十時間目・安宅正路のしっぺ返しは自分が行った悪行より痛い。
いとど鳴り響くチャイム。
時間はもう昼休み、時間の流れとは人によっては早く流れるものである。
廊下を走る子供に紛れて、哲明は何気なく廊下を歩いている。
昼食を終えて、食堂から次々と出てくる生徒たち。手作り弁当で食事を済ませた人も、売店でパンや飲み物を買って食べた人も、掃除の時間まで約三十五分の昼休みを堪能している
教師はその間にも仕事、しかし職員室でディスクワークするのが教師の仕事ではない。生徒が不祥事を起こさないように見回り、この時間しか話すことが出来ない生徒の話を聞くのも教師の立派な仕事である。哲明が校内をフラフラ歩いているのは、けっして仕事をサボっているのではない。サボっている教師も実際にいますが。
昼休み、廊下を歩けば蹴って来る生徒が現れない。
洸が一人で鉄拳制裁で自分を蹴った生徒全員に、顔面に強力なストレートパンチでも放ったにしては不自然な気がする。蹴る人間は日によってばらばらで、一日同じ人生徒が蹴って来るわけじゃない。
だったら哲明が捕まえて洸と同じように殴りたいが、見た目は高校生と変わらない容姿なのに体力は彼らより衰えている、捕まえたくても追いかけるのに精一杯で捕まえられない。
だからって、「そんなやつが、よく教師になれたな」の一言はなしです。言った人間は何も感じませんが、言われた方はつらいんですよ、泣きたいくらいに。
二階と三階を繋ぐ階段の踊り場で哲明は立ち止まった。
「朝のあれ、本当に自分が死んだと思った・・・」
朝のHR時に見た夢幻、哲明は今自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなるほど、リアルな光景に吐き気すら覚えた。
実は「今」が夢幻で、夢幻から目を覚めると自分は真っ白な病室で様々な器具が体について、ただ天井を見ているだけ。誰も来ない、個室の病室で自分は一人退院の日を待つ。虚無しかない現実が自分に待っているに違いない。
なら、虚無しか残らない現実の中で生きるより目覚めを拒み夢幻の中で生きる。
すごく馬鹿馬鹿しい、完全な現実逃避。
「現実と夢幻は紙一重。どちらが現実でどちらが夢幻か――決めるのは己のみ」
上から話しかけられ、哲明はとっさに顔を上げた。まるで詩を謡うかのうに喋る人物は、階段の上で哲明を待っていたかのように静かに立っていた。
パーマがかった白銀に輝く髪色、女性も羨む乳白色の肌、高校生にしては幼く中性的な顔立ちと体格で、袖から伸びた手は細くて女性のように美しい。けど、男子制服を着ているので人物は男である。このような容姿故に「アルビノ?」って言われるかもしれないが、目は紅くない。もしアルビノだったら、目も紅いはず。
「時折、面白いこと言うのだな。そうめん――じゃなくて、クエーサー」
階段を上がりながら、自分に言葉を語りかけてきた少年を呼ぶ。
ミクト・クエーサー、中世的で華奢な体を持つ男子生徒の名前である。
「先生が考えていることを率直に言ったまで、それと『そうめん』ってなんだ?」
少し眉を上げて、ミクトが淡々とした口調て言う。
「・・・それは聞き逃してくれ!」
哲明が返した言葉はそれだけだった。
なぜ彼をそう呼ぶか、細い・白い・軽く指圧しただけで折れそう・茹でるとつるつる、素麺の特徴とミクトの容姿を重なって見えたので、哲明が初日で即座に作ったあだ名だ。嫌がらせでつけたんじゃないんだよ。
「逃す、今回は・・・」
表情は無表情に非常に近いが、妙にむっとした表情である。言葉で言い表すの難しい表情といえばいいの?
