1-13
「ねえ」
セツナが不在の神都では、一つ問題が持ち上がっていた。
キリエに声をかけてきたのはユージだった。女官達に、神殿の冬に備えた用意を促していた彼女を手招きする。カーテンの色合いを見ていた彼女はしぶしぶというようにやってきた。
「なんですか」
「ちと困ったことが」
「知りません。自業自得です」
「うへえ、内容聞く前からそれですか」
「普段の自分の行いをよく考えてください」
「人生を教団に捧げて清廉潔白な生活をしています」
もはや反応するのもうんざりとばかりにキリエは女官達に向き直った。
「というのはさておき、申し訳ないけど本当にちょっと来てくれるかな」
ユージが声を低くした。その顔は先ほどと変わらぬ薄笑いが浮かんでいるが、付き合いもいよいよ長くなっているキリエは違和感を覚える。確かに何かが起きている。
女官達に続きを指示して、彼女はユージについて歩き始めた。回廊を渡りユージの執務室に向かう。この時間、神官は訪れる巡礼者のために礼拝を行ったりして忙しい、女官を始めとする勤務者も一番動き回っている。
ユージも先ほどまでは別の場所にいたのだろう。暖炉に火が入っていない。寒々しい部屋だが、二人はそこには特に触れなかった。
静かな部屋、それも一度扉から首を出してあたりに人がいないか良く確認してから扉を静かに閉めたユージは話し始めた。
「手紙が来た」
「……薔薇瞳様関係、ですか」
「もちろん」
ならばそれは一つしかない。ナユタの家族からだ。
「これ」
ユージが懐から出したものは、質素な手紙だった。一番安そうな封筒にうすっぺらな紙。それは封を切られていた。
「開封したのですか」
「責めるかい?」
「いいえ」
ユージからそれを受け取ってキリエは中身を取り出した。宛て先は紅蓮、そして差出人は。
「……あの方のお父上ですね」
「そう。多分彼女の名前では届かないと思ったんだろう。だから紅蓮宛にしたんだ。でもそんなことありえないからさ。紅蓮に手紙なんて。だから気がついた」
「あの方は?」
「さっき届いたんだ、手紙のことさえ知らない」
聞いてないと思っても、セツナやナユタの具体的な名は伏せられていた。
「読んでも?」
「もちろん」
キリエはそれを読み始めた。最後までも読み終わっても彼女の冷徹な表情はびくともしない。ユージはそれを頼もしく思うと共に、少々の怖さを感じた。
「お母様、お亡くなりになったのですね」
ぽつりという言葉にもぶれはなかった。
「それだけは伝えたかったんだろうね」
几帳面な字で書かれたそれは、ナユタの父からだった。知性ある優しい文章が綴られた長い手紙。ナユタの母が死んだこと、けれど立派な葬儀であったこと、ナユタの様子を気遣う言葉、それだけが父親の愛情を痛いほど感じさせる丁寧な言葉で書かれていた。
「返事が欲しいとは書いていない」
「娘の負担になるのを恐れているのでしょう。立派な方です」
「さて、これどうする?」
キリエは珍しく微笑んだ。しかしそれは氷柱が反射する光にも似た冷たく鋭いものだ。
「開封した時点で、あなたにも彼女に見せるつもりはなかったと思いますが?」
「……まあね」
ユージは短くため息をついた。
「里心ついちゃうよね、こんなの読んだら」
「それだけならまだしも、母の死に目に会えなかったことで、私達を、ひいては神都を恨む可能性もあります」
二人は黙った。結論は出ている、あとはどちらが決定するかだ。
キリエが返した封筒をユージは受け取った。しかたない、キリエにはずっと汚れ役を引き受けてもらってナユタを教育させている。
ユージは暖炉の前に向かった。そこで、封筒ごと中の手紙を破き始める。細かくなったそれを、花吹雪のように暖炉に投げ捨てた。灰の中でそれは白く浮かぶ。残り火に触れたいくつかの破片はすでに黒く焦げはじめていた。
「手紙は届かなかった」
「そうですね……紅蓮には?」
「知らなくてもいいだろう」
キリエとユージは淡々とした言葉を交わす。
「それでは私はこれで」
「冬支度は忙しいよね」
「あなたも礼拝の続きはどうなさったんですか」
