彼は慎重に珈琲を飲もうとするだろう
彼は慎重に珈琲を飲もうとするだろう。
まずカップに両手でさわり、しばらく熱を受け取る。最初の熱は痛みに近いものだが、それも十数秒でわからなくなり、いつしか心地良い触感になる。彼は両手でカップを包んだまま、少しだけ両方の親指を動かして見せる。それから、今度はカップに顔を近づける。黒にひどく薄く混じった茶色を認め、湯気とともにその香りを吸い込む。およそ一秒半の出来事。彼はいくらか納得したような表情で顔を上げる。どうやらこれは正真正銘の珈琲らしい、とでも確認したように。
開け放たれた窓の向こうで鳥が鳴いていることに気がつく。彼はその窓辺に近づく。どこだ、小鳥くん、出てきてごらん。けれども鳥は姿を現さない。ユズリハの葉がカラカラと風に揺れる。一瞬、飛び去る鳥の黒い影を、彼は視界の端っこに認める。彼が捉えた影が、太陽を見たあとによく残る黒い点の類ではなかったという結論に至るまで、およそ30秒。根拠は彼が太陽を見ていなかったことに求められる。この窓辺は北向きである。
トースターが短音を鳴らし、パンが焼けたことを告げる。彼はトースターから、こんがりと焼きあげられたパンを取り出す。熱さは感じない。先刻の珈琲で耐性ができているようである。ここでパンの呼称がトーストに変わることを、読者に詫びるべきかもしれない。彼が手にしているのはトースターではなくトーストである。実に香ばしく、バターを乗せてやりたいシロモノの方である。
彼はちょうど目線と同じくらいの高さの戸棚から、片手でパン皿を取り出す。一年ほど前に近所の蚤の市で購入したもので、薄紫色で円形に並べられた葉々が描かれている。彼はもう片方の手に持っていたトーストをパン皿の上に乗せる。そして2歩弱歩いてテーブルの席に着く。
これでトーストとコーヒーが揃った。十分だ。彼はようやく珈琲に口をつけようとする。けれども、ふと、思い留まる。珈琲を楽しむ間に、バターをトーストの上で溶かしておこう。彼はすでにテーブルの上に用意してあったバターに手を伸ばす。
と、その拍子に肘が当たり、マグカップが倒れる。珈琲はテーブルと床を一瞬にして染め上げる。彼はいくらか呆然としつつも、珈琲は思っていたよりも茶色いことに気がつく。
ここまででおよそ3分半の出来事。テキストは所詮テキストである。