「語るの、やめた」
短く言を言って、ミクトは自分の教室へ足を運ぼうとした。
階段を上がり終えた哲明もミクトと同じ方向へ歩く、右端の階段なので右側は壁。行く方向が左しかない。
左に曲がれば最初に飛び込むのは、中央階段前に設置してある大きな掲示板に人だかり。何事だと思い、哲明はミクトを追い抜いて人だかりへ向かって早歩き。
「ちょっと、なんだ?」哲明はそういいながら、人だかりの間を割って入っていく。
一番前まで突き進んだ先には当たり前であるが掲示板がある、人が集まっている理由は掲示板に貼り付けてる物だ。
昨日まで今週一週間の予定や部活動紹介などの紙は全部取り払われて、別のものが貼ってあった。写真だ。一枚だけではなくて、掲示板全てを埋め尽くすように貼ってある。
哲明は写真に顔を近づける、視力が無いわけではない、生徒に揉みだされないように身体を掲示板に密着させたのだ。
で、写真に写っているのはこの学校の制服を着ている女子生徒だ、見覚えがある。D組の子であるのは思い出したが、名前がさっぱり思い出せない。思い出したくないだけかもしれない。
写真に写っている茶髪に髪色変えている女子生徒、彼女の背景にも見覚えがあった。高等部・正面玄関、教師・用務員専用靴箱の前だ。
彼女がひとつの靴箱を開けていた、哲明の靴が入っている靴箱だ。隣の写真には、クチャクチャに丸めた紙を中に詰めている。さらに隣には剃刀の刃を包んだ紙では物足りないのか、封筒の中に詰めた剃刀の刃を靴の中に注ぐ姿が映し出されている。
いったいこんな写真をどこから・・・? 哲明は知る術もなく、一個下の段へ目を向ける。
斜めであるがOG組のプラカードが映っている、先ほどの女子生徒が仲間と一緒に廊下側の窓に何か貼り付けている。仲間の横顔は、本当は嫌だけど逆らえないと物語っていた。写真の隣には、「おまけ。こんなの貼り付けたんだぜ、この女」とでかでかと書かれた紙と、陰口で中傷が書かれた紙の束が貼り付けてある。
中傷が書かれた紙束は『おまけ』らしい。
次の写真は後輩を脅して千円札数枚手に取る女子生徒の姿、後ろには怖そうな男子生徒が三名ほど並んでいる。隣は「もっとよこせ」と言わんばかりに、後輩に暴行する写真だ。財布ごと盗られて、「財布を返して!」と必死に叫びながら抵抗している様を思い浮かべると金を奪った者に怒りがこみ上げていく。
勿論の事、眠木の顔面を叩く写真なども掲示板に貼られている。教科書に落書きしたり、机を彫刻刀で文字を刻む姿まで。
にしても、よくここまで写真を写し集めたものだ。
問題は、誰がこの写真を写してここに貼り付けて行ったのか。いやいや、もう犯人は分かっている。自分の担当しているクラス、OG組以外誰もいない。では、OG組の誰がやったって? さすがにそれは答えられません。なんだって、全員が共犯してやっているとしか言いようが無い。
「何これ・・・何この写真!!」
哲明の背後から金きり声で叫ぶのは、掲示板に貼られている写真に写っている女子生徒本人である。
張り付くように掲示板を見ていた哲明を横に突き飛ばし、写真に写る自分の横行を隠すように貼ってある写真を剥がし始めた。哲明は横で見ているだけだが、彼女へ向ける怒りの感情は爆発寸前である。
「剥がすなっ! 隠すなっ!!」
哲明は女子生徒に一喝する。
剥がすのに夢中だった女子生徒・杉崎 美里が、自分の横に立つ哲明にやっと気付いた瞬間。手に持っていた写真を床に捨て、一心不乱に哲明の襟首を掴んだ。
「担任にチクるのみならず、周りにまでチクる気?!!」
「悪い行えは、このように表に必ず出るのだ! 悪事千里を走る・・・まさにこの事だ。それに自分は教師、生徒ではない!」
小鼻をふくらませる美里を、哲明は険しい表情を浮かべながらも真剣な目で生徒と向き合い、怒りを言葉に変えた。
哲明の言う事が気に入らないのか何回も襟首を揺さぶる、しかし哲明はそれだけでは絶対に屈しない。変わらぬ面持ちで向き合っている。
ピンポン、パンポーン・・・放送アナウンスを知らせるチャイムが鳴り、哲明の頭を揺さぶってた美里の手が止まった。
