二時間目・初日は七転八倒、慣れるまで七難八苦、最後は七転八起
今回のタイトルは、どんな苦難や苦痛に転がっても、最後こそ絶対に立ち上がって欲しいとおもってつけました。7と8の数字を使った四字熟語が三つもあり、微妙に意味や漢字か違います。
国語とは面白い・・・。
*
私立・命立国際学園。
東京都・中央区のどこかにある巨大な学校で、この時代には珍しい幼稚園・小学校・中学校・高校・大学・大学院の一貫校で結構有名である。
隣の県からわざわざ通っている人間もいれば、別の国とかスペースコロニー・月面都市出身の生徒も多く、専門の学寮が校内に存在する。ただし、中学生以下はホームスティを薦めている。
他に凄い所といえば、自分の身につけたい資格が取れる専門校も命立国際学校に存在する。医者を目指したかったら医学部、調理師になりたかったら調理部など等・・・自分の夢を叶えてくれる環境が整ったマンモス学校。
学園の全校生徒六千人弱、教師も合計二百五十人近くとも言われている。
先ほど自転車横転した哲明は今年度初任された教師で、彼が配属される学級は高等部。担当教科は日本史で、担当クラスも既に決まっている。二年のクラスを担当するとしか聞かれていないが。
「まだ背中が痛い・・・」
自転車を教師専用駐輪所に止めて、高等部の校舎に向かって哲明は歩く。
大事には至らなかったが、背中から衝突したので背に痛みがまだ残る。幸いなことに、自転車のハンドルの一部が凹む程度で漕ぐのに支障は無い。
自分が担任するクラスの人間があの通学する人達の中に混ざっていたら――いや、混ざっている。確実に一人は見て、そういう人間に限って口が軽いのだ。絶対に噂になっている・・・。
校舎の玄関前まで来て、玄関に入るのも恥ずかしくなった。
はぁ〜・・・――ため息がもれる。
起きてしまった事は仕方が無い、ため息したって解決しない。
特殊な強化ガラスを取り付けた玄関の扉を開ける、玄関に入って下駄箱で左が受付にもなっている用務員室だ。自分の靴を入れる場所は上から三段目、右から二番目。自分の名前が書いているネームシールが小さな扉の真ん中に貼られている。
開けるのにも閉めるにも力が要る下駄箱の扉、力一杯開けると脱いだ靴を下駄箱の中に入れて扉を押すように閉めた。カバンから校舎の中を歩く室内用の靴を出す、昨日・一昨日買ったのか汚れがひとつも無い革靴のような艶がある。
室内用の靴に履き替えると、玄関を出て左に曲がって歩く。十歩あるけば左側の廊下に最初に入る部屋がある、自分の職場・職員室だ。
(朝は普通に『おはようございます!』だろう・・・いや! 初めてなのだがら『おはようございます、はじめまして!』・・・いや・・・)
職員室の引き戸を開ける前に、まず基本である挨拶はどうしようと頭の中でシミュレーションしてみる。少々ネガティブなのか、次第に挨拶の言葉が思い浮かばず、深く考え込んでしまった。
まさか、自分の職場はここではない? まさか、初任の件は元から無かった?