いつもの会話を続けながら、二人は彼の執務室を出た。キリエは先ほどの仕事場に、ユージはキリエに尻を叩かれるようにして神殿に向かった。
誰もいなくなったはずの彼の執務室。
不意に空気が揺れた。
静かに開いたのは扉だ。足音を立てないように何者かが入り込んでくる。
それは暖炉の前で立ち止まった。
撒き散らされた白い手紙。
……伸ばした手は、手早くそれを集め始めた。
昼過ぎ、ナユタたちはようやく王都をあとにすることが出来た。
食後すぐさま帰ろうと思っていたナユタだがカイエンはナユタについて離れなかったのだ。宮殿の絵画をどうか見ていって欲しいといい始め、固辞するナユタの言葉を遠慮ととったのか、半ば無理やり宮殿の芸術回廊に連れて行ってしまった。
ようやく解放されたときにはナユタの目は疲労ですでに虚ろだった。
「よく、頑張った」
馬車の中で紅蓮にそう言われた時は泣いてしまおうかと思ったほどだ。
有名な画家や彫刻家。ナユタもそういった芸術家の名前くらいは学んでいるが、実際に目にすることなど初めてだ、気のきいたことなど言えるわけもない。ただカイエンが説明するものをひたすら聞いているだけだ。
ただ作品群は確かに素晴らしかった。
巨匠の大作など、そこに立ち止まって何時間も見ていたいほどだった。初代薔薇瞳は伝説でしかないのに、彼女が剣を掲げた迫力在る絵画など、まるで本人がそこにいるかのようだった。
しかし、ナユタがふと気になったのは、カイエンが説明もしなかった小さな作品だった。片手で持てそうなほど小さな油絵。
それは海の遠景だった。浜には小さな影のように、老人が座り込んでいた。表情などまったく描き込まれておらず、こちらに背を向けている。
郷愁、諦観、疲労、黄昏。人生の苦さを思わせるが、どことなくそればかりではないように思える不思議な絵だった。それでも、彼は何かを信じている。そんな背中だった。
ナユタが見つめているのを不思議に思ったカイエンが声をかける。
「その絵どうかしましたか」
「いいえ……でも」
「気に入りましたか?」
「わかりません、でも不思議な絵です」
ナユタは遠慮がちにそれだけ答えた。自分が絵について語るなど不遜だ。
王宮の画廊を出たところでようやく王都を辞することが許された。
ひっぱりまわされたせいと言うよりは、とにかくカイエンのせいで疲れたが、なんとかナユタは馬車の中にもぐりこめた。また盛大に見送る王都の人々に手を振って、彼らはそこから去ったのだった。カイエンはナユタに気遣ってくれなかったが彼が悪い印象をもっていなければいいと思う。
馬車が王都から去るにつれてナユタの表情は精彩を欠いていった。
本当に、自分はなんと無能な。
カイエンの側近に叱られたことが一番つらかった。自分の無知ゆえにしでかしてしまったことを思うと胸が重苦しくなってくる。
「具合が悪いのか?」
「大丈夫」
しかし気持ちはまた浮上してきた。だんだんそれは強くなってくる気がする。
「何か飲むか?」
「いらない、ありがとう」
自分の無知が悲しかった。もっと力が欲しいが得る方法がわからない。努力だけで追いつけるものならと思うが、あまりにも時間がかかる。
わたしなんて、むしろいなければ。
昨夜紅蓮の言葉にかき消された言葉が蘇る。
止めさせてもらえないなら、いなくなりたい。
それが無理なら。
死んだら止めさせてもらえるだろうか。
「顔色が悪いぞ」
「大丈夫」
ナユタはまた窓の外に見えてきた集落、おそらく街道に出て待っている人々がいるはずだ。今ここにいる以上、やれる限りのことはしなくては。
ナユタは笑顔を用意し始めた。
ナユタが去った後、カイエンは側近から冷たい目で見られていた。友人に等しい存在である側近のハルキが不機嫌でいる理由はなんとなくわかった。
「カイエン様」
「ごめんごめん」
「聞く前から謝らないで下さい」
本当は今日も予定はびっしりだったのだ。それを昨夜遅くに全部変更させて、薔薇瞳との邂逅の時間を用意したのだった。その変更に奔走したハルキの怒りはごもっともだ。