一瞬だけノイズ音が響いたが、スピーカーから流れたのは意外な会話。
『あの先公、二時間目に不祥事起こして強制に家に帰されたって。隣で馬鹿騒ぎすればなぇ〜』
『ねぇ? どうして音光寺先生を追い詰めるの?』
聞こえるのは美里本人と彼女の仲間と思われる女子生徒の声である。
『もう少しでウザい奴が自殺とかして消えてくれると思ったのに、邪魔したのよ〜あの先公は! まずあの先公消さないと、あいつも消せない。あいつを消さないと、わたしのプライドが許せないの!!』
『そ、そうなんだ・・・』
会話の後に笑い声が響く、相手にしている人間は無理矢理笑っているので笑い声がぎこちない。
スピーカーから流れている会話、もちろん校舎全体に流れている。高等部校舎のみならず、他の校舎からも同じ放送が流されると別の生徒が騒ぎ出した。
哲明は後ろを振り向く、人込みにまぎれてミクトが折りたたみの携帯電話をパタンと閉めていた。少し哲明と視線を合わせると、軽蔑にも似た怪しげな笑みを浮かべて人込みの奥へ入っていった。
「なんで・・・昨日の昼休みの会話が・・・?!」
何時盗撮されたのか分からず、襟首掴んだまま目を丸くする。
放送された会話の内容に戸惑う美里。
哲明は「しめたっ!」と言って、自分の襟首掴んでいる美里の手首をがっちりと掴んだ。手首を掴まれて、哲明の手を振り払おうと掴まれている腕を大きく振る。思惑通り襟首放してくれたのはいいが、状況は深刻なものへとなっていた。
大きな声で怒鳴るともっと暴れだしそう、誰か自分の代わりに押さえてくれ〜。哲明は内心そう言い、知らぬ間に念じていた。
すると彼の念が通じたとでも言うのか、電流にも近い痺れが全身を走り、意識だけ遠く飛ばされる感覚が襲う。
ここまで錯覚が強いと五感の機能なんか無いも当然、第六感しか働いていない。
天井と床が逆さま、足元が床についていない、自分の体だけその場に取り残されている、幽体離脱って簡単に出来るんだな〜・・・哲明は思った。
(わたしは天才、わたしのお父さんは大きな会社の社長よ!)
里美の声が聞こえた、先ほど聞こえたヒステリックな声ではない。普通に聞かれる年頃の女子高生の声だ。
気が付けば、哲明は触れている人物心を見ていた。心というより、彼女の過去と言えば適正だろう。哲明の中に流れてくる映像、杉崎 美里が過ごした約十七年の人生。しかし哲明が見ているのはほんの一部に過ぎない。
最初に見えてきたのは掲示板に張られている学年成績表、一年一学期の期末テストの成績結果であった。自分の成績結果を見るために生徒が集まる、その後ろで哲明が立っているような形だ。
成績一位の横に書かれている名前、一年C組・杉崎 美里。
(今回も里美がトップかよ)
表を見ている男子生徒の一人が、隣に立っているクラスメイトに言う。
(すっごーい! やっぱり金持ちは中身も違うんだ)
(けど、最近やばい連中と関係持っているって噂・・・本当かな?)
(しらな〜い、本人に聞けば?)
内容はとにかく、生徒たちの何気ない会話が掲示板の前を賑やかにする。
彼らの会話など耳には入れていない、自分の成績に満足する美里の後ろ姿が確認できた。
常に自分が強者でならなくてはいけない、成績も容姿も性格も誰よりも目立つ存在になりたいと背中が語る。誇らしい少女の背中を哲明は触れる、哲明の意識に混ざって穏やか流れてくるのは彼女の家庭環境。
世界でトップクラスの企業と並ぶ会社を持つ両親に恥じない英才教育、習い事や塾なんか当たり前の生活、同年代の子供と遊んだ記憶なんかないに等しい。勉強や習い事が遊びのように見える、外で遊ぶ人間なんか「何やっているの?」と首を傾げてみていただろう。
それが勉強より楽しい事だと知ったのここ最近、次第に勉強・習い事をサボって街中を遊び歩く日が多くなった。
流れてくる映像の中でいじめのきっかけが見えなかった、哲明はもっと探ろうと思ったとき風景が反転した。洗濯機の中に放り込まれた感じだ、グルグル回って風景が混ざっていく。回転が速くなって眩暈がする、あ・・・吐きそう。
口を押さえて床に跪いた。
(嘘でしょ?!!)