挨拶とは全然無関係な事を考えてしまい、不安の色を濃くさせる。
「あの、すみません・・・あの〜?」
と哲明の後ろで女性が困った顔して話しかけてきた。
「あ、はい?」
思考を一旦停止して、自分に話しかけてきた女性に顔を向けた。
亜麻色のウェーブヘア、哲明を見る幼げの瞳、吸い付きたくなるような真珠のような肌。容姿だけで哲明の心を奪った。彼女も自分と同じ教職員の一人だろう。
穢れが無い無垢な少女の面影残す可愛らしい女性、哲明は見惚れて何の言葉も出てこない。
「入れないのですが・・・」女性は恥ずかしそうに言った。
一方言われた方も顔から火が出るほど恥ずかしかった。
「申し訳ありませんっ!!」廊下にエコーが残るほど大きな声で謝り、職員室の戸を開けて『どうぞ入ってください!』と言わんばかりに腕を職員室の中へ向ける。
女性――城アンナは哲明の行動に呆気にとられていた、しかしすぐに顔をほころばせた。アンナの顔色を見ていた哲明もホッとしたのか、深く息を吐いた。
「おはようございます」
職員室に入ってすぐに、アンナはハキハキとした声で二人より早く来て仕事を始めている教員達に挨拶する。職員室に入らず、様子を見るだけの哲明。
おはよー! おはよう! おはようさんっ! ・・・挨拶の仕方は人それぞれであるが返ってくる挨拶を聞いて、あれで大丈夫なんだなと確認する。
高まった緊張を解し、いざ職員室へ一歩足を踏み入れて「おはようございます!」と胸張って言った。
しかし、彼女とは明らかに違う言葉が返ってきた。
「朝から恥ずかしいわね〜♪ 新入り君?」
第一声をあげたのは窓際の列で右一番前に座っている、ポニーテールで金髪碧眼の女性・エーミー・ カーボナード。
「どこのモデルさん?」と聞きたいほどスタイル抜群で、服装は「教師としてそれはどうか?」とツッコんでしまう程スカートが短く、ガーターの一部が見えていて、胸の大きく明いた服である。
明いた部分や袖は黒のオーガンジーで覆われており、透けているだけに谷間に目が引くだろう。
「エーミー先生・・・あまり新人をいじめるな」
と言ったのは、向かいの席に座っている新城 恭一。
襟首と袖口だけが黒い赤いトレーニングシャツとデニム生地のスキニーズボンの組み合わせだが、彼の第一印象仏頂面がさまになっている。
エーミーを「先生」と呼ぶのに抵抗感を感じているのか、「先生」だけ棒読みに聞こえた。
蛇足であるは、彼が読んでいる本の表紙に『狙え一攫千金! 一流のギャンブラーへの道』とゴシック文字で書かれてある。教師として仕事に関係ない本を読むのはどうか、と哲明は思う。
「やれやれ・・・新入りを見くびると後で痛い目に遭いますぞ? 中にはどんな経験の積んだ者より生徒を惹きつける特殊な者もおりますので」
白髪交じりの口髭が特徴である職員最年長の好々爺の紳士、菊谷崎 清次郎が後輩である二人の教員に言った。
注意された恭一は本の世界に入り、エーミーはニヤニヤしながら哲明を見ている。二人の様子を見て清次郎は「ふぅ」と息を吐き一間置いて、アンナの顔や体型を舐めるように眺める。
「あの・・・何か?」
頬を赤らめながら恐る恐る聞く。
「いや〜・・・今年の女性教員も上玉ですなぁ」
「はっ?」
一回頷いてすぐに出た清次郎の発言に、アンナの頭には「?」が浮かび上がった。
「おいおい、初日からセクハラ止めろよな!」
清次郎の背後から現れた女性教員が、恥ずしさと苛立ちが混ざった表情で清次郎の背中を軽く押した。
明らかに染めていると分かる根元が黒い部分がある金髪、太く凛々しい眉毛、人間では珍しい右が青で左が茶のオッドアイ、どこにでもある朱色のジャージであるが背中にでかでかと「夜露死苦」の刺繍。
とても男らしい女性教師・大昭 洸。
「おっとっと・・・とっ! 危ない、危ない。嫉妬は駄目ですぞ」
前に倒れそうになりながらも、体勢を整えて背中を押した人物に穏やかな口調で言う。
「嫉妬じゃねぇ!!」
押した本人の口調は周りの女性に比べたら荒々しい。
「学園入学の頃から貴方を知っていますが、今は教師なんですから・・・もう少し態度を改めたほうがよろしいかと? 大昭先生」
「じゃあセクハラするなぁ!」
「セクハラとは人聞きが悪い、まず相手の顔を覚えた上で最初の質問としてスリーサイズを言い――」
「それがセクハラじゃあァァァァ!!」
洸の怒鳴り声が職員室内に響き渡った。
紳士のような教師と口の悪い元教え子が、二人を無視して言い争いを始めた。口論の内容に哲明は「ははは・・・」と乾いた笑い声をもらし、視線を別のほうへ向けた。
「止めないの〜?」
窓際一番前、恭一の席から三番目の席に座っている女性がセレテリス・エウリュアレ。