しかし、今日は想像以上に楽しかったとカイエンは思った。
昨日の薔薇瞳は野に咲く花のようであったが、今日は淡い光を放つ桃色の宝石のようだったと思う。病で一回り小柄になったような気がするが、着飾った薔薇瞳は文句なく美しい。
しかし。
以前の薔薇瞳も美しかった。美しかったがカイエンにとってはそれだけだった。女と言うよりは好敵手であり油断できない存在、それだけだ。
しかし今日の薔薇瞳には、自分の調子すら狂わせる何かがあった。途中までは貴婦人然としていたが、兎取りや魚釣りの話になって、突然楽しそうに話始めたのだ。薔薇瞳がそんなことをするとは、神都はまさか食うに困っているのか?と少々困惑させられたが、罠に関する工夫を一生懸命語る彼女は、本当にそれに興味を持っているのだなと感じられた。
確かに昼食の席には相応しくない会話かもしれないが、彼女が楽しく、自分も興味深く聞けたからよいのだ。
興味もない芸術に知識だけで語る商人、熱中の域を超えてしまった賭博に夢中の貴族、相手を翻弄することしか目的でない恋の駆け引きの会話、そんなものよりよほど楽しい。
彼女の楽しそうな様に惹かれて、自分も少しはしゃいでしまった。彼女が自分の持ち物である青い薔薇を美しいと言ってくれたことが嬉しくて。彼女にもっと見せたくなった。外に出て咲いているところを見せたかったが、あんなに痩せ細ってしまった彼女を秋風に当てるのはためらわれた。中に持ってくればいいと思ったが、それならもっともいいものを自分で選んで見せたくなったのだ。
庭師への臨時の褒美を考えるほどには彼女が喜んでくれたことが嬉しかった。
カイエンは部屋に飾られた青い薔薇を見た。
「神都では青い薔薇は持ち込むことも許されないのです、お気遣いいただいたのに申し訳ありません」と残念そうに言う彼女が残していったものだ。本当に申し訳無さそうで、その配慮が愛らしい。
今もハルキが横でなにやらがみがみ言っているがそれもあの薔薇を見て彼女を思うと和む。
それに彼女は。
芸術に関して審美眼があるのではないかと思う。大作に関して説明するカイエンの言葉を素直に聞いていたが、それだけではない。
あの海の絵。
「なあハルキ」
「なんでしょう」
「あの回廊に、芸術王と呼ばれたケイト・ニギハヤヒ王の作品が四つあるのを知ってるか」
「四つ?『薔薇瞳の断罪』『次女ネネ』『庭園』……三つでは?」
「当たりだ」
「ひっかけですか?大体私は今あなたに説教を……聞いてるんですか?」
公式には三つ、だがカイエンの中では四つ。
真贋が定かでなくまた小品のため正式にケイト・ニギハヤヒの作品と認められていないが、かなりの可能性でそういわれている作品がある。作者不明『老人』。それがあの海の絵だ。
今言った三作品、それ全てに薔薇瞳は興味を示した。そして言われもしないのに、海の絵にも同様の興味を持ったのだ。
彼女の感性というのは悪くないとカイエンは思う。
もっと語りたかった、できればやかましい連中がいない場所で。どうせあの薔薇の犬はついてくるだろうがなんとかまいて……そうだ、遠乗りがいい。それが無理なら、画廊の扉の外に追い出してやる。
ふと我に帰った。
自分はなぜこうも彼女のことばかり考えているのだ。
まるで。
「いいですか。今回は私が彼女に注意しましたけど、本来はあなたが」
「注意!?」
突然耳に入ってきたハルキの言葉に血の気が引いた。
「注意って……お前は何を言ったのだ!」
「田舎者なのはともかく、うちの主人まで巻き込まないで欲しいんですよ、と」
「お前!」
カイエンは声を荒げた。
「誰がそんなことを頼んだ」
その勢いにハルキはぎょっとして口を閉じた。
そもそもカイエンは、王族としての自覚がある。自分が感情を乱して何か言えば、その言葉はあっという間に他者の人生を変えうる重さを持っていることを自覚している。だからめったに微笑は絶やさないし、声を荒げることなど、ハルキですら見たことがなかった。
「彼女はどうしたんだ……」
「え?」
「薔薇瞳は反論したのかと聞いている」
「特には」
特には?