少女の叫びで哲明は顔を上げた。
グルグル回っていた風景が元通り、しかし外に植えられている木は茶色く枯れ落ち、寒さが校内を包む。立っていた場所は同じなのに、季節だけ大きく進んでいた。
掲示板に張ってある成績結果、一年二学期・期末テスト成績表。
一位の横に書いてある名前は、眠木 優香子。
四位に杉崎 美里の名前が表記されている。
(あ〜あ・・・やっぱり地道に頑張っている奴にかなわないか)
(美里さん、これでもう少し態度改まってくれるといいけど)
(常にえらそうな態度だからなぁ。けど、陸上部・二年生のブレステル先輩は杉崎よりすごいから慣れているけど)
掲示板に集まっている人の声。
散々遊びほうけて勉強する時間を減らした美里は、地道に努力した眠木に負けた瞬間だ。一学期に眠木の名前は学年一八位だったのに、目覚しい成長を遂げていた。
ちなみに二位はOG組の学級委員長・穂積 由香里、いい成績を残した彼女がなぜOG組に編成されたのか現地点では謎である。
これを見ていると「ウサギとカメ」の話を思い出した。
歩くのが遅いカメを鈍臭いと侮辱したウサギ、侮辱されたカメはウサギにかけっこ勝負を申し出てウサギは自分の勝利を確証した上で勝負を挑んだ。山のふもとまで先に着いた方が勝ち、誰もがウサギと思うがこの童話は誰でも知っている、勿論どっちが勝利したかもしっかりと覚えているさ。
たぶん知らない人もいるかもしれないので続きも加えておく。ウサギは余裕でカメを追い抜き、どんどん距離を離していった。しかし油断か情けか、ウサギはカメの姿が見えるまで居眠りを始めたのさ。
いざ目覚めると、カメの姿はいっこうに見えない。見えるはずが無い、カメはウサギを追い抜いてふもとへ到着していた・・・これが大体の内容である。
今見ている光景は、まさに「ウサギとカメ」の話を人間と学力に変えただけに見えてきた。
が、問題はこの話の続きである。
「ウサギとカメ」には続きがあり、カメに負けたウサギは恥晒しだという事でウサギ仲間から追われてしまったが、仲間のウサギ達を狙うオオカミを知恵を使って見事撃退し、名誉挽回するという話らしい。
では、目の前に展開する話の続きはいかなものであるか?
納得のいかない結果に苛立ちを募らせる美里の肩に、哲明はそっと触れた。
――私が一位じゃない・・・よりにもよって、こんな鈍臭い奴に一位取られるなんて・・・。私が完璧なのに、完璧じゃない奴に負けるなんてありえない! きっとカンニングしてわたしを一位の座から落としたに違いない、サイッテー、マジ殺したい。・・・そうだ! 徐々に追い詰めてやろっと、そうすれば自殺してくれるって。転校なんて逃亡手段使わせないから、絶対に! 追い詰めて追い詰めて、死んでしまえ!
いまどきの女子高生とは思えない、狡猾かつ自分の非を棚にあげた考え方。湧き上がる私怨に先ほどとは違う気持ち悪さが湧き上がる。
自分が悪いのに他人に擦り付け、自殺まで追い込もうとした態度が気に入らなかった。社内で一番偉い父親や教育に厳しい母親から逃げたかったからって、遊びほうけて努力を怠った人間が、何甘ったれたこと言っているんだ?!
美里の肩に置いた手をグッと強く掴み、こちらへ向くように引っ張った。こちらへ顔を向けた美里に、哲明は美里の肩を掴んでいた手の平を右頬めがけて横へ振った。
肉を叩く乾いた音が廊下に、掲示板前に集まる生徒達の前に響く。
背景は二年生掲示板前に戻っていた。
「このっ・・・馬鹿者!!」