腰が隠れるまでまっすぐ伸びたロングヘア、多分高等部の職員で一番スタイルがいいと言っても過言ではない体型。なんといっても胸の開いたレディーススーツから今でもこぼれ落ちそうな乳房、大玉メロンがくっついているような大きな胸した女性が道で通りかかったら見とれない男は誰もいないだろう。
「今日も楽しそうだから、もうしばらく見ているの♪」
エーミーはにこにこと笑みを浮かべて、「今日こそどっちが勝つのかしら〜」と言葉をつなげて白熱していく清次郎と洸の言い争いを見ている。どうやら二人の言い争いは日常茶飯事、今だ決着が付いていない事を察する事は出来た。
哲明の抱いた問題は、誰一人二人の仲裁に入ろうとしないで、ある者は見て見ぬフリをしていて、またある者は一種の芸を見ているかのような笑みを浮かべてみている。どうして誰も止めないで手をこまぬくのか、誰もいないならこの口喧嘩を止める事が出来るのは自分しかいない。
自分なら止められると考えると、自然と足は一歩前へ踏み出していた。
「ちょっと待ってください、そんな些細な事で揉め事にならなくても良いではないですか? 生徒の見本になれませんよ!」
哲明が清次郎と洸の間に入ってきた、予想外な行動に全員の視線が哲明に集中する。清次郎は何食わん顔で、洸は小鼻を膨らませて哲明を見上げる。
元・暴走族の洸に眼付けられたら、生徒なら脱兎の如く逃げていくだろう。哲明も逃げ出したいが、ここは逃げたい気持ちを抑えて洸と向き合う。
「もっと穏健に物事を解決したほうがいいです! そう・・・申してよろしいでしょうか?」
声が怖気て、最後の一言に迫力が無い。
「てめぇ・・・尻の青い新入りの癖にいい度胸じゃねぇか?」
なだめているはずなのに、いとど相手は不機嫌――いや、殴る気満々。相手の鋭い目付きを見れば鈍臭い哲明でも分かる。
あー・・・やっぱり、仲裁役は自分には不向きだったか。今更のような後悔が込み上げ、表情には出ていないが心底落ち込んでいた。自転車横転でアスファルトの地面に打ち付けてしまった背中の痛みがぶり返ってくる。
「やめなさい大昭先生、貴方はもう『学生』ではなく『教師』なんですから。生徒を指導する者としてその態度を改めたほうがよろしいですぞ?」
洸を止めたのは、彼女の怒りを買ったのにもかかわらず、何食わぬ顔を浮かべていつのまにか第三者に立ち回っている清次郎である。
「あまり騒ぎ立てると学園の名誉を汚す事になりかねませぬ、それだけは避けもらいたいもの」
そもそも騒ぎの原因はアンタだよ、誰も本人の前で口が裂けてもいえない台詞である。
言っても軽く受け流すで終わると誰もが思っているから。
「――ったよ! 今回はアタシの負けだ、これでいいだろ?」
負けを認め、乱暴な口調で清次郎に言うと、ズカズカと歩いて廊下側の列・一番後ろの席へ戻っていく。常に反感抱いている相手に言われて癪に障ったのか、席に座ったときの横顔は般若に見えた。
結局、自分の出番は無かったのでは? 騒ぎを招いた張本人の横目で見て哲明は思う。より、先ほどのやり取りに自分首突っ込まないほうが良かったかもしれない。
ネガティブ寄りの呟きをボゾボゾと漏らしていると、彼が着ているベージュ色のブレザーを誰かが軽く引っ張っている、裾を引っ張っている手はアンナの手。彼の服を軽く引っ張る、白みのある指先に哲明は息をのむ。
今度はアンナがこちらとの距離を縮めてきた、今日初めて会ったのにここまで仲が進展してる、まだお互いの名前も知らない間なのに彼女は哲明に何か言いたげの瞳を向けている。
耳の先まで顔を真っ赤にさせて、哲明も少しアンナに寄る。
「私、怖くて声出ませんでした。心が強いんですね」
哲明に囁いた言葉は鋭い矢になって、哲明のハートをグサリと刺さるイメージが鮮明に浮んだ。なぜ脳裏にハートに矢が刺さるイメージが浮かび上がった? 今の哲明にはまったく理解できないイメージ画像である。
「しょっ、正直、自分も怖かったです! 今も怖いです!」
とりあえずコメント返さないとと思い、哲明は肩に力を入れたまま自分の内心を言った。
これを皮切りに職員室のいじめ(職場いじめ)を受けてしまう恐怖、絶対嫌がらせとかパワーハラスメントしてくる、自分をパシリ扱いされる。あれ、それ覚悟で止めたんじゃなかったけ? けど、怖いものは怖いものと心の底で叫ぶ。
だいの大人で教師の自分がここまで臆病者だったなんて・・・哲明は自分の口から出た言葉に落ち込みそうになった。で、アンナのコメントは「大丈夫です、私も怖かったですから」と優しくフォローの言葉。
傍で見ていたエーミーはニヤついた表情浮かべてこちらを見ている。すみません、こちらを見ないでいただけませんか?