カイエンは長椅子から立ち上がった。そのまま掛けてあったコートを掴む。
「カイエン様?」
「馬を出せ!」
殴りつけるようにして扉を開けた。ハルキとは気心知れているし悪意がない事も知ってるがそれとこれとは話が別だ。
「どこに行くんですか!」
廊下を進み、あっと言うまに宮殿を出る。門の近くにあった馬の手綱を取った。
「どこへ?薔薇瞳に謝罪に行くに決まっているだろう、部下の暴言は私の不始末だ」
「もう間に合うわけないでしょうが!どうしたんですかカイエン様!」
ハルキをほったらかして馬に乗った。ハルキを初めとして慌ててついてこようとする者もあるが知ったことか。
薔薇瞳はめったに神都から出ない。自分も王都から出ることはあまりない。これを逃したら謝罪する機会はないまま、彼女は自分に対して嫌悪感を持ち続けてしまう。それは恐ろしい。
それは……そうだ、王族としてあってはならないこと。いくらかのわだかまりはあるものの、王都と神都が手をとらなければ、民の安寧は守れない。悪印象は禍根を残す。そうだ、王族として。
……、愚かしい。
だが自分の考えていることをカイエンは嗤った。思いは違うこと、それは認めなければならない。
ただ、自分は彼女に美しい薔薇を見てもらいたかった。
ただ、自分の好きな絵を見てほしかった。
ただ、彼女が自分の好きな画家に興味を示してくれて嬉しかった。
「私は馬鹿だ」
とても王族と女神とは思えない。ただ、そこにあるものは『私と彼女』。
恋と認めるのは恐ろしい。そこまではさすがにまだ決められない。
「しかし、彼女は特別だ。それは認めろ、私」
カイエンは街道を飛ばした。王都から出ても、馬車の姿は見えない。神都までは一本道だが。
今日一日は、本当は今の薔薇瞳が以前の薔薇瞳と同じなのかを調べたかった。あまりに違う彼女を見極めるために。
冷静なカイエンの目は、彼女が以前の薔薇瞳とは違うと認識している。弱々しく必死に虚勢を張る小娘だとも。以前の薔薇瞳の頼もしさは失せている。しかし、そのなにかに懸命な姿は胸を打つ。あの老女を助けたとき、すでに彼女は違うとわかっていたのかもしれない。
だがそんなことはもうどうでも良かった。もし次に会った時以前の強い薔薇瞳に戻っていたら、『彼女』はどこなのかと食ってかかってしまいそうだ。
彼女は薔薇瞳セツナではない。
しかし今のカイエンにとって彼女はそれでよかった。
ただ今は謝りたいだけだ。
馬を走らせたカイエンは、やがてその足取りを止めた。
街道に出て長い。集落は徐々にその間を長くして、そしてこれ以上進めば日が落ちる。
もしそこで夜見の血族にあったなら、カイエンには太刀打ちできないだろう。これ以上薔薇瞳一行を追うのは危険だった。
街道の果てを見通すようにカイエンは目を凝らした。
だがその姿は欠片も見えない。しばらく諦め難く見守って彼はようやく道を引き返し始めた。




