどおいしそうな食べ物の香りが急にナユタの鼻をくすぐる。
「……これなに?」
「彼女が外に出るたびに買っていたものだ。俺には良くわからないが」
店のものが手にしているのは蒸篭の蓋だ。巨大な蒸篭の中からの湯気越しに見えるのはたくさんの白い饅頭のようなものだった。手の平ほどの大きさのそれ自体がほこほこと湯気を上げている。
紅蓮が店主に声をかけ、二つほど紙に包まれて渡された。ついでに紅蓮が麦酒の瓶を買う。
「なんだろうね、これ」
「あんたの村にはなかったか」
「なかったよ」
それが入った紙袋は温かい。手を温めながらナユタは紅蓮の後をついていった。その後も紅蓮はあちこちに寄った。香ばしく焼かれた肉や鮮やかな色の飴、焼きたての菓子、いろいろなものを買い込む。
「紅蓮も食べるの?」
「俺はそういったものはいらない」
「わたし一人じゃ食べきれないよ!?」
「いいんだ」
なにがいいのかわからないが、紅蓮は短く答えただけだ。
「神都の中がこんな風になっているなんて知らなかった」
ざわめく人はしだいに数を増している。道の先には広場があって音楽はそこからひときわ大きく流れていた。広場ではあちこちに小さな輪が出来ていてそこで芸人が音楽を奏でたり踊ったりする様が見えた。たき火がかしこにあるため人の熱気もあってあまり寒くなかった。
「綺麗だね」
橙の灯りが空気さえ暖かくしているようだった。広場の真ん中にある噴水が見える場所にあるベンチに二人は腰掛けた。
「食べろ」
なぜいちいち全て命令なのか、と思いながらナユタは最初に買った饅頭を食べてみた。珍しく自分が空腹だったことを思い出した。
柔らかくしっとりとした白い皮の中にまだ舌を火傷しそうに熱いタネが出てきた。ひき肉が香草やみじん切りの野菜ととも包まれている。
「……おいしい」
「そうか、全部食べろ。他のも食べろ」
それは無理だと思ったが、紅蓮は麦酒にだけ口をつけていた。ナユタも無言でそれを食べる。紅蓮を見ていたナユタはやがて広場の人々に目を向けた。
神殿の中では見られない、多くの人々。皆笑っていることに気がつく。
「……楽しそう」
「命の危機がなく暮らせるというのはそういうことだろう」
呟いた言葉に返事があるとは思わなかったため、紅蓮への返事は一瞬遅れた。
「え?」
「千年前の大戦、その後の暗黒の四百年。たかが四百年だと思うか?一体何世代が夜見の血族の単なる食料として終わったか。自分達がただの食料でないということの幸せとは得難いものだろうな」
「……うん」
神殿にだけいたらわからない何かが今見ている光景にあった。薔薇瞳とはなんだ?という問いの答えに近い。
薔薇瞳が魔犬と守護団、そして神官を率いているのは全てこの風景の継続のためだ。けして組織を続けるためではない。
この風景だけが薔薇瞳が薔薇瞳たる理由と結果。
セツナのことをナユタは考えていた。彼女がときどきこっそりでかけていたのは、神殿では口に出来ないものを食べて、ここではしゃぐためだけではないのだろう。きっと今、ナユタが考えていたようなことを考えていたはず。
強く誇り高い薔薇瞳セツナ。
彼女の迷いがかすかに手に触れた。まったく違う存在だと思っていたのに、抱える重みに自分と同じものを見つけた気がした。