「新任も来ているな?」
哲明の背後から現れたのは、今の時代にはお目にかかれない鼻眼鏡と暴力団に間違えられそうなダブル・スーツ、生え際がとても気になる中年男性はこの学園の教頭。その頭部で生徒から「ハゲ」とか「デコ」とか影で呼ばれている事は哲明は知らない。
引き戸が開く音が無かったのは、哲明が戸を閉めるのを忘れて開けっ放しにしていたから。
教頭の入室に、仕事のスケジュールの整頓をしていた教師やプリントを製作していた教師なども手を止めて椅子に座ったまま体ごと教頭に向けた。
「朝礼を始める前に今年度の新任教師の紹介をしなくてはな・・・、右が城 アンナ先生。左が音光寺 哲明先生」
「よろしくお願いします」
アンナが挨拶を済ませてすぐに、哲明も「不束者ですが、よろしくお願いします」と頭を少し下げながら挨拶を済ます。
最初に話しかけてきた女性の名を知り、哲明は素敵な名前だと思って彼女の横顔に視線だけ動いていた。教頭は目の前に座っている教員しか見てなく、哲明がよそ見していることに気づいていない。
「城先生の教科は世界史、クラスは一年B組を。音光寺先生は教科は日本史、クラスは二年OG組をそれぞれ担任してもらう」
教頭の言葉、特に後半の内容に哲明の視線は教頭に向けた。
自分の担当教科は日本史だと知っている、気になったのは自分の担当するクラスが聞いたことの無い「OG組」の部分だ。O組でもG組でもないOG組、ABCDの次は「E」なのに何故「OG」なんだ? 少子化問題で子供の数が年々減っているのに、二年だけ五クラスもある。
アルファベットが二つも並ぶとなると、「OG」は略称であるのがわかるがいったい何の略称なのかわからない、聞く相手はただ一人・・・教頭しかいない。聞きたいけど、話し出すきっかけが無い。
哲明の表情を見て教頭は彼が何か言いたいのか理解できたのか、この場を借りて問わす語りだした。
「先生が戸惑うのも無理もない、OG組は今年度編成されたクラス。OGは『落ちこぼれ・学園問題児』の略称、学園内の秩序を乱す生徒・・・大まかに言えば校則違反の常習犯や遅刻・欠席が多い生徒、成績が劣等生クラスの生徒を中心に集めた秩序無きクラス・・・と、説明しておきます。一応」
教頭の説明は清清しさが感じられるが、不愉快な表情でうとんじている。
学園内の秩序を乱す生徒、さすがにそれは言い過ぎなのではないかと哲明は思った。話を聞くと、成績的にも人格的にもダメな生徒『だけ』集めたダメクラス。一般の教師では手におえない子供を一つの教室に集めたようなもの。哲明はそう受け止めていた。
先ほど教頭が述べたように、学校で問題を起こしたり、校則違反を繰り返している生徒が集まっている。つまり、OG組はどこかの学校漫画に出てくる不良クラスなのか。
だとしたら、自分はそんな生徒とうまくやっていけるのか、はっきり言って自信がありません。けど、任されたのだから倦まずたゆまず、真剣に生徒と向き合おう。覚悟を決めろ、哲明。
教頭も、「まあ、がんばってくれ」と言って。他の教員と向き合うように置かれてある自分の席に腰掛けた。
もうすぐ朝礼の時間、杞憂を抱く哲明も自分の席を見つけるとすぐに椅子に腰掛けた。彼の席は廊下側の一番前。教頭の席に一番近い席であり、哲明の隣にアンナの席がある。
自分のディスクの上を見ると、分厚い生徒名簿と学級日誌が静かに出迎えていた。
*
朝礼が終わって、哲明は期待と、期待の数倍大きい不安を胸に抱えて廊下を歩いている。
校内左の階段を上がって三階、左から四部屋目に彼の担当する二年OG組は存在する、分かりづらい説明ですが理解頂けたら幸いです。
哲明は「二年OG組」と書かれてあるプラカードを見上げ、前の扉に手をかけた。教室はギャアギャアと騒ぎ声が響き、哲明が教室の前まで来ている事にまったく気付いていない。扉に使用されているガラスは曇りガラスで、教室内の様子が見えない。
開けるの正直怖い、相手は子供だけど大人も舌を巻く悪知恵を使う生徒達。
きっとすごいんだろうな、男子も女子もすごい髪の色に染めて制服なんか原型保ってないに違いない。絶対に自分の事睨み付けて来る、先ほど職員室で会った洸みたいに。そう考えたら引き戸を開けようとしている手の震えが止まらない、緊張と恐怖が圧し掛かる。
扉と睨めっこして数分、ここでいつまでも立ち止まっても、前にも後ろにも進まないし時間の無駄。生徒は待ちくたびれている、早く教室に入らないと後から面倒になる。
俯いていた顔を上げて、意を決して戸を開けた。
戸を開けた途端に哲明の顔に何かがかすり、硬い物に刺さる鈍い音を響かせて戸に深く刺さった。いったい何が飛んできたのかと思うと、どこにでも売っている何の変哲も無いシャープペン。ふざけて誰かが投げたらしい。
哲明が入ってくるまで騒いでいたOG組の生徒達も目の前に起きた出来事に呆気取られて、哲昭と誰かが投げたシャープペンから目を逸らすように席を立っている者は自分の席に戻り、自分の席に座っているものは気まずい表情を浮かべている事を悟られないように顔を少し俯かせた。
冷静を忘れず、眉一つ動かさず哲明は扉に刺さったシャープペンを抜いて、教卓へ急ぎ足で向かう。怒る素振りをまったく見せないのが反って生徒には恐怖心を煽っている、それを哲明本人は自覚していないが。
生徒名簿と学級日記を先に教卓の上に置き、所々解れた布製の筆箱をその上に置く。シャープペンも一緒に。
にしても、市販のシャープペンを凶器に変えるほどの強く投げた人間の腕はどうなっているのか、もう数センチ前に出ていたら顔面に突き刺さって命にかかわっていた。投げた本人はそこも踏まえて反省して欲しい。
「あ〜・・・シャープペンは投げる物ではなく、書く物なので、人に向かって投げないように。初っ端から君達に恨まれたかと思って、先生怖かったです」
顔は冷静を保っていたが、声は恐怖で震えていた。
入って突然シャープペンが飛んできたのだ、心臓が止まるのほどの驚きと恐怖を抱かない人間なんかごく少数に違いない。けど本当にいるのだろうか、自分の真横に物が突き刺さっても平然としている人間は。
で、扉に突き刺さるほど殺傷力のあるシャープペンの持ち主はまだ前に現れない、初日から先生の前に出てくるのは怖いし恥ずかしい、すぐには名乗りを上げないだろう。
「持ち主は何時でもいいので、取りに来ること」とだけ言うと、席に座る生徒達を数秒見つめて、すぐに名簿に視線を置いた。クラスに編成されている生徒の数は二十九人と少ない、逆に考えると手に負えない子供達がこれだけ潜んでいたんだなと思った。
「う〜ん?」
名簿と生徒の顔を見て、思わず唸った。
学校で問題を起こしたり校則違反を繰り返していると聞いて、てっきり不良集団クラスと思っていたが覆された、不良に見える生徒も確かにいるが一見普通の生徒。とても問題起こしてたり、校則違反には無縁な「真面目」な子達。
中には「優等生じゃないか、どう見たって」って言いたくなるような子も、このクラスに組み込まれている。留学生や混血児がほかのクラスに比べたら多くも感じる。
けど、このクラスに違和感も感じた。
よく見れば、見た目が新高校二年生ではない生徒が目立つ。中学生や小学生位の生徒も混ざっていれば、明らかに二十歳を越えた生徒も座っている。職員室では感じなかったこの教室独特の空気、口では表現できない「何か」がこの教室に、生徒達に備わっている。
初めて教室に入って一番目立ったのは、新学期にも関わらず三人も教室にいない事だ。
「・・・席空いている人は、欠席か?」
自己紹介より、欠席者の事を考えていた。生徒なら何か知っていると考え、思い切って聞いてみた。
「宮元君は多分また道に迷っています、狩野君はアルバイトで今日は欠席で、アンリさんは去年の二学期から来ていません」
一番哲明が立つ教卓の位置に近い席に座っている女子生徒が答えた。
席にいない生徒一人目は迷っている。
クラスメイトの一人が「また」と言っているので、今年度転入してきた生徒ではないのは分かった。けど迷っているって・・・何年この学校通っているのだ? その生徒は。
席にいない生徒二人目はアルバイト。
学園はアルバイト禁止はないらしく、学校を終えてアルバイトしている生徒は多数いる。なのに狩野という生徒は昼間からアルバイト、だったら学校に来る必要なんてないのでは?
席にいない生徒三人目は不登校。
名前からして留学生、あるいは混血児の女子である事以外分からない、去年の二学期から学校に来ていない。彼女の身に何があったのだろうか、今年度編成されたクラスの人間は知らないだろう。
不登校も問題だが、あとの二つも問題である。
「そうか・・・いろいろ大変だな。いろんな意味で」
しか言えなかった。
『落ちこぼれ・学園問題児』の意味を垣間見た気がしたが、OG組の生徒達の破天荒っぷりは彼の想像をはるかに上回っている事を哲明はこの後知る事になるとは思ってない。
「そういえば、紹介まだだったな」
話を切り替えよう、そう決心した哲明は教卓に両手を置いた。
「先生」窓側一番後ろに座っている生徒が手を上げながら哲明を呼び、「フルネーム、黒板に書かないんですか?」と言ってきた。
学園系のドラマやアニメに、必ず教師が生徒の前で黒板に名前を書くシーンが必ずある(はず!)。あまり字を書くのに自信がないので、哲明は避けたかったが、生徒に聞かれたからには書かなくてはいけないのかとため息。
一回生徒に背を向け、桟に並べられたばかりの白いチョークを持ち、黒板に殴るように書いた。自分の苗字、自分の名前、ご丁寧にふりがなまで。名前を書き終えると少し短くなったチョークを置き、再び哲明は生徒達と向き合った。
「自分は音光寺哲明、今年度から教師であり、君達の担任である! 担当教科は日本史、先生見た目は若いが今年の一月に三十歳を迎えました。どうぞよろしく」
緊張しながらも自己紹介を終えた、達成感に満たされながら、哲明は生徒達の反応を見てみる。反応がなくはないがあるともいえない微妙な位置、真面目が取り柄の哲明、あまり生徒に受けがない様子。
またしてもドラマやアニメのワンシーンを思い出す、それは生徒達が教師に色々質問してくる場面だ。
よく「先生って彼氏(彼女)いるんですか〜」とか、「先生独身ですか?」「どこ出身なんですか?」などの、プライベート関係の質問してくる。それぐらいだったら自分だって答えられる、事細かな経歴を聞く生徒などいないから。
生徒が考えるのは大まかなものばかり、さっきのようなこと言われたら自分は「独身です」とか「ただいま恋人募集だ」とか「奥多摩町(哲明の生まれ育った場所)出身だよ」とか言えばいいのだ、大体の子供はそれで関心するに違いない。
逆に周りから見たら痛々しい内容ばかりだが・・・。
「へぇ・・・先生って独身で恋人もいなくて東京都・奥多摩出身なんですね?」
「ああ。・・・えぇぇぇぇぇえ!!?」
中央の席・前から二番目の席に座っている女子生徒が、悪意など全然感じさせない明るい表情で哲明の考えている事をそっくりそのまま返すように言った。自分の考えている事が生徒に全部言い当てられて、哲明は思わず口を両手で押さえてしまった。
心の中で言ったんだよね? 絶対に口で喋ってないよな? 声に出した覚えない、口パクした? もししてたなら、彼女は口読術をマスターしているのか! 恐ろしい・・・などと考えている。
「あ、ごめんなさい。私、人の考えていることすぐ言い当ててしまうんです・・・よく表情に出てしまう人とか見ていると、つい・・・」
表情見ただけで出身地まで言い当てられるのか?! 哲明は内心驚いた。すごい直観力、いや直『感』力か。
ここまで言い当てられたら、最後の手段を使うしかないな・・・。そう決断すると、口を押さえていた手が自然に離れる。そして動く、口が。
「どんな質問でも答えるぞ、だけど独身と恋人と出身地はもう答えたからそれ以外の!」
「あ、はいはいはい!」早速食らい付いた生徒がいた。同じく中央の列で後ろから二番目の席に座っている、明らかに外見二十歳以上の不良っぽい男子生徒だ。
「先生、先生になる前にどんな仕事してましたか〜?」
口から出てきた脱力感感じるやる気のない声、質問のないように哲明の表情が一瞬で凍りついた。理由は一番触れられたくない質問だから。教師になる前の記憶を思い出し、思わず涙がにじみ出そうになった。質問をしてきた男子生徒はまだかまだかと、哲明の答えを待つ。
これ言ったら絶対に生徒に馬鹿にされる、特にOG組の生徒だったら確実に見下すに違いない! 生徒の何気ない質問に迫られて、酸素を求める金魚のように口をパクパクさせる。
選択は二つ。ごまかすか、正直に話すか。
哲明が一人で心の中で葛藤していると、「先生――」質問を出した男子生徒がにやりと笑って言い出した、「今朝の事、全校舎に言いふらすぜ?」
やっぱり見ていた生徒いたあぁぁぁぁぁぁ! 今でも口から出そうな叫びが心の奥底から響いた、出勤時の醜態が晒される(と、哲明は思っている)。
なら、もう選択は一つしかなくなった。
「先生・・・いや、自分は・・・今年の一月初旬まで――そのな・・・サラリーマンでした、一般商社の。で、強制解雇されて・・・大学卒業と同時に取得した教師免許、生かそうと・・・」
恥ずかしさと苦しみで言葉が繋がらない、穴があったら速攻入りたい。
今の状況をたとえるなら――いじめっ子に脅迫されて、泣く泣く言いたくない事を言われているいじめられっ子のといった所。
で、質問の答えを聞いた生徒の反応はというと――。
「つまり・・・リストラ!」
「俺達の担任はリストラ先生! リストラ先生!」
やっぱり、いじめっ子と同じ反応だ。
一番言いたくない相手に脅迫されて言われると、隣のクラスまで聞こえるほど大きな声で言いふらすのだ。もちろん「やめて」などというと更に声を上げて叫びまくり、最悪の場合は叫びながら校内じゅう走り回るのだ。
耳に嫌って程入ってくるリストラコールと笑い声に混ざって教頭の言葉が蘇る、「落ちこぼれ・学級問題児」と教頭の言葉の意味がここで分かった。
OG組は無秩序で学校の無法地帯、無法地帯にいる彼らは学級崩壊まで追い込む破壊力を持つ、『デストロイヤー』であると。
「いい加減にしなさーーい!!」
机をバンッと強くたたいて勢い任せで立ち上がった勇敢な生徒、後頭部にまとめた大きなシニヨンが特徴の女子だ。
「貴方たち、先生を弄ぶのやめなさい! 先生は貴方たちの遊び道具なんかじゃないんだから!!」
騒いでいた男子達よりも大きな声で叱るシニヨン頭の女子生徒。
彼女に逆らえないのか、あれほど騒いでいた男子達がその一喝に黙り込んだ。
「先生、嫌なら『嫌』ってはっきり言わないとダメです! それじゃあ、生徒になめられますよ!!」
次に哲明を叱った。
「はい! 以後気をつけます!」
生徒に叱られて、哲明はすくみあがった。
それはそれで生徒の笑いを誘ったが、シニヨン頭の女子生徒に睨まれてすぐに笑い声は消えた。
子供に叱られて、哲明は己の情けなさに酷く落ち込んだ、これ以上立ち直れないのではないかと、自分でも考えてしまう位。
「そう、落ち込まないほうがいい」
次に哲明に話しかけてきた生徒は、廊下側で一番前の席に座っているプラチナブロンドの物静かな男子。
「まだ始まったばかりだ、ここで挫折してもらっては困る。で、ないと。これから来る過酷な障害を乗り越えられない」
見た目は十四・十五の少年であるが、彼の言っている事はこれから起きる事を暗示しているかのような語り。「自分の方が辛い人生送ってきたんだぞ」と思わせる偉そうな口調、しかし不愉快とは思わない。
深く沈んでいた気持ちが軽くなり、少しだけ彼らと向き合う勇気を貰った気がした。同時に生徒に叩きつけられた『挑戦状』を受け取り、絶対に生徒に屈しない、生徒の成長を見守る教師になると決めた。
決心した彼が無意識に持ってた生徒一人一人の名が書かれた名簿。
そういえば、先ほどの騒ぎでまだ点呼していないと思い出す。これから一年、二十九人の生徒と一緒に学んでいくのに名前や顔を憶えないでどうする。
「先生、皆の名前を覚えないと今後なんて呼べば良いのか分からなくなるから・・・名前呼ばれた者は返事をするように」
疲れたような声で言いつつ名簿を開く、生徒達が「はーい!」と返事を返えした。
これなら大丈夫かと思って名前を呼ぼうと声を出そうとした、すると後ろの扉が開く音でかき消されてしまった。名簿から後ろの扉を見ると寝癖をつけたまま、息を切らせて教室を入ってきた男子生徒の姿。
(彼が宮本という生徒か・・・)昼近くにやっと教室に入ってきた男子生徒の姿を見て哲明は頷く。
「分かりづらい場所にクラス置きやがって・・・。近道通った意味無いし、逆に教室探すのに一時間も時間使っちまった」
耳を疑ってしまった。
自分でも職員室から五分くらいで来れる位置で、目印の『二年OG組』と書いてあるプラカードも掲げられているのに、宮本という生徒は一時間も自分の教室を探していた。この生徒、もしかしたら方向音痴? しかも重度の。
方向音痴だったら自分と同じ学校の生徒について歩けば、迷う事無く無事教室に辿り着ける。そんな簡単な事も彼は出来ないらしい。
周りも周りだ、彼が方向音痴であると知っている人間がいるのに一緒に学校に登校しない、最近の子供は薄情な子ばかりで困る。さて、どうするかと名簿を眺めながら考える。
「でわ、名前を呼ぶぞ? 相沢 惣一!」
「はい!」
「次、狩野 藤次!――は欠席っと。はい、穂積 由香里!」
「はいっ!」
哲明が名前を呼べば、生徒は「はい」と言って返事をする。
名前が呼ばれた、返事。次は自分の名前が呼ばれる番、恥の無い返事をしよう。もう自分の番だ、上手く返事できるかな? ちゃんと「はい」って言えたかな? 二年生初めての出席、新任の先生は会社をリストラされた絶対若さだけ取り柄の男の先生。この先生で大丈夫かな? 自分の将来が不安になる〜・・・。
リズムに乗ってない気の抜けた歌詞が流れ、哲明は名前を呼ぶ口を止めて黒板の上に設置してあるスピーカーを見上げる。スピーカーから流れているわけではなさそうだ。
では生徒の私語か? 生徒は返事以外声を出していない、私語しているグループもない、返事に紛れて隠れた生徒が口では言えない本音とも言える言葉が哲明の耳に濁流の如く流れて来る。ウサギのように聴覚が鋭くない、どうしてこれだけはっきりと耳に入ってくるのか。
そういえば――今と同じ状態に陥った時があった、大学を卒業してすぐに一般商社に入社して初めての出勤の日。緊張すると忽然常識を覆すように声が聞こえた、自分の職場を見回すと同じ営業課に勤務する人間の声、彼らが内に秘めた本音の内容は自分のこと。
聞こえない声が聞こえると真顔で言っても到底信じてもらえるわけが無い、聞こえないフリして仕事しているうちに自分にしか聞こえなかった声たちは消えていた。緊張すると幻聴を聞くんだと思ったきり、哲明は記憶の奥底に封印してしまった。
今蘇ってきた聞こえない声を聞く耳、今すぐ耳を塞ぎたい。でも前と同じように時が経てば聞こえなくなるに違いないが、新入社員だった時より声は大きくはっきりと聞こえてくるので気持ち悪い。
急に出席を止まって生徒の視線は哲明に一直線、この哲明の様子がおかしい事に気付いている人間は二十九人中何人か。
「冷静になれ、冷静に・・・聞こえない、ほら聞こえない。――よし、聞こえない」
強く自分に言い聞かせてみると、耳に入ってくる『声』という雑音が聞こえにくくなった・・・気がする。
「出席の途中です、先生」
「ああ、ごめん・・・初日だから緊張して声が出なくなってた」
とっさに言い訳する哲明、教室にはまた生徒の笑い声。彼らの笑い声は面白いから笑っているもしれないが、哲明から見れば軽蔑の笑いに聞こえてきた。
初日からノイローゼになりそう。
哲明はお先真っ暗な教師生活に不安と後悔を抱く、自分で選んだ道がこんな場所だったんて。途中で止まってしまった出席を再開させながら内心呟くのであった。
ルビをふらない小説なので、よめない名前があると思います。これで補間。
城アンナ
大昭 洸
女子教員のほうが読めない漢字ばかりですね・・・。
生徒編はまた後日。